我、然諾を重んず





は車の中にいた。

いつもより遥かに豪奢な衣を纏い、いつもより遥かに煌びやかな車で朱雀大路を進んでいた。

達、冬の舞姫の一行は、朱雀大路に出たあたりから春、夏、秋の一行のしんがりをつとめている。
どの一行も車五台は下らぬ大行列。
日の落ちた道を進むため、松明を持つ従者や護衛の帯刀した武人も馬や徒で後に続く。

は物見窓を開けて外を眺めようかと思ったが、同乗した舞の師が厳しい目で睨んで来たので諦めた。

牛の歩みは徒に揃えて練り歩くようにゆっくりなので、いい加減緊張も薄れて飽きてくるものだ。
外も見えないから後どれほどかもわからない。


しばらくの後、牛車は静かに停止した。

ぴく、との左の下瞼が痙攣する。
見るものが見れば気づく程度にの顔が緊張に強張る。

でもそれは一瞬で。

すぐに舞姫の顔になったに、師の顔が満足げに微笑んだ。
御簾をあげて、師が先に降りていく。

は髪を絹のように滑らせながら車からおり、前に聳える建礼門を傲然と見上げた。


建礼門を抜けて、常寧殿の五節所に歩を進める。
列になって歩む舞姫達の後ろに、行成たち公達が続く。

派手な行列ではあるが、日暮れの入殿だから人はほとんどいない。
それでも多い人々の目に曝されて、前を行く舞姫達の肩が不安そうに震えていた。

逆に、完全に『舞姫』になりきっているは、胸を張り、顎を引いて前を見据えて堂々としている。
それこそ天武天皇が見たという天女の舞姫と見紛うほどの神々しさであった。



「派手だな、まったく」

声の届く範囲に誰もいないことを確認した後、聞く者の幻想を打ち砕く口調では呟いた。

五節所に入って御簾が下げられるまで、はぼろを出さずに耐えきった。
ひとまず、今はもう気をぬいていいだろう。

この後半刻ほどすれば、舞姫達は舞の練習を始め、そこに臣下の装いをした天皇がお忍びで様子見に来る手筈となっている。

開き直ったというか、肝が据わったというか、とにかくは頭が冴えている。
思考はあてもなくさまよい、舞姫の緊張など今は感じない。

普段は考えない『今の世界』と『元の世界』の関係にまで意識が向かう始末。

あちらではこちらと同じだけ時が流れるのだろうか。

そもそもここは過去なのだろうか。

今自分が何かを残しておけば自分のいた未来に通ずるのだろうか。


それらを特定するのにはあまりにも情報が少なすぎる。

そもそも自分の存在の定義さえはっきりしていないのに。

自分は変わらず『橘』の意識を持っているし、『安倍冬華』だけであった試しなどない。
しかし、高於加美神の言葉を受けるならば、『安倍冬華』が生まれるはずの器を奪ったということになる。

