かわいい子には旅させよ
小学校の、何時だったか……多分まだ低学年の頃。 俺は学校の体育倉庫で子猫が三匹生まれているのを見つけた。 なりゆきでなってしまった体育係だったけど、そこそこ真面目に仕事をしていて、用具の出し入れの時に見つけた。 学校では飼えないし、教師は生徒たちの中から引き取り手を募ったんだ。 二匹は貰われていったけど、鼻が大きな、あんまり美形じゃない黒猫だけ一週間たっても段ボールの中に残っていた。 見つけたのが自分ということもあって、俺は放課後必ずその猫を見に行った。 世話してるうちに愛着も湧いてきて、誰かに貰われる様なことになったらちょっと寂しいなって思ってたんだ。 もうすぐ二週間になるという頃、教師や周りの生徒がしきりに飼うように勧めるから、通学帽の中にその猫を入れて連れて帰ってきた。 どうせ一人暮らしに近いようなものだし、俺が何をしても関知しないだろうし。 昼は戸締りをして外に出ないようにしておけばいいか、って。 安易な気持ちで、猫を飼い始めたんだ。 結局、この猫は俺の家の中でどんどん衰弱していった。 餌も食べようとしない。 ミルクも飲まない。 落ち着かなそうにうろうろしていて、かといって扉を開けてやっても庭には出ていかない。 渡されている生活費を削って動物病院に連れて行ったけど、ストレスって言われてそのストレスの原因も分からないまま家に連れ帰るしかなかった。 でも、俺はすぐ知ることになる。 に会って毛を逆立てて逃げ出した猫を見て。 ある特定の人間に対して異常に威嚇するのを見て。 こいつは俺と同じ、強い式を使う人たちに恐怖を覚えているんだって。 動物は人より敏感だって聞いたことがある。 俺は学校の教師にやっぱり飼えない旨を告げよう、と決心した。 そして決心した日の翌日、猫はクッションの上で息絶えていた。 家に連れてきてまだ一週間経ってない。 俺は猫の亡骸を家から遠く離れた公園の木の根もとに埋めた。 あの家から出来るだけ遠く。 学校に遅刻していったその日。 比較的よく話す子に猫の様子を聞かれた。 俺はただこう答えるしかなかった。 死んじゃったよ、って。 「通学路はそっちじゃないよ〜、クン♪」 家の付近をうろうろしてを待ち伏せしていた俺は、が通学路とは反対の方向に行ってしまうのを見て慌てて声をかけた。 俺とのうちは二キロも離れていて、の登校時刻に合わせるためにものすごい早起きをしたんだ。 はーい、そこの君ストーカーって言わない! と仲良くなるためなら俺は犯罪以外なら手を染める! これ、合法! は俺の声に振り向きもせずに、四つ辻を曲ってさっさと行ってしまった。 追いつきたいのは山々だが如何せん、コンパスの差! どこを曲ったのかすぐに見失ってしまって、俺はしょんぼりと途方に暮れていた。 犬の鳴き声が聞こえてなんとなくその方に向ってみると、お目当て発見!がいた。 優しそうなおばあさんが柴犬のリードを持っていて、しゃがみこんだがその犬を撫でていた。 「あら、今日はお友達もいるの?」 俺に気がついたおばあさんが俺の存在をに告げる。 は驚いたように振り返って(さっき本当に気付かなかったんだ)、目元に朱が走った。 照れたような怒ったようなその顔が、何とも貴重なものに感じて俺はにやっと笑った。 「一週間前くらいかしら。散歩をしていたら突然この子が走りだしてね、彼のところまで連れてこられてしまったの」 犬でもかっこいい人はわかるのね。 そう言って笑うおばあさんには落ち着いた笑みを返して、じゃれつく柴犬を本当に優しく、優しく撫でた。 その時の表情は始めて俺が見た安らかな表情で、この先少ししたら俺の横でも見られるようになる。 日が夕暮れを迎える頃。 は憂いを漂わせながら帰宅した。 年明けて、まだ裳着を済ませていないはもう十三になった。 舞姫の折より何かと付き合いのある姫の誘いで、楽しくもない女の集まりに出た。 そこで散々姦しく言われたのだ。 嫁き遅れますわよ、と。 それらは皆、他の舞姫を通じての知り合いで個人的に付き合いのあるものはいない。 裳着の前に舞姫を務めたへのやっかみなのだろう、女の嫉妬は何とも醜い。 