我、然諾を重んず
帝を見送って暫くして後、はっとおかしな事に気がついた。 舞姫の櫛を取り上げる事で召し上げの意を表すのは、の記憶が正しければ『御前の試』のはずだ。 帝と、数多の殿上人のまえで舞う日のはず。 これはあくまでも予行。 何故彼はこの予行の場で櫛を取り上げた? 思考を巡らして僅か数秒後、は思わず額を押さえた。 なんとも粋な事をする。 『御前の試』で櫛を取り上げられた姫は、帝の意のままに『献上』されなければならない。 それは自由意志があることとは言え、断らないのが常識だ。 それを殿上人の前という公の場で行えば、帝を侮る行為としてのみならず後見の行成や安倍家の面々の立場も悪くなる。 しかしこの場所でならば知る者は舞に携わる者たちだけ。 そしてその話が広まる間もなく明日には『御前の試』だ。 その場で帝がの櫛を拾わなければ、『予行の時に気に入って会ってみたものの、お気に召さなかった女』ということで終わる。 そんなことで傷つくような女の矜持は持っていない。 予行の場がなければ、帝は意図なくの櫛を公の場で取り上げてしまっただろう。 つくづく今日という日があることに感謝した。 「明日は…………『御前の試』、か」 明日からは酔っ払いの絡みを覚悟しなければならない。 不届き者が舞姫の座所に忍び込んでこないよう、常寧殿の戸口には警邏の近衛がいるが、殿上人は素通りだ。 御簾を挟んでの相対はまあ間違いなくあるだろう。 安倍家の中では殿上が許されているのは晴明だけだ。 来るという話は聞いてないが、殿上人よりはましだなあ、とは脇息にもたれてやる気のなさそうに扇をひらひら動かした。 ところ変わって、昨日の安倍邸。 「父上、冬華が帰ってきません」 最近、朝早く出掛けて遅い帰宅の妹を昌浩は心配している。 何かやっているのかと聞いても上手くはぐらかされて、昌浩は少々不満だった。 「なんじゃ、お前知らんのか」 呆れたような祖父の口調に昌浩の機嫌はますます低下した。 驚きを顔に出している父も母も当然知っているのだろう。 自分だけ除け者だ。 「冬華は新嘗祭の舞姫として選ばれたのだ」 「へー、そうなんですか…………ってえええぇっ!?」 思わず箸を取り落とした昌浩。 「聞いてない!」 「ふむふむ、冬華が言っているものと思ったのだが」 一言詫びて箸を拾い上げ、母の手に渡す。 母が席を立ったのを見送って、父と晴明に詰め寄った。 「なんで教えてくれなかったんですか!?」 「言ってもお前はまだ内裏に入れないから、冬華の心遣いじゃないか?」 「で、で、でも!今上の帝の侍女になるかもしれないっていう大事な事を兄に一言も言わずに」 「成親と昌親は冬華から知らせを受けたそうじゃが」 ますますいきり立つ昌浩を見て、吉昌は煽って楽しんでいる晴明に顔を向けた。 「父上」 「なんで俺だけ!?」 「恥ずかしかったんじゃないかのう」 「冬華がそんなこと気にするタマですか!」 立ち上がってぐっと拳を握り締めた昌浩の台詞に、晴明と吉昌は黙り込んだ。 その答えは自ずと知れた、否。 「やっぱり、兄としての威厳が……」 胡座をかいてぶつぶつ呟き始めた昌浩。 一縷の希望に縋るような眼差しで吉昌に声をかける。 「俺が兄なのは間違いないですよね!」 「双子は先に生まれた方を兄姉と見なすから………」 それに満足して一つ頷くと、真剣に考えはじめる。 「いつの間に俺にも言えない秘密が!?はっ、もしかしてもう意中の人がいたりしてっ、だっ」 一人だだもれで思案する昌浩の頭に晴明の扇がべし、とぶつけられた。 「そんなに気になるんじゃったら、全部冬華に単刀直入に聞け」 恐らく直球で聞けば直球で返してくれるだろう。 ただし豪速球過ぎてこっちの心の準備が追いつかないかも知れないが。 舞姫の任を終えたら、昌浩は冬華に聞いてみようと心を決めた。 ちなみに結局何故教えなかったのかと言うと。 家族があれだけ準備しているのだから、普通気づくだろう、と。 返答からしてなんの変化もない直球で返してきて、言外に鈍感と言われた昌浩は物凄く落ち込んだ。 話は戻って丑の日、深夜。 を始めとする舞姫たちは自分の座所を離れて“春”の姫の座所に集まっていた。 