我、然諾を重んず
まだ日も昇らぬ時刻。 朝の厨房は戦場となる。 母、露樹が汁物を用意するかたわら、は見事な手さばきで魚をおろして切り身にしていた。 姫飯の釜が音を立て、そちらも手際よく竃からおろし、桶に移していく。 切り身を網焼きにして、一人前の膳に乗せていく手際など、露樹よりもよい。 「すっかり上手になりましたね、冬華」 「ありがとうございます、母上」 「次は繕い物を覚えましょうね」 「うっ………はい」 実は、漢詩も和歌も、書も楽も、料理も洗濯も完璧丁寧に行うのだが、針仕事に関してのみ、非常に男らしい。 片付けなどはどれだけ時間がかかっても丁寧にやるくせに、針仕事だけは忍耐力がない。 母曰く、大事な殿方が出来れば変わるとのことだが、そんな事になったら精神ホモだ、と内心ぼやいている。 試しに何度か昌浩の衣でやってみたが、大切な兄でも結果は変わらなかった。 取り返しのつかないことになりそうな衣を手に、母の部屋に駆け込んだのは記憶に新しい。 吉昌と晴明に膳を出し、昌浩を起こしに行く。 の一日はいつものように始まり、いつものように終わるはず………だった。 今日は宿直らしい吉昌を送り出し、は自室にて言われたとおり縫い物の練習をしていた。 失敗してもいいように幼少期の衣を使っている。 の室は母屋から少し離れており、幼少期に使っていた所ではない。 大きくはないが、透渡殿で繋がったちゃんとした対屋である。 これは年頃の娘がよく人の訪ね来る母屋にいるのは辛かろうという安倍家総意の結論なのだが、本人は1人でいろいろやるのは好都合とありがたく受け入れた。 今はその西廂で肌寒い神無月の風を感じて必死に縫い物をしていた。 「あの……冬華様、お手が」 「うるさい」 布を接ぎ当てて縫い合わせるだけなのに、衣にはひどい皺が寄り、の手からは血が流れていた。 はらはらと心配げに控えているは手当てしようにもさっきから不機嫌に一蹴されるだけ。 でも恐らくこの負けず嫌いな主人は、どのような形ででも、これをやり終えない限り手の傷を癒やそうとはしないだろう。 常日頃から思っていることではあるが、この主人は男らしすぎる……とは溜め息をついた。 棘のある枝も鷲掴み。 蜂が出ようが蛇が出ようが泰然と構えて、扇で一打ち。 ある夜はこっそり抜け出して貴船山まで式で作った鳥に乗ってひとっ飛び。 本当の貴族の子女にはお目にかかったことはないが、少なくとも何かが違う気がする。 が本日何度目かの溜め息を零した時、室内に神気が現れた。 たいして驚いた様子もなく、は俯いた顔を上げて紫苑の双眸を見上げた。 「…………太裳」 「晴明様がお呼びです。ああ、その前に」 すっと恭しくの手を取り上げると、痛ましそうに針の傷に触れた。 「お教えしましょうか、針仕事も。こう見えて手先は器用ですから」 「教えていただくのは言葉だけで結構ですわ。後ほど母に教わります故」 は何があったのか知らないが、太裳を前にすると、の被る猫は二倍になる。 「、二階厨子より薬箱を取って下さいまし」 いつもと違う主の口調に、はムズ痒い思いをして、の指先を手当てした。 「どなたがおいでになっていらっしゃいますの?」 少し前に牛車が安倍邸のまえに停まったことから来客には気づいていた。 「右大弁と蔵人頭を兼ねておられる、藤原行成様です」 「そのような方が、わたくしに何を………。すぐに参りますとお伝え下さいませ」 太裳が応えて姿を消すと、はに命じて身なりを整えさせる。 「何故、太裳を使いに寄越すんだ、おじい様は」 不満を漏らす主には扇を持たせて――――ちなみに二度ほど虫を仕留めている百戦錬磨の扇だ――――妻戸を開けて送り出した。 の室は祖父と正反対の位置にあるため、急がなければならない。 すり足で簀子を進み、祖父の部屋の前で膝をついた。 「失礼致します、冬華にございます」 「入りなさい」 室内には祖父と、直衣姿の若い男性がいた。 年頃は長兄の成親より少し上か少し下か、まあとにかく年若く温厚そうな面持ちでこれがあの三蹟の藤原行成かと失礼にならない程度に顔を眺めた。 「何かご用でしょうか」 が下座に腰を下ろして尋ねると、晴明はに対して何の説明もすることなく、話し出した。 「これはわしの末孫、冬華と申しまする。どうですかな、条件は満たしていると思いますが」 表情は落ち着いたまま、嫌な予感がの背筋を這い上った。 「覚えも早い。五節の舞姫の大役も果たせましょうぞ」 の冷静な頭脳は、数秒の空白の後、一時混乱を極めた。 (………舞姫?森鴎外の?