この世界にも、在るべき居場所はないのではないかと言ったところにまで思考が及ぶ。


『冬華また難しいこと考えてる』

そう言って眉間の皺に優しく触れる指。

『ほれ、笑ってみんか』

老獪な笑顔を浮かべて笑顔を催促する声。

今更この温度を捨てられるわけがあろうか。

あるが故の罪は針のむしろのように身を苛む。
本当は、自ら人を遠ざけねばならぬのに。

かつてと同じように触れれば切れるような存在でなければならないのに。


自然に出来ていたそれが今はこんなにも難しい。


『冬華』になってから意味のない瞑想をする時間が増えた。
悟りでも開くわけあるまいし、ただ後悔と自嘲を繰り返すだけ。

そっと瞼を落として完全な瞑想に耽ろうとした時に。


ぼとっ。


「……………」

目の前を緑の何かが上から下に通過した。

前を後ろ足だけでとてとて歩いていくそれは三つ目の蜥蜴。
は無言で扇を開くと、遊女の座敷遊びの容量で投擲する。

「ぐえ」

背中を打たれて動きを止めた蜥蜴を、は指先でつまみ上げた。


「おい、仲間が捕まったぞ!」
「なんだあいつ見えんのか!」
「陰陽師か!?逃げろ逃げろ」

頭上で焦ったような声がさざめく。
かさかさと梁の上を移動する気配を捉えて、は不機嫌に舌打ちした。

随分となまった。

危険とは程遠い毎日と、常にそばに控えるの存在が、気配に対する『感』を鈍らせている。

「待て、雑鬼ども」

右手に蜥蜴をぶら下げたまま、は梁を見上げて制止した。

「降りてこい」

その言葉に、無数の光る目がを注視する。

「俺たちのこと祓わないか」

恐々とした声が緊張を孕んで落とされた。

は手に下げた蜥蜴を床におくと、再び茵に腰を落ち着かせた。

「その必要性を感じない」

嘘偽りのないの言葉に、一匹をはじめにばらばらと落ちてくる。


その数は多く、姿も様々。
剽軽なものから恐ろしげなものまで。

着地点を誤った蛇を膝の上からどけながら、はここにがいなくて良かった、と心底思った。

今でこそは外面を取り繕うことが出来るようになった。
しかし、あの忌まわしい常夜の日から暫くはは安倍家の者にすら普通に振る舞うことが出来なくなっていた。

近寄ってはいけない。
巻き込んではいけない。

家を出ることが許されぬのなら、せめて距離を。

出来るだけ、『安倍冬華』の存在を希薄に。

意識が体に歯止めをかけ、向かい合っても言葉は出ない。

かつての卑屈な自分になりかけていた

そんな時、ふと気づいた、部屋の片隅に放り投げられていたの枝。

それから創り出したのがだった。






ただ『有れ』と。

『この身果てるまで付いて来い』

その棘をもって他者を我から引き離せ。
その棘をもって我を戒める鎖とせよ。

言霊によって生み出されたそれは、人型をとって告げた。

『あなたに荊は似合いません。あなたのお姿は薔薇のように高貴です。私はか弱き薔薇が手折られぬよう、あなたの棘となりましょう』

樹精の癖になんて気障な奴、と先を思い悩んだのをよく覚えている。

言葉通り、が是としたもの以外を徹底的に排除した。


の望み通り、完璧な楯となっているは、どんな矮小な雑鬼ですらに触れるのを赦さず抹殺するだろう。


「なあ、コイツ、晴明に似てないか?」
「おぅ、言われてみれば若かりし頃の面影が」
「ということは吉昌の子かあ?」
「でも成親たちにはあんまり似てないな」

目の前にわらわらと集まった雑鬼は、本人の前で言いたい放題している。

雑鬼の口からこうも簡単に我が家の、仮にも陰陽師の名がでるとはなんとも言い難い。

恐るべし、雑鬼ネットワーク。

「「「で?どうなんだ?」」」

ビー玉のような瞳が好奇心旺盛な様子で向けられる。
陰陽師に名を尋ねる妖がいるとは。
呪となりうる名を明かすのは本意ではないが、もう一つの、魂の真名でなければ大事ないだろう。