というのも、帝の渡りを受けたに話を聞きたいと皆が言い出し、呼びつけられたためだ。 「お上は何と言っておられましたの?」 「今宵の舞は素晴らしかった。節会での舞を期待している、と」 嘘は言っていない。 始めと終わりの言葉を繋いだだけで中身を綺麗さっぱり言わなかっただけだ。 「何故さほどのことで冬華殿を?」 「私は安倍の出でございますから、そちらでもお話しが。あの様な場ではあの様になさらねばご尊顔を見奉ることもありませんでしょう」 言葉を濁して言うだけで、他の姫達は引き際を悟ってくれる。 非常に楽だ。 内心質問責めにしたいのだろうということは瞳を見ればわかる。 しかしそれを押し隠してこそ慎ましい貴族の姫だ。 「安倍晴明様のお孫さまなれば、ただの女人とは違い呪法を修めておられるのでしょう?」 秋の姫が話を逸らして言う。 秋の姫は最年長にして、とても妖艶な美女だ。 これが終わったあとには許嫁との婚儀が控えているという。 そんな身で舞姫になるとは大変なことだが、親類縁者総意の頼みとあらば仕方ないと引き受けたようだ。 どうやら相手は身分は下なれど誠実かつ初な男であったようだ。 婚儀を控える頃にはすでに初夜を迎えてしまっている娘が多い中、まだ純潔を保っているようす。 「ええ、幼少の頃から仕込まれておりますが、なにぶん兄達のようには才能がないもので」 「ご謙遜を」 「いえ、本当に」 美しい姫達の話はしばらく続き、恋愛話などで盛り上がるところは、の知る現代の女子と変わらない。 そう言えば修学旅行の時、女子の部屋では男子を生け贄とした話が盛り上がっており、それこそが日頃の男子に対する本音だという…………………ことを晃樹が言っていた。 なるほど、話題の当人たちが聞いていたらショックを受けそうな話まで出ている。 どこどこの貴族がどこどこの姫に振られた、どこどこの貴族は浮気の証拠を見つけられてほうほうの体で逃げ出した……………………等々。 だけ提供出来る話題がないまま、皆がネタ切れになり、夏の姫が腰を上げて言った。 「さあ、明日は『御前の試』ですわよ。早々に眠って英気を養わねば」 「それでは、明朝」 舞姫達はそれぞれ灯りを手に、自らの座所に戻って行った。 自分の座所に戻ったはその奥に設えられた寝床に引っ込む。 今思えば不用心な所だ。 入って来ようと思えば誰でも入れる。 後三日はここで過ごすのだ、案外気をつけなければならない事は多いかもしれない。 はいつもと違う天井を見上げ、ゆっくりと目を閉じた。 朝は日の出の前に目が覚めて、侍女三人がかりで乱れた髪型衣服を直し、化粧を施す。 朝餉をいただいてから、早くも帝の御前にまかる準備を始めている。 と言っても実際に御前に参るのは日が暮れたのち。 実は昨日の夕刻過ぎ、ひっそり(と言いつつ公卿達は見物していた)と常寧殿に入ったが、四人の内、一人だけは帝に参内し公に御代の繁栄、舞姫の任を賜ったことへの感謝などを述べている。 本来それは後見の位が最も高いが行くべきであったのだろうが、年若さや季節の並びのこともあり、代わりに春の姫がなしてくれた。 すなわち、は内裏に来てから一度も常寧殿の中からでていない。 初めて見る内裏には少々興味がある。 今日はもう昨日の緊張が嘘のように肩の力が抜けていて、いつもの自分を取り戻していた。 夕刻に召され、今度は殿上人がずらりと居並ぶ中、帝の御前にまかった。 貴族たちの手には杯があり、今宵からは『殿上の淵酔』。 列の最後尾ではこっそり辺りを見回したが、どうやら晴明は来ていないようだ。 それにしても今年の舞姫に関してコソコソ喋っているヤツが多い。 中には昨夜、冬の姫を帝が訪ったことまで聞こえて、やはり人の口に戸は立てられないのだな、と実感した。 昨夜よりも広く、観客も多いところで舞姫の舞が始まる。 相も変わらず見事な舞だ。 殿上人達が口元に持って行きかけた杯もそのまま、見惚れたように固まっている。 中には行成ら若い公達も混ざっていて、そう言えば完成した舞を見るのは行成も初めてだ、と踊りながら冬華は思う。 