大体、嫁ぐ気なんてゼロ。 願い下げだ。 人並みの、男としての性欲すら持ち得なかったは、女となってしまえば最早相手ナシである。 でも上辺だけでも極上の笑みで、そうですわね、おほほ…………なんてやらねばならぬこのストレス! 顔の美醜なんざ気にしてられっか、などと嫌みにしか聞こえない考えを持っているにはまったくもって無意味な対抗心でしかない。 「ストレスだ…………ストレス」 部屋に戻ってそのままぽっかりと天井を見上げて寝ころんだは口の中で何度かそう呟く。 ストレスは発散させればいいというが、発散の仕方がわからない。 以前はストレスを放っておいたから、あんなにも心が磨耗してしまったのだ。 昌浩は祖父に嫌みを言われまくった日には部屋を荒しまくるが、あれは後が大変だからやりたくない。 そんな事を理詰めで考えているはかっちん頭のようにも見えるが、本当に初めてなのだ。 激情に任せることなど久しくない。 「癒しが欲しい…………」 「冬華様、お召し替えの容易が整いました」 一揃えの着物を手に、が奥の間より姿を現した。 天井へ向けていた視線を端正なの顔に注ぐ。 「猛禽類………、いや、忠犬か」 の言葉にわずかに頸を傾げたは膝をついての顔を覗き込む。 赤黄色の、山梔子色の瞳に映る自分の姿をぼーっと眺める。 「お疲れですか」 「まぁな、少し」 目を逸らさぬままにそう答えて、深く息をついた。 たっぷり五秒はの顔を眺めた後、はおもむろに口を開いた。 「お前、犬になれないか」 「は、え、なれマス、けど」 突然のことに思わずどもる。 「よっ、と」 がばっと腹筋の力だけで起き上ったはいやに男らしく膝を立て、無言で促す。 その視線の真意を悟ったは瞬きの内に獣へと姿を変えていた。 獣となったを変わらぬ表情で見つめる。 そろそろ沈黙が痛い、と思い始めたに、ようやくが低い声で言った。 「誰が山のヌシみたいな巨犬になれと言った!」 が変化したのは人が立ってなお見上げるような、黒い毛並みを持つ巨大な犬だった。 人の一人や二人、余裕で背中に乗せれそうだ。 もはや動物のそれではなく、化け犬だ。 『では、どのような犬か言ってくださらないと』 鋭い牙の光る口からの変わらぬ声が漏れる。 その声は困惑に満ちていた。 「普通の犬だ。余所様の邸の庭や通りにいそうな普通の犬!」 の命令に従っては再び姿を変える。 今度こそ、と思ったの表情は再び落胆に染まった。 諦めたような笑いが薄く笑みを浮かべた唇から漏れる。 「そうだよな、この時代の犬と言ったらそれだよな。うん、帰りに見たような気がするよ。気にするな、………忘れてくれ」 が化けたのは帰りに庶民の戸口でうずくまっていた、肋骨が浮き出たガリガリの犬だった。 犬を飼う、という習性は平安時代に生まれたものだが、愛玩動物として大切に保護して飼うというのはよほどの貴族で、庶民は半野良状態で放し飼い、残飯を漁る姿はどこでも見られる。 しかも柴犬や外来種ともまた違う、昔歴史の資料集で見たような愛らしさに欠ける犬なのだ、これが。 子犬と言えばよかった、いや、もとが樹精のに動物に化けろという方が無理な注文だったのだろうか。 平成生まれのとしては少々カルチャーショックだ。 (ま、愛玩動物というのも元は人間のエゴか) 「貴船にいくかな………」 以前貴船の山裾で栗鼠や狐を見かけたはそこに癒しを求めていこうかと思ったのだが。 「いけません」 犬の姿から人型へと戻ったは、の呟きを聞き咎めて厳しい声音で言った。 「今は都でも不穏な動きがありますから出歩かないで下さい」 の表情がすっ、と険しいものになる。 「不穏な動き、だと」 怒りを滲ませた口調には失言を悟る。 「いつからだ?そういう報告は受けてないが」 「えっと、それはですね、」 「いつからだと聞いている」 の気迫に呑まれたはうなだれて一週間ほど前から、と告げた。 をキツい目で睨みながら、そう言えば、とは考える。 年明けてからこっち、真面目に星を読んだり、占じたりすることはなかった。 舞姫の折に人に顔を知られてしまった『冬華』にひっきりなしに誘いが来るようになったのだ。 