朋友






年端のいかない幼子の手に、ぎらり、と研ぎ澄まされた刃特有の光が煌めく。

幼子はそれを逆手に握ると、目の前の対象にその切っ先を突き当てた。



「冬華、逆手は危ないから止めなさい」

短刀を握り締めたの手に、大きな手が重なって押しとどめた。
正座をして文机に向かうの横には、料紙の束を手に次兄、昌親が座っている。

と向かい合うように文机を置いて座る昌浩は、成親の胡座をかいた膝の上に腰掛けている。
そして昌浩の手にもやはり短刀。


たまたま長兄と次兄の物忌みが重なったこの日、二人のそばでなら式を作ることが許された。
晴明の手ほどきを受け、作り方はもう知っている。
晴明と一緒に作ったものをよくとともに兄たちに見せに行ったものだ。

今日は兄たちに自分が作ってる様を見てもらえる、と昌浩は張り切っていた。

一回り以上年の離れた兄たちは、完全に保護者の目で見守っている。
二人を気遣ってか、紅蓮は姿を消していた。


は言われたとおり、袖を捌いて短刀を握り直し、料紙の邪魔な所を切り取った。

「何を作っているんだ?」

成親が昌浩の指先に視線を落として尋ねた。

「あのね、じいさまがよくつくってるの」

恐らくは鳥の式のことだろう。
成親は昌浩の頭をくしゃくしゃと撫で、妹の手元にも視線をやった。

「冬華は?」

昌浩が作っているものとは違い、折る、というよりも切り取るという作業が多い。

「………蝶々」

切り取りの作業を終えたそれを中心で二つに折り畳んだ。
簡単な形。
ただの紙片にしか見えない。

最後に筆でその紙片になにごとか書き付ける。
幼子らしからぬ流麗な筆跡に昌親たちは舌を巻きながら、妹を暖かく見守った。

手のひらでそれを包むように持って、はふわりと宙に放り投げる。
ひらりひらりと舞いながら、重力に従って落ちるそれは、机に触れる前に不自然に閃いた。

つい、との視線が、ぱたぱたと翅を羽ばたかせて、天井の梁の近くにまで舞い上がる蝶を追う。

まるで白い本物の蝶のよう。

の視線が蝶に注がれる中、くしゃくしゃと髪が掻き乱される。

「………兄上」
の髪に指を絡めた成親が、しみじみと感慨に耽りながら穏やかに微笑んだ。

「上手に作れたなあ、冬華。昌親、俺は今、子の成長を見守る父親の心情だ」
「私もです」

ここに吉昌がいれば三人揃って末娘の成長を喜んでいるだろう。
実は紙の式どころか、樹精を呼び出して式を作ることまでやっているのだが、それは家族の預かり知らぬ所だ。

澄んだ眼差しで、は自分の霊力で動いている式を再び見上げた。



「できたー!」

拙い字が書かれた、不格好な鳥を掲げて昌浩が満面の笑顔で声を上げた。

それは昌浩の手を離れて、よろよろと飛び立つ。
白い鳥はの蝶に寄り添うように梁に止まって。



襲った。



昌浩の式に嘴で突き刺された蝶がただの紙片に身を変えて、はらはらと舞い落ちる。

みんなの視線がその紙片を追いかけて床に落ちたとき、一斉に素早くに移った。

は膝元に落ちた蝶を、何とも言えない困ったような表情で拾い上げた。

実は突然の事に驚いて上手く言葉が見つからなかっただけなのだが、成親たちはその表情を泣きそうなものと勘違いした。

「ごめん!ごめんね、ふゆか!」

昌浩がの膝にすがって自分が泣きそうになりながらひたすら謝った。

「謝らなくても……」
「冬華、悲しむことはないぞ。あれは良くできていた。もう一回昌親とつくるといい」
「今度は何にするんだい?鳥かな、蝶かな」

口々に、言葉を返す間もなく言い募る兄たち。

昌浩が自分の式を回収すると、それをすぐに破こうとした。

「昌浩」


昌浩の手首をぎゅっとつかんで、はそれを制する。

「それは昌浩が一生懸命作ったものではなかったのか………しら」

兄の前なので、まだ不慣れな女言葉では話し出す。
兄の口から太裳の耳に入ったら、やっと終わった深窓の姫君講義を再び受けることになる。

「でも、ふゆかのちょうちょ………」
「それはそうだが……ですが、壊れてしまったものの贖いに、昌浩の頑張って作った式を破られても嬉しくありません」