鮮明な思考で、踊りながら周りを見渡すと、首筋にちり、と焼け付くような視線、しかし自分に向けてではないものを感じた。 さりげなさを装って流し目を送れば、行成より下座に座る公達が絡みつくような視線を秋の姫に向けている。 秋の姫が気付いてる様子はなく、しかし確かな情念が真っ直ぐに発せられていた。 そのあまりの鬼気迫る様子に、要注意だな、とはその男の顔を記憶に留めおいた。 袖を翻し、紗に隠れた帝の座所の前に簪を置く。 季節の順に舞姫が退室していく中、帝はどの簪にも手を伸ばさなかった。 帝に呼び出されなかったことにひとまず安堵したは、先日『帳台の試』において舞を舞った部屋にて、運ばれてきた膳をいただいていた。 当然のようにその脇には酒杯が置かれ、遠慮なく飲み干している。 ほかの舞姫たちの中には翌日の二日酔いを気にして酒には手をつけないものがいたが、は案外自分がイケる口なのを知って、遠慮なく飲みまくっていた。 その量はもはや笊、否、枠で、これっぽっちの酒では酔いもしない。 外からは囃子太鼓など、賑やかな宴の音が聞こえている。 打って変わって人気のないこの間では、ただ舞姫たちの声だけが響く。 「明日は童女御覧、私たちの出番はないに等しいのですね」 「ええ、その晩の新嘗会に舞姫は出ませんから。最終日の節会まで、ひとまず落ち着くことが出来ますわ」 「殿方達は今宵から忙しいようですけれど」 今晩から最終日の豊明節会まで宴がずっと続くのだ。 明日は昼に童女御覧の後、重大な神事である新嘗会に出る殿上人だけの宴だが、節会の宴には地下の官まで参加を許されている。 「そう言えば安倍家には兄君たちがおられるのでしょう?節会には来られるのですか?」 秋姫の問いかけに、杯を置いたは少し思案するようにして、曖昧な答えを返した。 「この時期、陰陽寮は特に忙しいですから、どうなるかはわかりません。祖父も来るとは聞いていないので、来ないかも知れませんね」 それに周りの舞姫達がざわめく。 舞姫の役というのは誉ある任だ。 一族総出で節会に出て、あれが我が娘よ、と自慢するものも少なくない。 まあ、我が家に期待しても仕方がないとは思っているし、身内に見られるというのはやはり少々やりにくいのである。 そんな事を考えている内に、酒瓶が空っぽになってしまった。 露ほども酔っていないため、何だか物足りないし、めったに飲めない上物だろうから飲めるときに飲みたいと思うものだ。 すくっと酒瓶片手に立ち上がったは、そのまま室を後にしようとする。 「どちらへ?」 「空になりましたので」 にっこりと答えたの男らしすぎる酒豪っぷりに舞姫たちは呆れ返って言葉もなかった。 小さな瓶子を三つほど盆に載せて、は軽い足取りで来た道を戻る。 酒を分けて貰うとき、来客が、と告げたからか、特に変な顔をされることもなく受け取ることが出来た。 もしかしたらまだ年若いを、側付きの女童と勘違いしたのかも知れない。 そんな事を考えながら見かけだけはしとやかに歩いていると、常寧殿に繋がる渡殿の柱に隠れるようにしてある人影に気づく。 ここより先は舞姫の控えしかない。 「いずれの姫に御用でございましょう」 が背後からかけた声にびくうっと体を震わせた男は、しどろもどろになりながら、結局何を言うこともなく逃げるように去って行った。 その装いと顔を見たところ、帝の御前に並んだ殿上人の中にはいなかったように思われる。 行成の邸や今日の試で身分の高いものの装いは大体見極めがつく。 あの男はそれほど高位の貴族には見えなかった。 なぜ殿上人の集まりに、と疑問を抱く。 ひとつ肩を竦めて、再び歩き出すと、冬の居室の前に誰か二人組が待っている模様。 「ああ、いたな」 の気配に振り返った二人とは行成と成親。 「げ。兄上」 酒を持っている今、思わず口から零れ落ちた本音に、成親の眉が寄る。 「げ、とはご挨拶だな。兄が妹の晴れ姿を見にわざわざ来てやったというのに」 が慌てて背中に隠した盆に勘の鋭い成親が気づかないわけもなく、くるり、と体を回されて盆を取り上げられる。 「そういうことか、この不良娘」 「いえいえ、兄上方、客人がいらせられるだろうと思って補充を用意したまでですわ」 「ほほう、冬華は気が利くなあ。