いや、有り得ない、五節の舞姫と言ったら新嘗祭の?) 「舞……姫?」 「さよう」 視線で説明を要求するも、晴明はどこ吹く風。 「冬華殿。私は晴明様に五節定めの件で伺ったのだが………」 「五節定めと申しますと、新嘗祭のことでございますね」 面と向かって会話することになんの躊躇いもないは、体の向きを変えて行成を直視した。 「今年、光栄にも舞姫を召し出す家と選ばれたのだが、お上が仰るには四季の名の姫を召し出せとのことで………あいにく知り合いにそのような名を持つ人はおらず、こうして晴明様に占じていただこうと伺ったのだ」 行成の言を晴明が引き継ぎ、昌浩が見たら狸!と言いそうな顔で続けた。 「行成様が受け持っていらっしゃるのは“冬”でのう、“秋”もそうじゃがなかなかつける者もおらん」 じゃあ、あなたはどうなんですかと聞きたいのをぐっとこらえ、は話の続きを待った。 「なんとも奇遇なことにわしの孫には冬華という娘がいると話しておったのじゃ」 まるでから答えを言わせたいかのように言葉を切る晴明に、も内心、狸め、と毒づいた。 「つまりは、私に冬の姫を務めよと仰りたいのですね」 「おお、言い出しにくいことに自ら気づいてくれるとはなんとも聡い子じゃ。引き受けてくれるか、優しい子に育ってくれてじい様は嬉しいぞ」 わざとらしい嬉し涙には半眼になりながら、行成を見た。 「新嘗祭まであまり日もない、無理を承知でお願いしたい。どうか、舞姫を務めては貰えないだろうか」 真摯な口調で頼み込んでくる行成には静かに口を開いた。 「わたくしは藤原の血を引きませぬ。それでも行成様の家が召し出したとのことになるのですか」 「召し出す家と言っても必ずその一族でなければならないという決まりはない。晴明様は蔵人所陰陽師ゆえ、位にも問題はない」 行成の返答に頷いて、再び口を開いた。 「ではもう一つ。わたくしの年の頃では童女として出るのが常では?」 「………確かに裳着前の舞姫とは異例だが、決まりではない」 何だか決まりの抜け道をくぐっているような気がしないでもないが、決まりというのは必ずや綻びがあるものなのだ。 それを理由にぐだぐだと駄々をこねるような真似はしたくない。 それに、祖父が認めた時点で殆ど決定なのだ。 何を言おうと結局は押し切られるに違いない。 腹をくくったは行成を見据えて口を開いた。 「分かりました、及ばずながらもお引き受け致しましょう」 「ありがとう」 舞姫としてかかる全ての費用を行成が持つと約束し、は明日から行成の邸に招いた舞の師のもとでふた月もない残りの時間をあてることになる。 新嘗祭。 霜月の中の丑の日から始まり、四日に渡って往く年の収穫を感謝し、来る年の豊穣を祈願する行事。 現代での勤労感謝の日にあたるが、この時代では最も重要な行事の一つだ。 丑の日の暮れに常寧殿に舞姫参内。 その夜にお上が舞の練習を見学に来る、『帳台の試』。 寅の日に清涼殿にて殿上人に舞を披露する、『御前の試』。 当日の卯の日に舞姫の下仕えの童女を殿上に召す、『童女御覧』。 その夜に神嘉殿にてお上が新穀を天神地祗に献上し、自らも食す、『新嘗会』。 最後の辰の日には紫晨殿にて群臣に舞を披露する『豊明節会』。 寅と卯の両日は『殿上の淵酔』とも言われ、殿上人が互いに酒を酌み交わし、 朗詠・ 今様を謡って乱舞することがあり、中には舞姫の宿所になっている 常寧殿の五節所に向かい、舞姫に戯れる者もあった。 また、『御前の試』では、舞姫が帝の御前に櫛を置き、帝は目に留まった舞姫の櫛を取り上げることで、舞姫を後宮に召し上げる意を示す。 …………………。 ふざけんな、この野郎。 行成が招いた師より、手順を聞いていたは、快く引き受けたことを盛大に後悔した。 神事の舞姫と思っていれば、実はそんな裏があったか。 「まあ、あくまでも儀礼ですのでお上が本当に櫛を取り上げることは滅多にありませんわ」 それを先に言え。 にこやかに続ける師に、は引きつる口元をさりげなく扇で隠し、青筋が浮いた笑顔を舞の師に向けた。 「戯れに来る殿方も御簾の中には入っては来ませんから、ご安心くださいな」 行成が呼んだ舞の師は、二十歳をこえていくつか、数年前に自らも経験し、毎年舞の師としての役割を務めているようで、手ほどきも確かなものだった。 だがあえて一言言わせてもらうなら、スパルタ、という言葉に尽きる。 朝、吉昌の出仕と同時刻に行成の邸から迎えの車が来て、夕餉を馳走になり、帰宅が戌の刻をこえることもしばしば。 悪ければ外泊にもなりうる。 