ぐしゃりと指の形がしっかりついた式を昌浩の指から取り上げてシワを伸ばす。

「おじい様に見せるのでしょう。私はもう一度作ります」

昌浩の頭を一撫でし、手のひらに式を落とす。

「………うん。ごめんね」

「子供は知らぬ内にこうして大きくなっていくんだなあ」
「女の子は早熟と言いますからね」

早熟どころかもうとっくに成熟してます、と言いたくても言えない精神18歳。

子供のフリはともかくも、扱いは随分うまくなった。

違和感があっても仲良く式作りなんかに勤しんじゃっている自分を思って、はちょっぴりしょっぱい気持ちになった。




結局、あれから晴明が帰宅するまで四人で式やら紙細工やらを作り続けた。

この時代、折り紙の文化などあまり発達しておらず、の指が生み出す精巧な作品に皆が驚愕。
机の上には、昌浩に強請られて作った鶴や蛙や狐が積み上がっている。

昌浩はに教わって作った自分の作品を母や兄に配って回っていた。
成親も昌親も危なっかしい昌浩について行った。

一人、床に散った紙片を拾い集めていると、ぽん、と頭に手がのせられて、机の上から鶴が取り上げられる。

何でこの人はいつも頭を撫でるような仕草をするのだろう。
まるで幼子をあやすように。

思ってから自分が幼子であることに気付いて苦笑する。
『今』にない『昔かつ未来』を思い出しているとと、やはりまだ違和感を感じる。

高於加美神との会話で自分が異質な存在であることは何度も確認したけれども。

この人にとってはただの妹でしかないのだ。

「これを貰っていいか、冬華」
「昌浩が兄上に差し上げたものと同じですが」
「同じじゃないな。俺は冬華のも貰いたいんだ」

笑って言う成親に冬華は無言で首肯した。

「余ったのはどうするんだ?」
「昌浩とおじい様に押し付けようかと。記念に取っておくようなものでもないですし、後の処理は個々の判断に任せます」

今更の語彙力に驚くこともなく、成親は頷いた。

まあ二人とも喜んで受け取ってくれるだろう。

二人に大量に行き渡りそうな折り紙細工の山を見て、成親は冗談半分に言った。

「どうせなら神将に配ったらどうだ?」
「それは良い考えじゃ」

気配もなく、突然聞こえた祖父の声に振り返って存在を認めた二人は、神出鬼没、という言葉が脳内によぎった。

「冬華、お前の手から神将に渡してあげなさい」
「でもいませんし」
「そんなこと。呼び出せばよかろう」
「でもわざわざ呼び出すのも」
「わしが主じゃ。わしのやりたいようにやる」
「でも」

かわいそうな神将、という考えが心に浮かんだ。
視線で成親に助けを求めるが、成親は人を食ったような笑みを残して部屋を出て行ってしまった。

「………いらないと思いますけど」
「冬華が一生懸命作ったものを要らないなどと言う者がいるわけあるまい」

のう、と虚空に問いかける晴明。

そこにいたのは運の良いことに朱雀と天一で、朱雀は机から桔梗を模した細工を取ると、天一の結い上げた金髪に差した。

「天貴が身につければ紙細工であろうと似合う。綺麗だ、天貴」
「朱雀………」
「冬華、もう一つ貰うぞ」
「どうぞ」

懸命にも何も言わず頷いた冬華の前で、朱雀はもう片側にも差し、更に歯の浮きそうな褒め言葉を言った。

この二人で運が良かったのかどうかは微妙なところ。



異界にいる者達も呼び出しておくから、と狸笑いをする晴明に言われ、は渋々邸の中を十二神将を探し回ることした。

「そうだ、昌浩」

母にあげて戻って来た昌浩には声をかける。
周りに神将がいないことを確認して、声を潜めて耳打ちをした。

「あのな、頼みがあるんだ――――

こそこそと告げられた昌浩は不思議そうに首を傾げてから頷いた。



「紅蓮」

成親たちに遠慮して姿を消していた神将を、庭に出て小さな声で呼んでみる。

「どうした?」

すぐ後ろに、顕現する気配と共に声が落とされる。
昌浩は見鬼を封じられてのち、紅蓮の存在を捉えることが出来なくなっている。
始めの頃は抱き上げてくれた大きな力強い腕を探していたようだが、今ではその記憶すらも曖昧だろう。