俺と行成殿が来ることなんぞお見通しだったわけか。まさか一人で三瓶も呑むわけがないものなあ」 「当たり前です。ほほほ……」 お互いに笑顔で、しかし神将がいれば主との血の繋がりを再認識するような笑顔で笑い合う。 互角を悟った二人は何事も無かったかのように笑みを引っ込め、は二人を招き入れた。 御簾の外に座ろうとする二人にもう冬で体を壊してはいけないと強引に室内に入れる。 苦笑しかない行成と若干の説教が混じった成親の言葉を聞き流し、疑問に思っていた事を告げる。 「今宵は殿上人のための酒宴でございますのに、なにゆえ兄上がここに?」 成親の表情がぴきりと固まる。 行成も同様に引きつった表情になるが、はその原因がわからぬようで、軽く首を傾げた。 「変わらんなあ、お前は」 さっきの言葉は悪く受け取れば、殿上人でもないのに何故こんなところにまで来ているのか、と責めていることにもなる。 勿論、成親も行成もそんな穿った捉え方はしないが、他人ではどうだろう。 は勢力や地位に関して知識は持っていても、朝廷官吏が胸に溜め込んだ不満まではわかるまい。 特にこの藤原の時世では。 は賢いようでいて、意外と人の心の機微に無頓着だ。 「気をつけろよ」 「はあ………」 純粋に疑問だっただけで、自分が人との関係を築くのがうまくないと自覚しているため、どうにも答えようがない。 「まあ、なんだ、冬華の純粋なる疑問に答えるとだな、うちのに『妹が舞姫を務めるというのに、行かないなどとは言語道断!』とえらい剣幕で追い立てられて」 「……………流石義姉上」 後にも先にも、成親を叩き出せるのはかの人しかいないだろう。 「あれから祝の品を預かってな。本当なら、決まった時に渡すべきなのだろうが、俺が伝えなかったこともあって、今日になってしまってすまないと言っていた」 「いえ、お気になさらず」 「親族と言えど、暦博士の位では、入るに入れなくてな、良いところに行成殿を見つけたからくっついてきたと言うわけだ」 その光景はすぐに思い浮かぶ。 安倍家特有の胡散臭い笑顔で衛士を煙に巻いて入ってきたに違いない。 ちなみにその笑顔の元祖は晴明であり、それは冬華にも受け継がれている。 「どうだ、舞の調子は」 手酌で酒を飲みながら、成親は軽い口ぶりで聞いた。 「恥にならぬ程度には、お見せできると思いますよ」 の言葉に、目の前で舞を見ている行成は肩を震わせて笑う。 「謙遜も度が過ぎると嫌味と言うものだよ、冬華殿」 「あまり期待させ過ぎても悪いですから」 成親が舞を目にすることが出来るのは最終日の節会になる。 今宵の場ほど、観客との距離は近くないが、十分に舞の素晴らしさは通じるだろうと行成は思う。 「まあ、明後日の節会には見れるからな。楽しみにしておこう」 「別にしなくてもいいです」 三人の酒も尽き、行成と成親は部屋を辞して行った。 それを簀子にでて見送ったは、ふと先の廊下の柱の陰に人影を見つける。 先ほどの人物であろうか、と目を細めて暗闇を見やると、その影はすぐに姿を消した。 ふと、違和感を感じる。 確かに何かが引っかかっているのに、今一つ閃かない。 仕方なしには自室の中へと引き返した。 翌日。 『童女御覧』と新嘗会にら舞姫の出番はない。 お互いの部屋を訪ねたり、時には挨拶と言う名のラブコールをしに来た貴族たちの相手をしながら日が暮れるのを待つ。 今日は新嘗会の用意でか、行成のように本当に位の高いものになると忙しいらしく、顔を見せていない。 と言うわけで。 一日中教養の低い男どもの相手をさせられて、は非常に不機嫌だった。 大抵が昨日の舞を見た感想などを述べて、その美しさを歌にして詠んだものなどもいたが、からすれば大バツである。 新嘗会には晴明は参加するのだろうが、どうやら舞姫の控え所までは来る予定はないらしい。 と言うより暇がない。 事前に占じてあるものの、貴族たちのために本日の卦などをわざわざもう一度やってやらねばならない…………と太陰が告げに来た。 