それは今日のように女の集まりであったり、そうでなかったり。 夜、邸に訪ね来る男までいる。 全て門前払いを食らわせてやっているが。 人と関わりを持つというのはやはり疲れが溜まることで、体調もあまり芳しくない日が続いた。 だからといって腑抜けていた言い訳にはならない。 ばかりを責めれない、自分の失態だ。 「何故すぐに報告しなかった」 眼差しと口調を少し和らげて、小さくなっているに問う。 ボソボソとお疲れのご様子でしたから、と言う。 なりに気を使ったと言うことか。 「分かった。……………もういい」 は咎めない、という意味で言った『もういい』だったが、どういう意味で受け取ったのか、は情けない表情で縋るような眼差しをに注いだ。 こういう表情は可愛い犬にも見えるのだが、とため息をついて、表情を引き締めた。 「、地脈を通じて正体を探れ。雑鬼どもの情報も集めよ。私はこの件の対処をおじい様に伺う」 「それはすでに」 どうやらはに報告はしなくとも、出来る限りの情報は揃えていたようだ。 「どうやら正体は地中に棲まう古い妖。姿形は蚯蚓のよう。すでに庶民が幾人か、殿上人も被害に遭っています。地中を移動しているため、あぶり出さねば手は打てぬかと」 「一週間も前なら、その被害も道理だろう。ならばおじい様のもとにすでに書状が届いているはず」 すっと立ち上がったは外行きの着物をバサバサと脱ぐと、の用意した衣を纏う。 後ろでが着物を畳んでいるのを後目には祖父の部屋へと向かった。 「おじい様、冬華です」 「入りなさい」 言われて妻戸を開くと、室内奥壁際にいる青龍と目が合う。 不機嫌さ(彼が機嫌のよい表情をしていることなど見たことはないが)を隠さない表情で舌打ちをするとすぐに姿を消した。 を置いてきて良かった。 「何じゃ、冬華」 「都の地下に棲まう異形、その対処はどうなっておられます」 前置きも何もなく切り込んだに晴明は驚くこともなく卓に乗った文を開いた。 「確かに訴えの書状は受け取っておる。冬華、この文を昌浩に渡すように言付けて吉昌に渡してくれんか」 晴明がしたためたのであろう文をに渡してが吉昌に渡して吉昌が昌浩に渡す。 「随分遠回りな。……………昌浩に任せるおつもりですか」 「そろそろ実戦が必要じゃろう」 現在何かと理由をつけて元服を先延ばしにし、色々挑戦している昌浩が陰陽師になると確信している物言い。 それをが何を言うこともなく、ただ一つの問題点を指摘する。 「昌浩の『見鬼』はまだ戻しておりませんね?」 「昌浩が真実必要になった時、戦えるようになった時には自然に戻る。冬華もそうしておけばよかったかのう」 家族や神将の前では才能の片鱗しか覗かせないこの末孫が、実はもっとも自分と匹敵するであろう術者であることを晴明は知っている。 あの時ついた、幼い嘘もまた。 「御冗談を。散々こき使っておいて何を言います」 実を言うと、年が明けてからすぐ、度々妖の討伐を晴明から頼まれるようになった。 それは末孫にその実力があると確信してのことで、実際危険な目に遭ったことは一度もないのだが、ちゃっかりしてるなあと思うだ。 本来出歩かないでいるべき女に何てこと命令するんだ、と思いつつもしっかりと果たしているだ。 命じられなくともそれほど危険のない相手ならすぐに出向いて倒すこともある。 すでに実戦で身を固めたと、まだ見鬼すら戻っていない昌浩では勝手が違う。 「おじい様、この冬華も共に行って宜しいでしょうか。決して昌浩の邪魔はしません」 「何じゃ。冬華はそんなにもじい様の手伝いをしたいのか。だったら左京はずれの荒れ邸に出没するという怨霊を調伏してもらおうか。嬉しいのう、年寄りを労るとは感心、感心。頼んだぞ、冬華」 昌浩相手と違い、泣き落としよりも強引におしつけてちゃっかり話を進めてしまったほうがにやらせることができるというのを晴明はよく知っている。 何だかんだ言って責任感溢れる性格なのだ。 「分かりました、引き受けます。……………昌浩のほうは本当に問題ないんですね?」 「大丈夫じゃ」 自信満々の晴明の部屋を辞し、は吉昌の部屋に向かう。 「父上、おじい様より文を預かって参りました」 「入りなさい」 部屋の中は燭台の灯りで橙色に揺らめいている。 