「安倍吉昌が息女、安倍冬華」

冬華の言葉に雑鬼は一様に安堵した様子だった。
そして次から次へと気安く近付いてくる。

「なるほどー。でもなんでこんな所にいるんだ?」
「陰陽寮はここじゃないぞ」
「案内してやろうか」

装いが崩れない程度に雑鬼を払い落としながら、は雑鬼は陰陽寮にも出入りしているのか、と思案顔になった。

普段邸を抜け出すのは容易いが、裳着の儀を迎えれば、公に出かけることは難しくなるだろう。
雑鬼を情報源とするのもいいかもしれない。

「いつも内裏にまで入り込んでいるのか」
「おうよ。何でも聞いてくれ」
「内裏のみならず、京のことなら何でも知ってるぞ」

次々に自慢げな声が上がるのに、は嫣然と微笑んで、頼りにさせてもらう、と告げた。

雑鬼ネットワーク、ゲット。

「ああ、そう言えば今日は人間の祭の日だったか」
「もしかしてそれに出るのか」

思い出したように告げた雑鬼の言葉には特別な意味は見られず、人間にとっては一、二を争うほどの重要行事でも、妖にとってはただの祭らしい。

「舞姫の任を賜っている」
「頑張れよー」
「俺たちは人間の食べ物でも拝借するかな」

わらわらと部屋から出ていく雑鬼達が突然足を止めて振り返ると、一様に声を揃えて言う。


「「「「じゃあな、孫姫」」」」


耳慣れない呼び名に、が一瞬固まっている間に雑鬼達の姿は消えていた。


「そのネーミングセンスはないだろ………」

数秒の間を置いては小さく呟いた。





「舞姫様方、ご用意をお願いします」

言われては五節所から、帳台の置かれた中央に足を踏み出した。
の五節所は南東、最も後見の位の高い者が占める場所である。

中央の帳台の中には、これといって特徴のない、若い男が直衣に指貫姿でいる。

あれが今上帝か、と視線が会わないようにさり気なく様子を窺った。



雅楽寮と大歌所の役人によって、管弦の準備が整えられつつある。
『帳台の試』として、舞姫の練習を帝が御覧になるという名目であるが、実際は、失敗の許されない本番そのものである。
殿上人がいないというだけで、帝は変わらずいるのだから。



