ここは藍州一の妓楼。 陶器の割れる音が入り口からして、野次馬根性溢れる酔っ払いたちが勘定台の所で起きた諍いに集まる。 相対しているのは官吏らしき神経質そうな男と、身なりのいい帯剣した少年。 男の方も帯剣した数名の随身を連れていて、彼らは今にも剣を抜きそうな気配だった。 少年の年は十二、三くらいだろうか。 短髪に切れ長の目をした美少年だ。 大の大人を前にして異様な落ち着きを見せている。 左手は剣の鞘に触れているが、抜き放とうという気負った素振りはない。 「だからてめぇにはきっちり落とし前つけてもらわなきゃ帰さねぇって言ってんだろ。てめぇ、ここの女の顔に傷つけたの忘れちゃいねーよな?そんなに女が欲しけりゃ自分の性癖にあった自分だけの女を見つけな。ま、誰も相手にしないだろうがな」 ポンポンと辛辣な言葉を並べる少年に男は肩を震わせて激昂する。 「黙れ!貴様のようなガキに言われる筋合いはない!大体何故こんなところにガキがいる!」 「俺はここの非常勤用心棒」 「はっ、ガキが何をほざく」 男が鼻で笑うと、何かしら少年の地雷を踏んだらしい。 広間に響く声でひとしきり笑った後、低い恫喝。 「ガキガキうっせえんだよ!てめぇみたいのがいっからいつまで経っても大人がナメられるんだ、青二才が!」 一瞬場が静まり返った。 三十代の男が十代の少年に青二才呼ばわりされる。 「おい、小僧、口のきき方教えてやるよ」 「んなもん知ってるさ。ただ客や上司に敬語使ってもカス相手にはつかわないと決めててね」 「この…………!」 随身の一人が、乱暴に剣を引き抜いた。 抜き身の刃が光を弾いて、野次馬達は数歩下がる。 「抜いたな」 少年も右手を柄にかけて身を屈める。 「先に抜いたのはそっち、つまりこれは正当な仕事だ。かかってこいよ、二度と花街に足踏み入れられないようにしてやる」 残りの随身が皆、鞘鳴りの音を響かせて剣を抜き放つ。 少年はまだ、抜かない。 相手のひとりが上段に剣を振り被って初めて少年は柄を引いた。 しゃっ、と音を立てて銀の鈍い光が随身の開いた脇腹に吸い込まれる。 がはっ、と息を吐き出した随身の横を抜け後頭部に柄を叩き落とす。 悶絶して倒れたその男には目もくれず、もう三人に視線をやる。 くい、と顎で挑発すると、案外簡単に乗ってきた。 筋肉バカにはなりたくないものだ。 少年が残りの随身を倒すのに、何分もかからなかった。 思いもよらない強さに、まわりの男たちは囃し立て、問題の客は顔面蒼白で突っ立っていた。 「ご苦労だったね、ランラン」 上の階から少し掠れた艶美な声が聞こえ、それを裏切らぬ美女が姿を現す。 階の手摺に凭れるその動作すら、一つ一つが絵になるほどの美しさだ。 藍州一の妓女を幸運にも目にすることが出来た客たちは、ほうと感嘆の息をつく。 ただ一人、特に心奪われる様子もなく応じたのはやはり少年だった。 「そう呼ぶなって言ってんだろ、睡蓮の姐貴」 睡蓮、そう呼ばれた美女は突っ立ってる男に蟲惑的な流し目を送り、唇だけで笑む。 「ふふふ、分かってるよ。からかっただけさ。…………で、こいつかい?蘭玉の顔に傷をつけたのは」 「ああ、陶器の皿で額をぱっくりやったとよ」 睡蓮の瞳がすっと眇められて、睦言を囁くかのような甘い声が漏れる。 「随分なことしてくれたねぇ。金で買ってもあんたの女じゃないんだよ。…………連れていきな」 裏口から屈強な男達が現れて、抵抗する気力も失せた男を引き立てていった。 「ご苦労だったね、上階にあがっとくれ。今日はあたしの座敷に来る奴はいないから」 「んじゃ、遠慮なく」 睡蓮の一夜を買うためにどれだけの男が金を積み上げてきたのか知っているのかいないのか、少年は手ぶらで一番豪華な座敷へと姿を消した。 睡蓮の酌で酒を味わう。 「俺を雇うより、あの裏口の門番を用心棒においた方が良いんじゃないか?」 「まあ、そうかもしれないが、店の中に置いとくなら厳つい奴より、紅顔の美少年のほうがいいだろう?。今ではあんたの剣技を見に来る客もいるくらいさ」 「剣技、ね」 すらりと椅子にかけた状態のまま剣を抜いたは、刀身で自分の足をペタペタ叩く。 