「昌浩と……私から」

これだけは一枚の料紙で出来てない重ね折りの蓮。
色は桜の枝で染めた料紙を使った、淡い薄紅色の花。

「神将に贈り物をしてどこにしまっておくのかものすごく気になるけれど、あげる」

無表情で差し出されたそれに、紅蓮は驚きを隠せない。

「贈り物をしたのは初めてだな」

まるで湖面に浮かべるような優しい手つきで、しゃがませた紅蓮の手のひらに蓮を落とす。
花びらの形を崩さないようにそっと受け取った紅蓮は、何か爆発しそうな感情を堪え噛み締めるように、深い優しさを滲ませた瞳で笑った。

「形の無いものを、いっぱい貰ってるさ――――

くしゃりと鋭い爪で傷つけないように優しく撫でられて、は照れくさそうに笑った。


まだまだ、残りの神将に配らなければいけない。
昌浩と一緒に作った『トクベツ』を渡した紅蓮と先に渡した朱雀と天一(天一に二つあげていたから二人分とする)をのぞいて、あと九人。

天空に関しては晴明も苦手らしく(何があったのか非常に知りたい)、太裳に渡せばよい、と言われたから実質八人。


一旦自室に戻ると、都合よく天后と勾陳が一緒におり、何を言うより先にの持つ籠から鶴をすくい上げた。

に紙細工を貰うまで異界に帰るのは禁止と晴明に言われてな」
「何だか色々すみません」

思わず本心から敬語を使いたくなった。
気にするな、と手を振られて天后にも鶴を一つ渡す。

「頂きます、冬華様」

真面目そうな表情で、印象通り丁寧に受け取った。

「それにしても良くできている。一枚の紙から出来ているとは信じられないな」

勾陳の感心した言葉に素直に礼を返して、次なる神将を探して部屋を後にした。

残る十二神将は、太陰、玄武、白虎、六合、太裳(+天空)、青龍。

誰に会いたくないかはともかくとして、一番最後が最大の難関のようである。
無視されるか避けられるかの絶望的二択かもしれない。

思案している内にぶわっと穏やかとは言えない風が吹いて、は慌てて籠を抑えた。

「紙細工、配ってるんですって?」

神気を含んだ風がおさまると同時に、少女の、しかしとは似ても似つかない甲高い声が聞こえた。

目の前に降り立った少女は神将の中では最も小柄な太陰。
その後ろに呆れたような少年、玄武。
風をたよりにか白虎までが顔を出してくれた。

内心ガッツポーズのは三人まとめて紙細工を渡した。

「晴明が言っていたのはこれか」
「………なんかもう、ほんとにすみません」

苦笑した白虎は紙風船を取り上げた。
彼の神気か、風船はふわふわと浮かんで揺れる。
太陰は白虎同様に鶴を風で浮かそうとするも、強すぎる為か舞い上がって落ちてしまう。