濃い影を作るそれにもうとっくに日が暮れたことを理解する。 「おじい様から昌浩への文でございます。父上の手で渡すようにと」 同じ邸の中で何故わざわざ、と思った吉昌だが一つ頷いて文を受け取る。 「昌浩は戻ったか」 「いいえ、まだ。今日は横笛師でしたわね」 「本人が心から望んでいるのなら、どのような道でも歩ませてやりたいと思うのだが」 「問題ありません。どうせ落ち着くのは陰陽師、です」 心配げな吉昌に至って気楽そうな。 むしろ、昌浩が陰陽師にならないほうが有り得ないと思っているだ。 「多趣味なのは良いことですけれどそろそろ腰を据えて頂かねば。それがその文です」 大体の中身を悟った吉昌はますます溜め息をつく。 文台に肘をついた吉昌に若かりし父そっくりな娘が似たような喰えない笑顔で微笑んでいる。 「あ………………兄上が帰宅したようですわ。、呼んでおいで」 即座に現れた黒衣の男が一瞬で姿を消す。 「我が家は同じ邸にいて文だの式だの…………」 「安倍家ですもの。おじい様を見習っただけのことでしてよ」 呆れたような様子の吉昌に対し飄々とした。 十二神将を雑用にこき使っていたという晴明を彷彿とさせる。 文の内容に目を通した吉昌が困惑するのには僅かな苦笑を漏らし、来るであろう昌浩のために円座を運んできた。 すぐに妻戸が開かれて、昌浩が顔を出す。 予想通り、些か精彩に欠ける表情だ。 「父上、昌浩です」 「ああ、お帰り。そこに座りなさい」 黙って床に座ろうとした昌浩にが円座を差し出してやる。 礼を言って腰をおろした昌浩に吉昌は、今日の成果を尋ねる。 書や武道の時と同じような答えをもらってきた昌浩にやっぱり、と内心失礼なことを考えて、文に話が移ったのを黙って見守る。 渋々といった様子で昌浩が文を開き、読み進めるにつれて青筋が浮かんでいき、危険な気配だ。 件の妖調伏を読んだのだろう、素っ頓狂な声をあげた昌浩。 次なる反応を待つ父娘の意識は、突然聞こえた暢気な声に流された。 「へー、晴明って達筆なんだなぁ」 空気を読まない第三者にの視線が移り、ものの見事に固まった。 昌浩も硬直状態に陥っている。 それはそうだ。 三人の視線の先にいるのは明らかに安倍邸の結界に阻まれるべき異形。 純白の毛並みに紅い瞳。 ひゅるんとした長い尾は鼬に似て、大きさは大きい猫ほど。 随分と可愛らしい異形だった。 「おまっ、おまっ!なんでいる!?」 「んー?そりゃー、門から入ったから」 「そーじゃ、なくって!」 がしっ。 の繊手が異形の両脇に差し込まれ、異形の体が宙に浮く。 「あ、あ、冬華!そいつきっと害のないヤツだから!」 くるり、と向かいあうように異形を抱えてしばし沈黙。 立ち上がりかけて手を伸ばしたままの昌浩はごくっと唾を飲み込んだ。 異形が沈黙の中、にっ、と笑み崩れる。 「………………〜〜〜〜〜ッ!合格!」 ガバッと懐に抱き込んだ異形をぎゅうぎゅう抱き締める。 昌浩は妹の顔に珍しく満面の笑みが浮かんでることに二度驚く。 もとが綺麗な顔をしているだけに、笑顔は華開くような明るさだ。 背を仰け反らせてぐえぐえ言う異形が、ばたばたと手を振りながら喘ぎ混じりに叫ぶ。 「冬華、俺、俺だって!」 「父上!これ飼いましょう!」 「冬華落ち着いて!それ犬じゃないから!物の怪だから!」 「物の怪言うなっ!ぐ、ぐるじい」 綺麗な妹が愛らしい物の怪を抱えているのは非常に絵になるのだが、これ以上放っておくと物の怪の背骨が限界をこえそうなので、妹の腕を解かせる。 力無くぼとっとの膝に伸びた物の怪。 「兄上、どこで拾って来られたんですか!」 「いや、勝手について来ただけだし。父上、祓わないでくださ――――父上?」 吉昌はこれ以上ないほど驚いた表情で、物の怪を指差し震えている。 「…なっ…なっ…なっ………!」 そんな吉昌の様子には怪訝そうに眉を寄せて、膝の上の物の怪を撫で回す。 その純白の毛並みをご機嫌で撫でるは、涙を浮かべる物の怪の額にある紅い華のような模様に触れると、はっ、と動きをとめた。 