床に着くほどの長い袖と背に流れる髪をうまく捌いて、『冬』の立ち位置へと足を進めた。

今年の舞姫は皆年若く――――もちろん裳着前のが最年少なのだが――――容姿も端麗で気だての良いものが集まった。


舞の完成度には皆自信がある。

かつてないほど華やかに、やり遂げる自信がある。

自然と四人の視線が絡み合い、それからゆっくりと奏者達に向かって。


舞が始まった。




小鼓。

琴。

笙。

龍笛。

篳篥。

すべての調べは舞姫の引き立て役でしかない。

天武天皇が天女から授かったという舞を。
音もなく立ち回る舞姫の色とりどりの比礼が宙に翻り、まるで羽衣のよう。

四季の姫は誰一人目立つことなく、絶妙な調和と鮮やかな個性を披露していた。

は指先まで神経を張り巡らせて、体に染み付いた動きをただ繰り返す。

熟練の奏者ですら手をとめて見惚れてしまうかに思われた。
しかし、長年奏者を務めた矜持か、息の詰まりそうな緊張の中、遅れぬように指を動かす。



続く楽の音にの思考は茫洋としたものになり始めた。

緊張しているわけではないし、このような状態でも舞は完璧に舞うことができる。

この舞を続けることで、トランス状態になりかけた自己が研ぎ澄まされ、霊性も上がっていく。
神事の舞とはよくぞ言ったものだ。

神職の儀式を知っているだからこそ、この舞が引き起こす現象に気付いていた。

結界を織るのに最も相応しい四方。
そこに舞姫の座所があり、中心に天照大神の血を継ぐとされる帝。
中では四人の穢れを知らぬ生娘。


ここは貴船の神域にも等しい。

神は自らの領域を作る事ができる。
それが、を筆頭とする四人の娘と楽の音によって作り出されていた。



紅潮した頬で陶然と舞に見惚れている帝の前で舞姫達が五度、袖を翻し自らの櫛を白い布に重ねて置いた。

春の姫は花弁のような淡い桃色。

夏の姫は若葉のような明るい翠色。

秋の姫は紅葉のような鮮やかな緋色。

冬の姫は雪原のような汚れのない白色。

そして、用意された幕の向こうに姿を消していく。

舞姫が舞う間、五節所のその間は確かに、神域と言えるほど荘厳な空気に満ち満ちていた。


息の仕方を思い出したように深く吐き出した帝は、目の前に並んだ櫛に視線を下ろし、おもむろにその一つを手に取った。




自らの五節所に下がったの許に側付きの女童が、緊張した顔で足早に御簾の前に来た。

「冬華様、帝の、帝のお渡りでございます――――!」
「なんだと!」

思わずは猫を被りそこね、扇を取り落とし、棒立ちになった。

泡を食った様子の女童に話を聞くと、帝がの白い櫛を取り上げたらしい。
神祇官がを呼びつけようとするのを帝が制し、この女童に来訪を告げるよう命じたのだった。

「解りました。………下がりなさい」


が女童を下がらせてすぐ、手燭を携えた女房と共に、帝が御簾の前までやって来た。
に声をかけるよりも先に手燭を置いて女房を下がらせ、簀の子の上に腰を下ろした。

本来御簾の中にいるべき帝を簀の子に座らせるなどもってのほかであるが、下手に招き入れるのもこの状況ではまずい。
何故呼びつけようとせず、わざわざのもとに足を運んだのか。

苦肉の策としては距離を保ったまま、御簾を上げた。
御簾の外にいる帝にの姿を曝すことで、謙譲の意を示そうとしたのだ。

僅かに驚きを見せた帝の敷居を跨いだ真向かいで、は恭しく跪拝した。


「そなたの舞、見事であった」
「勿体無きお言葉にございます」
「誰が後見についているか」
「蔵人頭、藤原行成様によろしくしていただいております」
「そなたの名は」
「安倍冬華、安倍晴明の孫娘でございます」

帝の問いには打てば響くといった、気負わない答えが返ってくる。
上げられることのない面を帝は何故だか惜しまれて、面を上げよ、と命じた。

「御前失礼を」
「構わぬ」

ゆっくりと上げた視線が帝と直接ぶつかった。

の瞳には不穏な波が浮かんでいる。
帝が万一、を召し上げるなどと言い出したら今すぐ舞の記憶もの存在も忘れるよう、術をかけるつもりだ。
天孫になんたること、と言えど、背に腹は替えられない。

の表情はにこりとも笑わぬまま無表情に固まり、帝は怪訝な顔をした。

「何ゆえそのような険しい顔をしているのか」

は初めて、返事に窮した。
鐘三つがなる間をおいて、は帝の問いに答えんと口を開いた。


「畏れながら、わたくしの櫛を取り上げた、その真意をはかりかねてでございます」

正直かつ単刀直入なの言に、今度は帝が返事に窮する番だった。

「……………召し上げる気はない。そなた一人、他の姫とは違うように感じられたから」

晴明の孫ならばそれも道理、と自己完結した帝を見て、は内心舌を巻いた。

流石は天孫、あの空間の異常さに気がついたか。
霊力を垂れ流してしまっていたが他と違うというのを感じとったのだろう。

晴明があの場にいたら目を見開いて驚くに違いない。
自分の全盛期に勝る霊力を、孫が秘めているのだから。

「しかし、期待をしないのは珍しい」

私は色々な姫が権力闘争のために寵愛を望むのを見て来た、と、年若い帝は言った。

それには端然と微笑んで告げた。

「望むものなどありませぬ。祖父がいて、父母がいて、兄達がいて。時折祖父を手伝い、母と共に家事をこなし、父や兄を送り出して、家をでた兄達が気まぐれに顔を覗かせてくれる。それだけでもう充分。護りきれるものだけ、手元にあれば良いのです」

かつては得られなかった小さな当たり前の幸福を、は何よりも大切にする。

「そなたは本当に珍しい」
「失って悲しむより、始めから手に入れない方が良い。わたくしは臆病者ですから」

微笑んだを見て、帝は腰を上げた。

「安倍冬華、名を覚えておこう。晴明共々、私を助けてくれ」
「このような小娘に勿体無きお言葉でございます」
「豊明の節会での舞、楽しみにしている」
「必ずやご期待に添えますよう、尽力致します」

は恭しく頭を垂れて、帝の背を見送った。



ふぅっ、とは安堵して深く息を吐き出した。

退出していた童女が恐々と戻って来た。

御簾を戻すように指示して、は奥にひっこむ。



まさか帝と直接言葉を交わす日が来ようとは。

初日からすでに波瀾万丈な新嘗祭だ。
はたして最後まで無事に終えられるのだろうか。



2009/04/12  移動・修正