晴明の警護としてきたであろう神将がこんなところにいていいのかと思ったのは事実だが、晴明の若かりし頃の話などをして多少なりとも暇を慰めてくれたので善しとする。 しかし普通の者には見えない相手をして来客中というわけにもいかず、別の貴族が来た時に太陰は戻ってしまった。 日が暮れて、常寧殿から人気が少なくなる。 大極殿から弦楽の調べが聞こえ、新嘗会が順調に進んでいることがわかる。 それだからか、午後まで続いていた来客はぱったり絶え、静かに夕餉をとることができた。 今晩も本格的に宴が続くため、内裏は夜通し明るく活気に満ちていることだろう。 明日が本番なことを考えると、今日はあまり夜更かしをせずにおくのが賢明かもしれない。 と、その時。 奥まった場所に座っていたは御簾の前を横切った影に気づいた。 のいる南東の居室を通り過ぎるのは北東にいる秋の姫に用があるものだけ、宴を抜け出して来たのか、と考えては箸を止めた。 思い出せ。 昨日渡り廊下で会った若者。 身分はそれほど高くない、実直そうな若者。 が声をかけた一回ともう一度こちらの様子をうかがっていた。 その時感じた違和感。 はっ、と気がついたは膳をひっくり返す勢いで立ち上がると中から秋の姫のもとへ向かう。 そう。 あの時こちらを見ていた人物は、去っていた行成と成親とすれ違ったはずなのだ。 あの身分の者が一人でこんな奥にまで入って来ていたらさすがに行成は咎めるだろう。 しかし、何故無事にすれ違うことが出来たか。 の会った人物と違い、殿上人なら何の問題もない。 そして殿上人ならばどうどうと通ればよい。 それをしなかったのはが部屋の外にいたから。 気づかれずに冬の部屋を通り過ぎたいのは。 何故、『御前の試』の時に感じた視線をもっと意識にとめておかなかった。 今更悔やんでも詮無いこととは言え歯痒く感じる。 部屋にたどり着いて声をかけようとしたとき、中で几帳が倒れるような音がしては思わず妻戸を開け放った。 中には思った通り、秋の姫と、姫に執念が見える視線を送っていた男。 「何をしている!」 姫の髪を掴んでいる男の手を押さえて初めて二人はの存在に気づいたようだった。 「邪魔をするな!失せろ!」 腕を掴む手にさらに力を入れながら、秋の姫に声をかける。 「大丈夫ですか?この男は?」 「知りませんッ!突然入って来たのです」 「そうですか。と言うわけだ、失せるのはそちらのようだな」 怒りのあまり顔を赤黒くした男はの手をふりほどこうと、もう一方の腕での肩を掴む。 いくら体術の心得があっても女子と成人男性の腕力は差がありすぎる。 突き飛ばされたがたたらを踏んで壁にぶつかったのも気にせず、男は部屋の隅に逃げた秋の姫に向かう。 プツンと、糸が切れるような音が頭の中で鳴った。 「いい加減にしろ、この下衆!」 の罵倒に振り向いた男は、きっと生まれて初めての光景を見ただろう。 舞姫の装いの少女が、重い衣装をものともせず、高々と袴を穿いた脚を振りあげるのを。 首に衝撃が来て一瞬意識が飛んだ後、今度は低く繰り出された膝蹴りが………。 完全に昏倒した男を足蹴にして、は秋の姫を立たせてやる。 「ご無事ですか?」 「ええ、ありがとうございました……」 秋の姫が怯えた表情よりも呆れた表情を浮かべているのは仕方がないことであろう。 警邏の役人を呼ぼうと、秋の姫の手を引いて御簾の外に出た矢先、暗闇から声がかかった。 「秋穂姫」 すぐに振り向いた秋の姫と一拍遅れてその呼びかけが秋の姫を表すことに気付いたが、足を止める。 そこには昨日が遭遇した若い男性。 「殿!」 秋の姫が向かい合っても全く怯えた様子や恥じらう様子がないのを見て、もしやこの男性が以前話していた婚約者か、と思い立つ。 「一体何が……ご無事ですか、姫」 一人混乱した様子の男性を見て、がイラッとした表情を浮かべる。 「いつ頃よりそちらにいらしたのですか」 の切り込むような質問に、気圧された様子で男性は口ごもる。 「き、公達が姫の居室に入っていった頃から……私はここにいられるような身分ではないし………あなたが、その」 つまりは 許婚の危機を目にしておきながら、自身の身分やら途中から乱入したの存在のために出てくる機を失ったと。 