「ああ〜、もう!」
「太陰、優しくやらねば落ちてしまう」
「分かってるわよ!」


玄武は口の開く狐を興味深そうにしながら、自分よりも下にある主の幼子に視線をやった。

「すべて冬華が作ったのか」
「まあ………なりゆきで」

昌浩に折り方を教える為に折っていたら、勿論一回の手本で終わるわけもない。
一人でできる室内遊びとして覚えたものがこんな所で役に立つとは。

「そういえば、玄武は囲碁を打つのですか」

室内の遊びということで、は以前晴明と玄武が囲碁を打っていたのを思い出した。

もルールは知っているが、誰かと対局したことはない。

「晴明とたまに打つぞ。それがどうかしたか」
「いえ、今度教えて貰いたいと思って」
「構わん。我の手が空いている時ならばいつでも教えよう」
「ありがとう」

白虎から六合がどこにいるのかを教えて貰って、は三人のもとを去った。

六合は晴明とともにいるようで、はまっすぐ晴明の部屋に向かった。

「おじい様、失礼します」

戸を開けると中には晴明と、陰形していない六合が片胡座で座っていた。
見鬼がそれほど強くないと偽っているへの配慮なのだろう。


実は全く必要ないが。

籠をもって六合に歩み寄ったは、腰を下ろした六合と高さでは同じ。

「どうぞ」

籠を前に突き出して言ったを落ち着いた黄褐色の瞳で見返した六合。
表情を変えぬまま花を取り上げ、すっと陰形した。

「なんじゃ、愛想のない」

晴明が扇をパチリとならして、つまらなさそうに言う。

(仮にも神の末席に連なるような神将がガキに折り紙貰って喜ぶわけあるか!)

喜んでいたものもいるにはいるが。

「喜ばれたらむしろリアクションに困るっつーの」
「口調が乱れてますよ」

ぼそりと呟いたの横に出来れば会いたくなかった神将が顕現した。

「………太裳」
「もう一度一から教えましょうか?」

にっこりと笑みすら浮かべて言う太裳の目は笑ってない。
も負けじと笑み返して、上品な口調と仕草で籠を差し出した。

「いいえ、ご心配には及びませんわ。いかが?宜しければ天空の分も」
「ええ、ありがたく頂きます」

そう言って蛙を二つ取り上げて、最後に意味深な笑みをに残して姿を消した。


「冬華、太裳と何かあったのか」
「おじい様、人選………神選?を間違えておられます」

幼少期、と言っても今もまだ幼児だが、の女らしくない口調を直すために、着袴前の数ヶ月騰蛇の代わりについていたのが太裳だった。

後ろに背後霊のようにひっついて、素が出るたびににっこり笑顔で訂正。

15年間男だった今更、厚い猫を被れるようになるまでには多大な努力、と心労が必要だった。

あれは幼少期の刷り込みだなんて生優しいものではなかった。

トラウマだ。

今でも太裳を前にすると緊張が走る。

晴明に恨みを込めた視線を送るが飄々として流された。

「それで?最後の一人、青龍は何処です」
「異界には戻っていない。いずれ見つかるだろうて」

はこれ見よがしに溜め息をついて、ここまで来たら意地で青龍を探し始めた。



徹底的に避けているのか、にも分からぬほど注意深く陰形しているのか。

夕餉の時刻になってしまい、は一先ず家族の揃った食卓に向かった。

、見つかったかの?」
「………ここまで避けられると何が何でも押し付けたくなりますね」

最初は晴明に言われたから、途中からはもう十割が意地だ。

「何のことです?」

帰宅したばかりで状況のつかめない吉昌が父と娘を見比べて尋ねた。

「冬華が作った大量の紙細工を十二神将に配るように言ったのじゃ。残るは青龍のみ」

話を聞いて、知っていた成親を含め、露樹と昌浩を除く全員が何とも言えない表情になった。

天一や玄武はともかく、赤子も泣いて逃げるような青龍に渡すのか。
いや、それより実際泣き出す騰蛇を攻略したのか。

内心の賞賛と憐れみを込めた視線を末娘に向けて、吉昌は言った。

「その紙細工、父にもくれないか」
「まだまだありますから、是非」
「母にもくれますか、冬華」
「勿論です」
「私も貰っていいかな」
「はい」
「ふゆか、おれも!」
「どうぞ」
「そう言えばわしも貰ってないのう」
「と言うか、全部持ってって下さい」

この後一人ずつ行き渡らせて、すでに貰っている成親が籠の残りを覗くと、ぽつんと薔薇の細工が一つ入っていた。
かなり細かくて昌浩は早々に断念したものなので一つしかない。

「青龍に花か………」
「頭に咲かせてやりますから」

がっと籠を掴むと、青龍を探して家族団欒の輪を抜け出した。

いい加減も終わらせたい。

余るなら捨ててしまえとは言わないが、折ったのを開いて書付にでもすればいいと思っていただけに、なんだかんだ皆が貰っていくのを見るとなにやら気味が悪い。

親心も兄心も理解できないであった。




、青龍の気配は」

青龍が極限まで気配を薄めていてに分からなかったとしても、の察知から外れることは出来ない。
安倍の邸の中ではが根を張っている。
この根は目に見えるものではないし、地脈に紛れて察することも出来ない。