先ほどは久しく見ない愛らしい姿に少々興奮してしまっていたが、落ち着いて伝わってくる力の奔流を探ると妖気ではない。 これは、神気。 そして本来より随分抑えられているが苛烈なこれは。 「もしや……………?」 紅蓮?と唇の動きで尋ねると、よろよろと立ち上がった物の怪は涙目のまま必死に頷く。 なるほど、道理で父が固まっているわけだ。 今度は動物を抱くように優しくくるむようにして物の怪を抱える。 「父上、どうしたんですか」 気遣わしげな昌浩の声に数度瞬きを繰り返した吉昌は、全身の息が抜けるような溜め息をついて、瞑目する。 それに物の怪がにまっと笑って、の腕からするりと抜け出すと昌浩をからかうように合いの手を入れる。 「きっと疲れてるんだろう。末息子の行く末を案じて。あーあ、父親ってのはほんとに大変だなぁ」 「お前に言われたかないわっ!」 ばしんっ、と物の怪の後頭部をひっぱたいた昌浩に目を剥く吉昌。 「ま、昌浩っ!」 「ひでぇよ」 「兄上?」 なかでも一番昌浩にとって打撃となったのは、キツい目でこちらを睨み付けるように見る妹の視線だ。 先ほど、笑顔を見ただけに精神的に、くる。 は物の怪を膝の上に抱き上げると叩かれた物の怪の後頭部をすりすりとさすってやる。 「あ、もっくんズルい!」 『ちっ』 滅多にない様子の妹を独り占めしている物の怪に昌浩が睨みを利かす。 実はもう一人(?)部屋の隅でイライラしている唐橘の樹精さん。 「へっへーん」 尻尾が自慢げにゆらりと揺れて、昌浩はそれをはっしと掴む。 「冬華から離れろー!」 「やなこったー!」 「くっ、くく…………っ」 押し殺すような笑い声だったが、確かに声を出して笑ったに吉昌、昌浩、物の怪、果てはの視線までが集まる。 視線に気付いたは頬を赤く染めて、数度咳払いをした。 「失礼」 「えっ、いや、そんな」 昌浩も吉昌ももっとの意外な姿を見たかったようだが、照れくさくなったはすぐに表情を引っ込めてしまった。 「冬華は動物………好きなの?」 何とかに笑顔を戻そうとしてか、昌浩は妹の意外な一面について訊いてみる。 「……………好きです」 動物を前にすると自然と和む。 張り詰めていた神経もほどけて、一番安らかな心地になれる。 妹がそう告げた表情があまりにも穏やかだったからだろう。 「よし。もっくんは、今日からうちで飼おう!」 昌浩がもう決めた、とばかりに声を張り上げると、物の怪がかぱっと口をあけて僅かの後に喚く。 「おい、昌浩!俺は犬猫じゃないぞっ!いつも心に悠々自適という座右の銘を持っていてだな!」 「もう決めた!お前は俺と冬華の飼い物の怪だ!」 「あんまりだーっ!」 「文句言わないっ!」 「ま、昌浩!」 狼狽える吉昌を後目に昌浩と物の怪はぎゃーぎゃー言い合いをしている。 どちらも本気で口喧嘩をしているわけではなく、軽い言葉の応酬といったところか。 「冬華、紹介するね。物の怪のもっくん。自称ものすごーく長命でものすごーく偉い」 「待て!その言い方は誤解を呼ぶ!大体俺は物の怪と違う!もっくん言うなーっ!」 静観していたは悪戯めいた笑みを口の端に浮かべて、口を開いた。 「よろしく。………………『もっくん』」 「お前もかーっ!」 今度はも交えて騒がしくなった様子を見ていた吉昌は、魂が抜けそうなほど大きな溜め息を一つ零して眉間を押さえた。 結局、昌浩は負けず嫌いが先に立って、件の妖を一人で退治しなければならなくなってしまった。 翌日から精力的に術知識の復習をする昌浩。 何だかんだ言って、物の怪は昌浩のそばをうろつき、邸に居座っていた。 冬華も何かと理由をつけて物の怪に遭遇し、日々の癒やしを求めている。 昌浩が一通りの復習を終え、行動の期日を選び出すまで七日かかった。 何故だかも行動を起こさず、怨霊がその廃墟を抜け出さないよう結界だけを張り、まるで何かを待つかのようにじっとしていた。 「冬華、怨霊の方は調伏したのか」 祖父と父に呼ばれ室に赴いたは、晴明が難しい顔で言うのに特に疚しく思うこともなく、状況を告げた。 「結界を張り、様子を見ております。内にも外にも効く結界ですので、被害はありませんでしょう」 「うむ。じゃがもう七日だぞ」 「ええ。