は根が真面目なため、一切の妥協を許さない完璧主義者だ。 諦めが早いのは、利益も損害も自分に関するだけの場合のみ。 腕がつりそうな痛みをこらえ、練習に明け暮れてひと月以上。 何度か舞姫仲間とも顔を合わせ、行成が選び出した童女二人と髪上げ役にも挨拶をし、準備は順調に整っていった。 刻は子三つを過ぎ、早くも丑の日。 早朝に禊を執り行い、夕刻に後見の公達、つまりは行成とともに参内することになっている。 建礼門までは車で、それより内は公達を引き連れるようにして舞姫が列となって歩む。 頭の中で手順を思い出してなかなか寝付けないは何度目かになる寝返りを打った。 「眠れませんか」 「…………ああ、柄にもなく緊張しているようだ」 声と共にが顕現し、柔らかく微笑んだ。 十年近く連れ添ってきた存在に、はわずかに肩の力を抜いて、笑みを返し静かに命を下した。 「、これより四日、そばに控えることを禁ずる」 「はい」 殿上人や群臣の中には見鬼のあるものもいるやも知れぬ。 舞姫のそばに男の外見をしたものがいるのは障りがある。 「私のことは案ずるな、邸で待っていろ」 「………はい」 非常に男らしい主には影で溜め息をつき、命令通り邸に戻った。 ようやく眠りについたのも束の間、まだ日の出前の寅の刻に相模という女房が起こしにきた。 早朝、女房四人ががりで二刻にわたる沐浴を行い、髪を乾かす為に火鉢のある部屋で何度も梳る。 余談であるが、は平成の常識を持って生まれて、どうしても馴染めないことが二、三あった。 朝の早さなど生活のリズムは慣れであるし、女の体になったことにもショックはないのだが、こちらの入浴習慣だけは我慢ならなかった。 この時代の入浴習慣というのは行水か蒸し風呂である。 どちらにしろ体を布で拭うだけであって、髪を洗うのは手間がかかる為か、滅多に洗わない。 米のとぎ汁を含ませて梳くのがいいとこだ。 そのために香枕だのがあるのだが、生理的にそれをよしとしないは貴船山の神域によく水浴びに行っていた。 宮司も入らぬ奥深い場所で、真夜中一人の美女が直衣姿の男を従えて水浴びをしているのはなんとも異様である。 高於の神ももはや呆れるばかりで何も言わない。 午前を全て髪を整えるのに費やし、その後に決まりの装束、唐衣・裳・比礼・五つ衣・裙帯・単・日蔭鬘・青摺扇を身につける。 日暮れも近く、身支度を終えたは飾られた人形のようにじっとしていた。 女房たちも今は席を外しているため、ただ心臓の鼓動だけがの耳を侵す。 神より下された首飾りを懐に隠し、は鏡の前で舞姫用の笑顔を浮かべて見せた。 十二年付き合って見慣れた顔だと思っていたが、こう着飾った姿ではまた違って見える。 どちらにしろ、本当の面影は残っていない。 鏡を見る度に感じていた違和感とともに感じることがある。 万が一、百万が一に、平成の世にいた橘として生き返ることが出来たら、自分は喜ぶだろうか。 今の家族は大切だ。 しかし、かつての友も捨てがたい。 かたん、と鏡を置いて、答えのないまま繰り返す問いに自嘲した。 「まったく、我ながら女々しいことだ…………」 簀子をすり足で駆ける音がして、頭を下げた女房が妻戸を開いた。 「出立のお時間でございます」 その時には、自嘲の笑みも、懐かしさに揺れる瞳も全て鋼の意志を持つものに変わっている。 神をも惚れ込ませた静かな凪の強い瞳へ。 「――――参ります」 ひとまずは、目の前の問題を片付けること。 邸の前に並ぶ車の横で待っている行成に、は艶やかな笑みを向けた。 あまりにも年不相応な表情に、行成は驚いたように僅かに目を見張り、笑みを返して石段を降りるに手を差し出した。 「とても美しい。ご支度は宜しいですか?」 「この通り。――――誓って申し上げます。今年の祭は必ず成功させますわ」 自信に溢れた口調。 それは行成の心に素直に納得を落とした。 車に乗り込む際、高い段を上がってよろめいたを人知れず支える手があった。 さっと振り向いた先には笑みを浮かべた一人の青年。 行成との血縁を伺わせる顔立ちで、年の頃は二十歳前。 「気をつけて」 目の前の凛々しい少年と、顔立ちはまったく似ていないのに、どこかかつての友を思わせる笑み。 人を励ます、笑顔。 何度、あの笑顔に救われたことか。 「………ありがとうございます」 その言の葉は、今は遠い友にも向けて。
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2009/4/12 移動・修正 |