「何より店を汚さずに片付けてくれるからいい」 のそれは磨いていないただの鉄の塊だった。 ナマクラというわけではなく、装飾や輝きは本物のようだが、造る過程において刃をいれていない。 先端は厚みをまして丸みを帯びており、これでは突いても引いても血なんか出るわけがない。 鉄の定規でぶったたくようなものだ。 「そんなもんぶら下げて、藍家のお坊ちゃまが来るんだから、そりゃあ最初は驚いたさ」 あの日は客同士が揉め事をおこして乱闘になりかけていた。 一触即発の空気の中、その声は突如として響いた。 『人が話しかけてんのに無視してんじゃねえっ!』 人ごみが分かれて声の主のために道を開いた。 『ここの旦那は?』 少年は悠然とそこを通り過ぎ、諍いあっていた客の間を抜け、勘定台に肘をつく。 『旦那ならいないよ。ここはあたしの店さ』 今日のように睡蓮は客の騒動を聞きつけて上階から降りてきたところだった。 すっきりした美少年と妖艶な美女の視線が絡み合う。 『へぇ、お姐さんの。ちょうどいい、俺をここの用心棒として雇っちゃくれねぇか』 「最初はなんて口の悪いガキだろうと思ったよ」 の短い髪に指を通して小さく笑う睡蓮。 「聞けば藍家のお坊ちゃまが賃仕事探してるっていうじゃないか」 「色々と旅の支度をね。ここなら金も稼げる、場慣れも出来る。最高の職場だ。でも一番幸せなのは睡蓮みたいな美女に注いでもらった酒をこうして飲めるってことかな」 はくい、と杯を干して艶やかに笑う。 詐欺だ、と睡蓮は内心思った。 最初にあった時は、小柄な十四、五だと思った。 言動、度胸が子供のそれより厳しく、強かだった。 だからあの場では試すように言った。 『じゃあ、そこの無粋な男どもを叩き出せるかい』 は数分かからず門前に気絶した男どもの山を積み上げた。 それから二ヶ月ほど夜中の用心棒を任せて、がまだ九歳だと知った。 少なくとも十二はいっているだろうと思っていただけに、その驚きは凄まじかった。 九歳で酒の味が分かるとは。 確か茅炎白酒で客と飲み比べをしていたこともあるように思う。 「口が巧いね」 「生憎、俺は心中だだもれらしいがな」 すました顔でそう答え、卓の上に杯を置く。 頃合いを見て、睡蓮は金の入った巾着を取り出した。 それほど重くない音がするそれを、は中身の確認もせずに受け取る。 「本当にそれっぽっちでいいのかい。なんなら日当にしてもいいんだよ」 「いや、俺も毎日来れるわけではないし、何もなかった日まで払うのは馬鹿らしいだろ。だから相手一人につき銀二両で十分だ」 営業マンも歩合制だったしな、とは懐に巾着を突っ込んで、立ち上がる。 「何もなかった日にも酒を飲ませてもらってるだろ」 「それでも足りないねぇ。普通なら二十両はぼるもんだよ」 「小遣い稼ぎさ。それに、睡蓮と二人っきりで酒を飲むのは銀二十両より遥かに価値があると思うけど?」 相手を陥落しようとしてではなく、素で女の喜ばせ方を知っている。 本当に外見と中身がちぐはぐだ。 睡蓮の座敷を惜しむ素振りすらなく、帰ろうとするの手首を睡蓮が絡めとった。 「だだ酒を飲むだけじゃなくて一晩どうだい」 差額分だけまけてあげるよ、と妖艶にを抱き寄せる。 大抵の男なら色気に眩んでしまうようなところを、は真剣に返す。 「まけてもらっても、今まで稼いだ金が一夜に消えるな。遠慮しとくよ」 するりと腕からすり抜けて、それに見た目は子供だし、と付け加える。 睡蓮はしつこく迫るようなことはしなかった。 誰が突撃しても、は是、と言わない。 想い人がいるのか、女に興味がないのか。 誰も知らないまま誰も聞かない。 妓女の中で密かな人気があるのも知っていた。 想うだけなら自由だ。 決して手の内に入ってこないことを覚悟しているなら。 しかし、の内心はというと。 (あっぶねえぇ!鼻血出るかと思った。姐さんフェロモン出し過ぎだろ。いかん、いかん。俺はもう四十三、中年エロオヤジにはなるまい。キャバクラ通う部長を見ていた女性社員の目が自分に向けられるのはイヤだ!) 必死に戦った理性の勝利だった。 |
2009/07/12 移動 |