それに対し、どうやらは根から常に周囲の様子を感知することが可能なのだ。

『屋根に』

そっと風そよぐような声が返ってきて、
は面倒くさそうに溜め息をついた。

そして何事かを呟くと裸足のまま庭に降り立った。




青龍は屋根に立って空を睥睨していた。

今日は、何やら訳のわからない命令をしてきた晴明に呆れて、ずっと姿を隠している。

自分の孫から紙細工を受け取れと命ずるなど馬鹿げている。
しかもその孫は騰蛇が特別扱いしている双子の一人だ。

騰蛇に対しての憎悪が、ひいてはその子ども達にも向けられる。

庭に出て来た子どもを見て、さらに眉間に皺が寄った。

確かに皆が言うように、面差しは晴明によく似ている。
しかし、その本質はどうやら安倍家の誰にも似ていないようだ。

間近に人がいては見せることのない冷たい眼差しに気づいているのはどれほどだろうか。

敵とは思わない。
だが守るべきものとも思わない。
青龍の中で、孫娘は境界線の外に位置する者だった。

そしてその不穏な眼差しが変わらない限り、その区分は変わらない。

裸足で庭を歩く幼女に興味を失って、新月も近い、薄い月がかかる夜空を青龍は再び見上げた。

と、その時。

頬を何かが掠めて青龍は本能的に攻撃体制に入った。
飛んできた方向を見ても何もいない。

いよいよ本格的に殺気立ち始めた青龍の背後で、衣擦れの音がした。

「闘将も大したこと無いな」

傾斜のある屋根に危なげなく立った少女。
間違いなく先ほどまで青龍の視界にいたはずの、孫娘。

年不相応な、皮肉った眼差しで傲然とこちらを見下ろしている。

「貴様………っ」
「渡したからな。お前で最後だ」

言われて数瞬の後、首の後ろに感じる違和感に気がついた。
低く括った水色の長髪に簪のように一輪の、本物の白薔薇がささっていた。
それを驚きながらも抜くと、青龍の手の中で紙細工に変わる。

「何のつもりだ」
「おじい様に言われたんだ。神将全員に渡せとな」

散々逃げてくれやがって。

舌打ちと共に毒づかれて、あまりの口の悪さに思わず面食らう青龍。

「貴様は何者だ」

青龍の手がの胸ぐらを掴み上げる。
力を入れれば折れてしまいそうな細い首と白い喉を晒して、は笑った。

「知る必要のない。今の私は安倍冬華」

そう言って青龍の手首を幼い手で掴むがの力では引き剥がすことなど不可能。

「一人くらいお前のような奴がいていいかもしれない」

ここの人達は皆優しすぎるから。
透き通った声で言ったに思わず青龍の手か緩んだ。
それに自分で気がつき、再び問い質そうとした時、闘将と張るほどの霊気が青龍の体を傾がせた。

がっ、と何者かに手首を取られて、青龍の意志ではなくから引き離される。

青龍の手首を掴んでいるのは、男。

狩衣に烏帽子、黒い髪など普通の人間かと思えるがそうではない。
闇の中で光を放っているかのような山梔子色の瞳が、それを否定する。


「申し訳ありません。しかし胸ぐらを掴まれて黙っているわけには参りません」
「喧嘩っ早いヤツ」
「あなた限定です」

呆れたように首を振る
青龍がを突き飛ばように距離をとった。

「貴様………っ!?」
「……………語彙力がないな。、もういい。戻ろう」

くるりと背を向けて屋根から脚を踏み出す。

「お待ちを!」

重力に従ったをすんでのところでが掬いあげる。
地面にそっと降り立たせてから、しゃがんでの目線に合わせてから叱りつけるように怒鳴った。

「死にたいんですか、あなたは!死なずとも怪我はするでしょう!」

実はを式にしたのを悔やむ時がある。

「顔に傷がついて一生痕が残ったら!」

樹精。
五行の内、『木』の性を持つ。
樹齢が長い樹や神域の樹に精霊が生まれるのは珍しいことではない。

樹齢が長いという点からか、たいていは温和で誠実なものが多いと聞いていた。

しかしは型破り。
誠実なのは認めよう。
貴船の神域の唐橘が本性なのだから先程のように闘将にも引けはとらない。

理想的な式なのだ。
性格がいまいち合わないことを除けば。

気障で情熱的、そして過保護。

お前は俺のお父さんか、と言いたいのをいつも堪えている。

「聞いているのですか!!」
「聞いている…………だが」
「何です」

何があってもお前が私を拾うだろう?

