ある日出会った迷子と僕

音の記憶



は絶好調で街中を歩いていた。
るんるんと音がつきそうなほど軽快な歩調で、二歳児がゆく。

先日、琵琶の爪をもらったばかりで、どうしても上りきったテンションは落ちそうになかった。

「よう、くん、ご機嫌だな!」
「八百屋のおじさん」

すれ違い様に陽気に声をかけてきた男性に、は足をとめて振り返る。
男性はの頭をぐりぐりなでると、手押し車から瓜を二個ほど手渡した。

「いいの?」
「ああ、今年は気候がよくて豊作なんだ。紅師によろしく言っといてくれ」
「うん、ありがとう」

はいつも首に大きな布を巻いている。
広げればを頭からすっぽり隠してしまえそうな大きさで、街で手に入れたものを包む風呂敷として活用されている。
何故だかが一度街にでると、必ずといって何かしら貰うのだ。

貰った瓜を風呂敷に包み込んで、よいしょ、と背負いあげた。
結構な重さで、これからまだふらふらする予定だったのを帰宅に変更した。

「おもいー、おもいー」

はあはあ言いながら何とか歩を進めて、何回か角を曲がったあと、ハッとは気がついた。
あまりの重さに歩数を数えるのを忘れてしまった。
完璧な体内時計を持つは、意識をそらしても計り間違えることはないが、歩数は別だ。
ふらふら歩いていたら歩数も角も間違えるだろう。

「………………ま、迷子になっちゃった」

しかも街の喧騒が聞こえないということは本当に見当違いの方向に進んでしまったのかもしれない。
サーっと青ざめたの頭の中に選択肢がぽんぽん浮かび上がる。

一、動かないで人が通りかかったら道を聞く。
二、当てずっぽうに元来た道を戻ってみる。
三、取り敢えず突き進んでみる。

悩んだ結果、はその場で人が通るのを待つことにした。
夏の日差しがじりじりと照りつける中、日陰を求めて道脇に座り込む。

耳だけは人の足音に注意を向けて、瓜の包みを下ろして肩の力を抜く。

「父様たち探しに来てくれないかなぁ」

が出掛けたのは知っているだろうから、遅くなっても帰って来なかったら探してくれるだろう。
完璧な体内時計がただ過ぎる時間を計っていく。
日差しを避けているから日射病にこそならないが、午前中の散歩の疲れが押し寄せてきた。

は自分でも知らぬ間にこてん、と横になり、そのまま夢の世界に旅立ってしまった。




映像という情報を一切持ち合わせていないの夢はどこか奇妙なものばかりだ。
反響音で立体の形を知っていても、景色全てがわかるわけがない。
色もわからない。

夢の中でもは現実通り、触覚と聴覚で周りを知るしかなかった。


ぎい、ぎい。

が座り込んだ鉄の板がぎしぎし揺れ、両手に握った鎖が錆びた音を立てる。
これはブランコだ。
板の上に立ち上がってブランコの鎖を辿ると、それはどこにも繋がることなく途切れる。
いつか聞いたマジシャンみたいだ、と思いながらはブランコに再び腰を下ろす。

ここまでが、が知覚したブランコというもの。
この手にある鎖がどこに続いているのかなんて気にも留めなかったし、きっと知覚の範囲がこんなに狭いのはまだ五感を使うのに慣れていなかった幼い頃に知覚した記憶そのままだからだろうか。

確かに四・五歳を最後にブランコには乗ってない。


――――!」

誰かを呼ぶような声とぱたぱたと軽い足音がして、その音はの前で立ち止まった。

「ここにいたのか、慧」

この声、随分懐かしい。
昔の記憶、音だけの記憶。
を慧と呼んだ人物は、彼が一番大切だった兄。

「帰るぞ、ほら」

前の人物が背中を向けてしゃがみこんだのを感じ取り、は素直にその背に負ぶさる。

「おにいちゃん」

自分の口から幼い声が勝手にでて、は慧の中から過去を見ているに過ぎないということに気がついた。

「どうした?」
「……………迷子になっちゃったの」

覚えのある場面だ。
母親がご近所の人と喋っている間に、慧は兄のいる小学校を目指して勝手に出てきた。
兄の入学式に母に手を引かれて行ったくらいでは、道を覚えているはずがなかった。