討伐には今晩が良いと『偶然』昌浩と同じ占が出まして。ちゃっちゃと終わらせて『運良く』昌浩と合流出来ればと思っております」 言葉の端々に作為的なものを感じた晴明は、嘆息して静かな目でを見やった。 「昌浩を信じてやってくれんかのう」 「ああ、そっちの面ではあまり心配しないことにしました」 何たって紅蓮もいますし、と言う孫に自分に似た喰えなさを感じて、晴明は苦笑いを浮かべる。 「ただ私が見たいんです。可愛い兄の華麗な初陣をね」 どーせ、父上もおじい様も二人して見るつもりなんでしょう 。 「手は出しませんから、ご安心下さい。昌浩の力で倒さねば意味はありませんものね?」 つらつらとそう告げて、すいっと立ち上がる。 部屋を出掛けてふと気がついたように振り返って、立ち止まった。 「成親兄上の昔の狩衣、残っていたら貸していただけませんか」 「確か露樹が丈を直して昌浩に渡したと思うが」 「そうですか……」 吉昌の言に残念そうに返したはでは何とかしてみます、と肩を竦めて今度こそ部屋を後にした。 「………………何故、冬華が狩衣を?」 父と子だけになった部屋で吉昌がぽつりと呟いた。 「去年の内に随分背が伸びたようで昌浩のではきついと前々から言っておったのう」 「それはつまり…………」 「怨霊と対峙するのにいつもの襲や壺装束では不向きだろうて」 効率を追求するのは仕方ないが、娘がどんどん男らしくなっているように感じてならない吉昌だった。 自分の部屋に戻ったは間もなく夕暮れに差し掛かった空を一瞥して、早速必要なものを揃え始めた。 「符、とあとは数珠………。怨霊相手じゃ霊刀より真言の方がいいか」 唐櫃からぽんぽん投げ出しているものをが器用に受け止めて荷に纏めていく。 別の櫃から先ほどが片づけた外着を取り出しかけて、は何かを思案するように手を止めた。 くるり、と振り返るとの姿を上から下へと舐めるように見て、一つ頷いた。 「、お前衣を脱げ」 「は」 下された命令にはい、と言いかけて思わず固まったに、は特に気にした様子もなく、言葉を続ける。 「お前、式神のくせにどうして会う度に衣が変わるんだ?今日は縹の狩衣、昨日は青鈍の直衣、一昨日は葡萄茶の直垂を着ていただろう。一体何着持っているんだ」 「衣と申しましてもこの姿は全て霊力で形成しているものですから」 思念によって如何様にも変えられます、という。 「では何だ、一着よこせと言っても無理なわけか」 「はい」 ふむ、と考え込んだは暫くののち、一つ頷いて言った。 「それでもいい、脱げ」 「ですから私が着ていないと恐らく消えると」 「根性でもたせろ」 あっさりと根性論で切り伏せたはの襟元を緩め始める。 「ちょっ、冬華さま!」 「何だ」 着々と剥ぎ取り続けるを前に何とか距離をとって、気付けば帯はの手の中、狩衣の上衣は床に落ち、袴の紐も片方が解かれている。 追い剥ぎもびっくりな手際の良さだ。 しかし、先ほど言ったとおり、から離れた衣はの手にあるものもその跡すら残さず透けるように消えてしまう。 そうしては元の姿で佇んでいるのだった。 「ちっ」 ガラ悪く舌打ちをするを見て、は恐る恐る提案した。 「舞姫の折、藤原行成殿から賜った布が一疋ありませんでしたか」 「あるが…………まさか作れと言うまいな?」 「………………私でよろしければお作りいたします」 「お前が?」 驚いた様子のにが自信なさげに頷く。 「…………分かった。頼む」 「はい」 「仕方ない、今晩はあまり動きまわらない戦法で行くか」 結局壺装束で行くことに決めたは月が昇り、夕餉を終えるや否やすぐに部屋に戻って準備を始める。 昌浩は人気が少なくなってから出かけるようで、さっさと終わらせて昌浩と合流したいと思っているには好都合だ。 壺装束に髪だけを結いあげて、はこっそりと邸を抜け出す。 祖父と父の理解はあると思うが母まではどうかわからないためだ。 左京の北端に近い安倍邸から外れまで行くことはほぼ京を端から端まで移動することになる。 南北約4,9キロメートル、以前のならば走り抜けて四半刻もかからないが、この衣装では多く見積もった方がいいだろう。 