「一言よろしいでしょうか」 「え、あ、はい」 の気迫に完全に呑まれて、もはや従順な生徒のように答えるしかない男性に向けて、はただ一言投げつけた。 「惚れた女なら自分で守れ」 固まった男性をそのままに、ハンッと顔を背けたは秋の姫の手を引いてとりあえずは冬の部屋へと足を向けた。 道すがら、秋の姫がくすくすと小さな忍び笑いを立てる。 「あまり苛めないであげて下さいな。とても気の弱い方ですのよ」 「気の強さがどうこうの問題ではないでしょう。男の沽券にかかわる問題です」 長兄の成親は数多の貴族に言い寄られていた姫を助け、その心を射止めたと聞く。 それを知っているからと、生来のフェミニストな性格から、あまりにも情けない男につい口を出してしまったのだ。 それよりも、とは秋の姫の顔色を確かめる。 暴行されそうになったのだからもっと蒼褪めていたりしてもよいのだが、心に深い傷を負った様子はなかったために一先ず胸をなでおろした。 「今日はお早くお休みください。私が警邏の者に告げておきますので」 冬の居室に秋の姫を待たせ、運良く食膳を下げに来た側仕えに控えておくようにと命じ、外の警邏を呼びつけた。 一通りのことは告げたが、酒も入っており、相手は殿上人である。 戯れと流されて処罰はされないかもしれないが、とりあえずは連れ出してもらわねばならない。 処理が済んだ後、侍女に付き添わせて秋の姫を送り出す。 最後に明日の舞は最高の舞に致しましょう、と微笑みあってその日はそれ以上何もなく終わった。 豊明節会。 新嘗祭の最終日にして、舞姫最大の見せ場。 再びきちんと結いあげられた重い頭も、これが最後かと思うと何となく惜しまれて、は鏡に映った自分の姿を眺めていた。 常には好まぬ濃い化粧。 鬱陶しいほどの簪に、複雑な髪型。 前世の自分からは到底考えられないような姿をしていることに、なんとなく笑ってしまう。 いつまでも前世を引き合いに出すのは女々しいと思っていながら、どうしてもは平成の人間なのだ。 にも関わらず、このように男性から女性へと移り変わったのに一切の抵抗を抱かないのは、前世が人間としてどこか欠落した人生を送っていたからかもしれない。 「冬の姫様、どうぞ次の間に」 侍女たちの声に、は鏡から顔を背けるようにして立ち上がる。 恐らく今は紫宸殿にて久米舞あたりが催されている頃であろう。 少し前までは豊楽院で催されていたという豊明節会だが、いつ、どうして紫宸殿で行われるようになったのかは、も知らない。 歴史に詳しい学者などであれば、平安時代の新嘗祭を実体験するというのは垂涎ものであろうが、特に知識のなかったにとっては何事も初めて、紫宸殿であろうが豊楽院であろうが変わりはしない。 女房に先導されて舞姫の列の最後尾についたは秋の姫と軽い会釈をかわし、舞台の控え間へと入室する。 覆われた錦の布越しに外を覗けば、天皇の御前に、朱塗りの欄干でこさえられた舞台がある。 そこに通じる渡殿も仮設されていて、今更ながらに随分大きな行事なのだと再確認する。 舞台から少し離れたところに殿上人、それより更に下がって群臣たちが杯を手に舞や楽を楽しんでいる。 ここからでは群臣の顔など見えるはずもなく、はすぐに布を戻して顔を引っ込めた。 「好奇心旺盛だこと」 「まだ齢十二なもので」 けっして嫌味を含んでいるわけではない秋の姫の言葉にさらりと返し、いよいよ差し迫った本番へと思いをはせる。 今更舞の手順を復習する必要もない。 ただ必要なのは平常心。 最後に互いに装いが崩れていないかを確認して。 変わった楽の音に導かれ、春の姫の前で布が持ちあがる。 順々に、等間隔で舞姫たちが部屋を出て、多くの灯と群臣の視線に晒される。 行成の近くに晴明の姿を見つけ。 群臣の中に長兄と次兄を見つけ。 残念ながら父の姿はないことを確認し。 聞き慣れてしまった楽の音に一度目を閉じて。 は今一度笑みを深めて朱塗りの舞台へと足を踏み出した。 そして、五節舞が始まる。
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2009/02/09 移動・修正 |