「そういう時は兄ちゃん待って、じっとしてろ。母さん慌ててたぞ。後でお説教するからな」
「…………………ごめんなさい。探した?」
「そりゃ、走り回って探しまくったよ。帰って来たら母さんがリビングでヒステリックになってて、マジびくった」

じんわりと汗の滲む肌に、兄が言葉通り走り回って探しまくった事がわかる。

「どこに行っても見つけてやっから。お兄様を舐めるんじゃねぇぞ」
「……………うん」

は兄の肩に額を押し付け、小さく返事を返した。
まだ、見えないことへの恐怖心があった小さな――――慧は、この背中こそが命綱としがみついていた。


ガサガサと藪を掻き分けるような音が聞こえて、はサッと身を起こした。
寝ている間も慧の体内時計は動いている。
太陽の位置などで時を計れない分、優れた性能を誇る。

眠りについて一時間と二十三分ほどたっているようで、その間に誰も通らなかったのか、と少し落胆する。

ガサッとまた背後から音がした。
随分中心部から外れて、どこかの空き地に来てしまっているのかもしれない。

茂みから出てくる物に色々想像を巡らせ、は身震いした。

がさがさ。

びくびく。

がさっ!

びくうぅっ!

茂みを掻き分ける音がやんで、は聴覚を研ぎ澄まして待ち構えた。
茂みを向いても見えやしないは体を硬くして、茂みに背を向けたままいつでも走り出せるように瓜の包みを背中に結びつける。
傍目から見れば子ウサギがびくびくぷるぷる震えているようであった。

「おい、」

とん、と肩に手を置かれて、とうとうは我慢出来なくなった。

「うわあああぁん!!お兄ちゃーん!」

は思わず夢の続きで幼児返りして、ここにはいない兄を呼び求めてしまった。
瓜の包みを背負って脱兎のごとく逃げ出しただが、瓜の重さと気の動転に負けて、いつもなら避けれるような小石に躓いてすっ転んだ。

「ぎゃっ!い、いたい………」

手のひらをひどく擦りむいたは、そのままそこでめそめそし始めた。
精神年齢16+15+2歳とは思えない幼さである。
琵琶に関すること以外は幼児返りどころか素で幼児なだった。


「お、おい、大丈夫か?」

の二の腕を掴んで立ち上がらせたのは、先ほど突然声をかけてきた人物だった。

声から感じ取れるのは、声変わり真っ最中の十を幾つかこえたばかりの少年で、が想像していたものとは全然違う。

「だ、だれ」
「誰って………そっちこそ人を化け物みたいに」
「だって、変なところから出てくるんだもん!」
「う。まぁ、いい」

気まずそうに咳払いをした少年はの服についた土を叩いてやる。

「俺は李絳攸。お前は?」
「紅
「こ、紅!?」
「え?知りあい?」

少年、李絳攸はさーっと青ざめた。
その名前は自分の養い親が琵琶を手にいつも怪しく笑いながら呟く名前だ。
同姓からして親戚、養い親が壊れるのはたいてい兄一家絡みだと百合様が言っていたから甥か何かだろうとは思ったが、とても聞けるような雰囲気ではなく、絳攸の中で謎の存在として認識されていた。

目の前でうんうん唸りながら思い出そうとしている子供こそがその張本人。

「いや、知っている人を知っているというか………」
「変なの」

口ごもる絳攸には歯に衣着せぬ物言いを返す。
苦手だ、と思ったのも束の間、両手のひらからダラダラと血を流すを見て再び青くなる。

「血が出てるぞ!」

その手を取って、そっと触れると、が痛い〜、と喚いた。
深い傷というよりも表面をヤスリでこすったように平面に広く皮がむけている。
自分には責任がないことと思いたいが、驚かせてしまったのは非があるし、後で養い親が怖い。

「家はどこだ?」

絳攸が聞くと、は恥ずかしそうに首を竦めて迷子なの、と答えた。

「絳攸さんのお家は?」

そう聞き返されて、絳攸は自分が茂みの中から出てくるに至った経緯を思い出した。
言い淀んだ絳攸の様子から、は一つの答えを思いついた。

「もしかして、絳攸さんも迷子?」
「ま、迷子じゃない!道が変わっていたんだ!」

もしに視覚があれば、真っ赤になった絳攸を見ただろう。
それを見ずとも声の動揺や言い訳から察することができるだろうが。
手のひらに手巾を巻きつけて、どこかで洗うぞ、と手を引いた絳攸につられて、はたたらを踏む。
手首を掴まれたまま、はその場にぺたんと座り込んだ。