を無理やり付き添わせて貴船の山で基礎体力の向上と一通りの武術はこなしている。 女とはいえ、以前と劣らない運動能力を持っている自信があった。 「月随分上ったな」 がやっと足を止めたのは今にも倒壊しそうな荒れ邸の前。 以前下見に来た時に張った結界は変わらず強力な威力を持って邸を切り離している。 一見ただ誰も住んでいないために寂れたような邸は、が結界を潜り抜けると姿を変える。 夜の闇のせいではなく、空気そのものが黒く濁っているように感じる。 風とも判別できない唸り声が邸全体の梁を震わせ、侵入者に向けて勢いよく妖気が吹きつけられた。 「――――禁!」 によって築かれた不可視の壁のおかげでそれらはことごとく霧散する。 「わが怨讐を阻むはたれぞ…………」 妖気の最も強く空気が最も濁っているところ。 ぼんやりと浮かび上がるそれはちゃんと人の形をしていた。 「権力闘争に敗れた朝廷貴族といったところか…………」 「調べなかったんですか?」 「知らん。興味もない」 が後ろから問いかけるとあんまりな答えが返ってくる。 「のけ。わが道を阻むは大罪なり…………!!」 物理的な風を伴って、妖気がの市女笠を飛ばした。 一つに結われた漆黒の髪が風に吹かれてうねる。 邸にかろうじて残っていた様子の調度品がを狙うように叩きつけられ、梁の一つがの頭上めがけて落下した。 「愚かなり、愚かなり――――!喰ろうてやろう、その霊力もろとも喰ろうてやろう!!」 もうもうと砂と埃の舞う中、けたたましい哄笑と共に怨霊が宙に浮かびあがって屠った獲物を探す。 「――――だ、そうだが?」 「させません」 落ち着いた声が二つ響くと共に積みあがった調度品と梁が、壁際まで弾き飛ばされた。 怨霊がぎらつく眼で先の邪魔者をねめつける。 の周りにはしゅるしゅると音を立てて棘のある枝が壁のように渦を巻いている。 ただの枝ではない。 それ自体が霊力を持って結界の役割もしていた。 物理的な攻撃、砂塵や埃に至るまですべてからを守っている。 ぴしっと鞭のように地面を打つ枝が数本あり、それが梁を投げ飛ばしたのだろうとわかる。 それらはすべて地面から生えていて、の足元から立ち上っていた。 「、後は俺がやる」 その言葉に枝が一斉に解かれる。 姿の見えた獲物に怨霊が反応するよりも早く、は印を組んでいた。 「オンキリキリバサラバサリブリツ、マンダマンダウンハッタ!」 霊力が形をなして四本の杭を怨霊の周りに打ち込む。 「オンビサフラナツラコツレイ、バサラウンジヤラ、ウンハッタ…………オンサラサラバサラ、ハツラカラウン、ハッタ!」 その杭に網をかけ牆をなし、いともたやすく怨霊の動きを封じる。 「生霊、死霊、悪霊絡め取り給え給はずんば不動明王、オンビシビンカラシバリソワカ」 さらに厳重に不動明王の縛呪をかけ、はとうとう剣印を結んだ。 「八剣や、波奈の刃のこの剣、向かう悪魔を薙ぎ祓うなり。天地玄妙行神変通力勝!」 閉じ込められた結界の中で怨霊の姿が霧散した。 「邪気、退散」 夜空を突き上げるほど白い光がの体から立ち上がり、周りの妖気もろとも霧散した怨霊を浄化していく。 全てが終わった時、は最初の立ち位置から一歩も動いていなかった。 「お見事です。徹底的に動きを止めましたね」 「そうすると言っただろう?金剛杭、金剛網、金剛牆、さらには明王の縛呪。下手に動きまわられても面倒くさい」 吹き飛んだ市女笠を拾って埃を叩き、ひょいと頭に乗せてを視線で促す。 日が落ちてから随分経っている。 急ぐぞ、と声をかけて走り出しかけたはの呼びとめる声に足を止める。 「人気がないようですから、式で移動しても差し支えないかと」 「そうだな、その方が早い」 懐から折り鶴を取り出して術をかけようとして、は何かに閃いた様子で鶴をしまった。 「、犬になれ」 再び言われた命令に、は混乱を極めた。 え、どういう流れでそうなったんですか、と聞きたいのもあるし、主が求める犬の姿が騰蛇の仮の姿のように愛らしいものなのか、という疑問もある。 「えーと、どのような犬でしょう………?} 「一番最初になった大きな犬。