「膝も痛い〜……」

絳攸が言われて膝の部分の衣服を捲ってみると、こちらも擦れて真っ赤になっている。
痛い痛いと繰り返すに溜め息をついて、絳攸は背を向けてしゃがみこんだ。

「ほら、負ぶされ」

見た目以上にぺらぺら喋るからどれだけ大人っぽいのかと思いきや、行動は年相応の子どもらしさだ。
えぐえぐと愚図るを背負って絳攸は立ち上がる。
瓜の荷物は絳攸が前に結び付けて持つ。
二歳児のに重いものでも、十二、三の絳攸には苦にならなかった。

「お前、来た道覚えているか」
「…………覚えてたら迷子にならないよ」

至極もっともなの発言に、絳攸は確かに、と頷いて、仕方なく歩き出した。

「ねぇ、途中で人に聞けばいいじゃない」
「ばっ!迷ってないといってるだろう!」
「だから僕は迷ったの。僕が聞くから」

頑固な絳攸の背から、が言う。
見かけよりは賢しくて、でも幼子のように直球なに絳攸は閉口したようだった。

「あ、人だ」
「え、どっち?」

道の向こうにポツンと見えた人影を見て、絳攸は声を漏らす。
同じ方向を向いているにもかかわらず、首を巡らせるに違和感を感じながら、まっすぐに指さす。

「通りの向こう。歩いてきてるだろう」
「ああ、遠くて分からないや」
「遠いって…………」

確かに距離はあるが、そこに人がいるというのはかろうじて分かるような距離なのだが。
横に振り向けば、絳攸の右肩に顎を乗せているは瞳を閉じている。

「目を閉じていて見えるわけがあるか!」

呆れて拍子抜けしてしまった絳攸に、はぱちぱちと瞬きを繰り返すと、ああ、と納得したように頷く。

「僕ね、目が見えないんだ」
「えっ!?」

意表を突かれた発言に絳攸はぐるんと、首を巡らしての横顔を見つめた。
さっきの逃げっぷり(すぐに転んだが)や話している絳攸に向ける顔などからはとてもそんなことは気づけなかった。
長い睫毛が伏せられて糸目になっているけれども、それが盲目ゆえに目を閉じているのだとは思わなかった。

「そう…………か」
「うん、そう」

特に何でもない事のように言ったは身ぶりで絳攸から降ろしてもらう。
とん、と触れた地面を通して、人の足音が体の中に響いた。

「うん、来てるね」
「足は大丈夫か?」
「大丈夫だよ」

てくてくとまっすぐ歩いていく様は盲人とはまるで思えない。
絳攸は瓜の包みを背中にまわして、自分の腰下ほどの背丈しかないの横に並ぶ。
二人の迷子はようやく帰路への手がかりを見つけた。


「ここが黄東区だったとは………。最初の曲がり角で逆に行っちゃったんだな、うん」

現在地を教わっただけで何か納得している様子のだが、絳攸は心配でならない。
二人を兄弟だと思い込んだ親切な通りすがりの人は目的地まで送っていってあげようか、と言ってくれたのだが、はそれを断って自信を持って歩き始めたのだ。

の少し後ろをついていくように歩くと、街の喧騒の中に戻った。


「ここが黄東区に繋がる市なら、紅南区はこっち!絳攸さんは何処に行きたいの?」
「………………王城」
「お城かあ…………ごめん、行ったことないなあ」

首を俯けたに、絳攸は慌てて気にするな、俺は迷っていないとあくまでも迷子を否定して言った。
実は絳攸は現在地から自宅への位置関係も分かっていないのだが、自分が迷子だというのことを認めようとしない。
の手に瓜の包みを返し、意地を張って内心を押し隠し颯爽と去ろうとしたところ、に呼び止められる。