あれなら乗って行けるし、飛ぶよりも安定していて楽だ」 乗り物にされるとはっきり分かったは言いつけどおり、巨犬にと姿を変える。 伏せをしたの背にが何とかよじ登り、横座りの姿勢で落ち着いた。 しっかりと毛並みを掴んで、行け、と声をかけるとは滑らかに走り出す。 闇に溶けるような黒い大きな獣が路を疾走するのを誰かが見たら腰を抜かすだろう。 「、神将の気が西洞院大路にある」 くるり、と向きを変えては小路を飛び越して邸の屋根を伝う。 見かけほど重さもないようで、音もなく瓦の一つも傷つけず移動しているのが見てわかる。 西洞院大路に降り立ったの背から、は滑り降り、少し先を行く昌浩に悟られぬよう後をつける。 「冬華様、妖は地中に潜んでおりますから上を行ったほうがよろしいかと」 緒太ではどうしても立ってしまう足音に気付き、はに一つ頷いた。 がの腰をさらって邸の塀の上に飛び上がる。 塀伝いに後をつけながら、昌浩が妖に出会うのを見ていた。 「………………見鬼、戻りませんね」 「戻るはずだ。おじい様も命に関わるような嘘は言わないはず……………………たぶん」 最後の一言が祖父への不信感を如実に表しているようで、はあきれた表情をした。 昌浩たちは広い朱雀大路に向かって走って逃げている。 「追うぞ」 はまたに抱えられ塀を伝って走り抜ける。 追いついた二人が見たのは妖の舌に足を取られ、今にもそのあぎとに引きずり込まれそうになっている。 クールな表情も崩れてはらはらと見守るを横目に、主も対外心配性だな、とは感慨を覚えた。 昌浩が必死に繰り出した術も効果が見えず、恐らくまだ見えていないのだろう、泣きそうな面でずるずる引きずられていく。 かろうじて物の怪がつっかえに入り、昌浩の身を守っている。 「いいのですか、冬華様。動かなくて」 「おじい様にああ言った。昌浩と………紅蓮を信じる」 そういうの面は今にも倒れそうなほど真っ青だ。 「頑張れ……………昌浩」 小さく呟いたの思いが通じたのか、昌浩の動きに変化が生じた。 見え始めたようだ。 夜空に響く大声で、こちらにまで届くような声で昌浩が決意を叫ぶ。 「俺の目標は、誰も犠牲にしない人生で最高峰の陰陽師だ!」 『俺はそんなお前を時に見守り、時に助けよう……………』 口の中でも誓う。 物の怪が妖に飲まれ、昌浩の叫びが空を渡る。 突如、夜の闇を裂く火柱が噴きあがった。 本性に戻った騰蛇を見て、が胸いっぱいの息を吐き出した。 心臓に悪い………………。 こんなぎりぎりではさぞ晴明と共に見ているであろう吉昌も蒼白になっていることだろう。 「大丈夫ですか?」 「、次からは邸で見守ることにする。でないとじれったくて息が詰まりそうだ」 もう視線の先では騰蛇の助力を得て昌浩が術を使っている。 眩しいほどの霊力に、は目を眇め、同時に東の空が白んできていることに気付く。 早いものだ、もう夜が明ける。 ひょい、と塀から飛び降りて、地面に座り込んでいる昌浩のもとへ歩を進める。 「お疲れさま、昌浩。それと御苦労さま、もっくん」 「冬華!どうしてここに!?」 「もっくん言うな」 ひょいと物の怪を抱えるとその背を撫ぜるようにして背中の傷をさりげなく癒していく。 恐らく妖のあぎとのつっかえとなった時の傷だろう。 それが分かるのか、物の怪も大人しく抱かれている。 「私もおじい様から怨霊の調伏を命じられて左京の外れの邸まで行っておりまして、その帰りですの」 「ええっ!冬華になんてことやらせるんだよ!怪我しなかった?大丈夫だった?」 「ええ、何とか」 それを聞いては容赦なく圧勝だったくせに、と小さく呟く。 それを華麗に黙殺したは早く帰らないと寝る時間がなくなりますわよ、と物の怪を抱いたまま促す。 その腕の中から物の怪が飛来する何かに気がついた。 「鳥」 二人の頭上でそれは一枚の紙片に姿を変え、ひらりひらりと舞い落ちる。 指を絡めるようにして空中で受け止めたはそれにざっと目を通した後、無言で物の怪を下し、昌浩に手渡す。 そして耳に両手をあてて音を遮断した。 険悪な表情になっていく昌浩を見て、ああ、やっぱり、と。 の読みは外れることなく大変近所迷惑な大声が明けの夜空に響き渡った。 |