手の上に瓜が乗せられて絳攸はの顔をみた。

「お礼。決して瓜が重くて二つ持って帰るのヤダなーとかいう魂胆じゃないからね」

ある意味自白しているに笑みを漏らして絳攸はそれを受け取った。
受け取ってすぐにちょいちょい、と手招きをされての目線に合わせてしゃがむ。
耳元にぼそぼそと何事か囁かれて、絳攸は仰天して距離をとった。

は悪戯めいた笑みを浮かべてくるりと軽やかに身を翻す。

「もし家に帰りつきたかったら、その瓜持ってそう言うといいよ!」

まるで物語の中で主人公を導く仙人のように助言を残すと、は盲人とは思えない足取りで姿を消してしまった。
残された絳攸の右手には瓜が一つ。
日も暮れ始めていて、このままでは奥方に頼まれたお使いも果たせないと思った絳攸は、に言われた言葉を恥を忍んで、それはもうわざとらしく大きな声で言った。

「ああ、に瓜をもらったけれども帰り路が分からない。これは食料にしてしまおう。自分だけで食べてしまおう。から貰った貴重な瓜は誰にも――――うわっ!」

後頭部をいきなり何かで強打されて、絳攸は振り向く。
背後には意匠を凝らした扇が落ちていて、飛んできたそれのもとを推測して視線をやると、絳攸はあるはずのないものを見た。
奥方から宮中にいる養い親へとのお使いの途中だったのに、絳攸がたどり着くべきその人が横道からギラギラ光る視線を送ってきているのはなぜか。
遠目ながら、絳攸の手にある瓜に一心に視線が注がれているのを見て、の言葉を理解した。

『家に帰れないからこの瓜は自分だけで食べてしまおう、誰にもあげないっていったらきっと家に連れて帰ってくれる人に会えるよ!』

はあの人がこちらの様子をうかがっているのに気づいていたのだろうか?
そもそも自分があの人の養い子であり、なおかつあの人が自身の血縁で、兄馬鹿であることに気づいていたのか?

自分は名前しか言っていないのに?

あの無邪気な幼子が、今こちらを射殺さんばかりに見ている人の血縁ということを思い出して、背筋がぞーっとする絳攸だった。



「ただいまー!」

無事に帰りついたを待ち構えていたのは門前に仁王立ちした静蘭。

「お帰りなさい、若様。随分遅いお帰りで」

恐らく笑んでいるであろう表情ながら冷たい声の静蘭に、は表門から堂々と帰宅したことを後悔する。

「やだな、別に朝帰りとかじゃないよ?」
「当たり前です、二歳児が何言ってるんですか!」

くわっと静蘭の目が見開かれた時の表情をが見えなかったのは幸いかもしれない。

「昼食の時間になっても帰ってこないと思ったら、両手に怪我して帰ってくるなんて!」

まず手当てです、そのあとにたっぷりお説教して差し上げます。
そう言った静蘭には拾われた当初の一線引いた態度はかけらも見えない。


「ねぇ、静蘭」
「何ですか?」

掌についた汚れを濡れた手巾で拭きとりながら、静蘭は顔を上げずに答える。

「お兄ちゃんって呼んでイイ?」

・・・・・・・・・・・・・・・・は?

「あ、兄さんでもいいよ。兄様は駄目ね、そう呼んだことないから」

あまりにも突然過ぎる言葉に、静蘭は固まるしかない。

「でも今の年齢の僕としてはお兄ちゃんって呼びたい気分なんだよね」
「………………駄目です」
「えーっ!いいじゃん」
「若様は私が兄だったらよかったとお思いなのですか」
「え…………っ?」

静蘭としては何の意図もなく聞いた言葉だったのだろう。
しかしはその言葉に動きを止めた。

「……………ちがう」
「え?」
「静蘭は静蘭だ。…………ごめんなさい」
「謝られることでもないんですが」
「とっとく」
「は?」

傷口に布を巻いていた静蘭は上から真剣な声が聞こえて、思わず顔を上げた。

「会った時のために、とっておく」

多分聞いても答えてはくれなさそうな表情を見て、静蘭はただ、はい、と答えた。

「さて、手当も終わりましたからお説教です」
「えーっ!今更ーっ!?」
「そう言ったでしょう。逃がしませんよ」

は静蘭のお説教が、かつての兄のように短期集中型であることを祈った。
何時間もぐちぐち言われては溜まらないもん、と思うだった。


2009/08/09  移動