唇に笑みを刷いて、確信を込めた口調で言うは絶句した。

「あなたという人は…………」
「違うか?」

問いかけではなくて確認にの言葉に、は恭しく膝をつくと、頭を垂れた。

「御身、必ずやお護り致します。私の全身全霊をもって」

それに僅かな首肯で答える

視線をあげるとまだ屋根の上に立ってこちらを凝視している青龍と目があった。
の視線の先を追ったの表情が剣呑なものになる。
さり気なく後ろに庇われたを押しのけて前に踏み出した。

「見誤るなよ、青龍」

強い声。

「神と言えども未来は見えぬ、変えられぬ。その者の役目を見極めよ。過去は起きるべくして起こる。過去は過ぎ去り、未来は未だ来ず。運命は決まっていると言うが、それは人の行いの先にある」

まるで自分が神であるかのような口調。

「役割を見極めぬまま、敵と決めつけ激情し討ち果たせば、つくる未来もつくれぬ」

愕然としている青龍を残して、は簀の子に上がる。
ぺたぺたと何歩か歩き、後ろに残る足跡に立ち止まった。
白い簀の子に土の汚れがくっきりとついている。

「……………
「はい」
「雑巾と水桶。大至急」
「…………………はい」

に取りに行かせている間には座り込んで足の土を払う。

「青龍はどうじゃった?」
「おじい様、本当に神出鬼没ですね」

背を向けたままで、は背後に現れた祖父にとくに驚いた様子もなく言った。

「随分難しいことを言っていたようじゃの?」
「ただの受け売りですよ。とある神様の」




『見誤るなよ、
『何をです』
『神に未来を強請るな。人の子の運命は人の子のもの。神と言えども変えられぬ。お前がここに生を受けたのも人の子の運命の内。運命は天がさだめるというが、それは人の子の行いの後だ』
『………だから』
『時を図り、役割を見極めよ。お前に下された役割と、その機。早計に決断を下せば望む未来は作られぬ』




他人に言って初めて理解したようなものだ。
安倍冬華という橘の精神をもつ存在。
このことにも意味があると。
この世界にはがやらねばならない何かの役割がある。


「それで?わざわざ神将一人一人に会わせた訳は?」
「うむ、強いて言えば、友人づくりかのう」
「……………は」


何か目的があって自分と神将を対面させたのはわかっていた。
だからこそ後半は意地になりながらも祖父の命に従ったのだ。

異質な幼子への警戒を促そうとか、本性を見極めようとかだと思っていたのだが。


「友人………ですか」

重々しく頷いた晴明は嘆くような口振りで首を振りながら言った。

「冬華は賢いからのう、同年代の貴族の子女を友人にするなどまず不可能」

誉められてるのか貶されてるのか。

「かと言って二十も年上の男が友人というのも気がかりじゃ」

二十って………十じゃ精神年齢足りないってことですか。
精神年齢的には一応プラス十五歳なんですが。

「神将なら年齢なんぞ関係ないし」

もはや友人じゃないですね、友神ですね。


「………………一言いいですか、おじい様」
「何じゃ」
「時間の無駄です」


きっぱりと躊躇うことなく言ったに晴明は袂で目頭を押さえて膝をついた。


「ああ、じい様が皆と仲良くなれるようにお膳立てしてやったのに、なんて冷たい言い種じゃ。年頃になれば否が応でも貴族の方々と付き合わねばならぬ孫娘の苦労を少しでも減らしてやろうというじい様のまごころが分からんか」
「分かりませんね」

「邸の中でも友との触れ合いを学んでほしいというじい様の優しい優しい心遣いじゃったのに。今日も玄武と囲碁の約束をしていたからうまく行ったと思っておったのじゃがのう」
「あれは、その、この時代の囲碁に少々興味が」

つまり始めた相手にここぞとばかりに追い討ちをかける晴明。

「室内に籠もって殿とかいう立派な男性と何やら二人してこそこそやってる孫娘の将来を案じる祖父の心がわからんとは」
「人聞き悪いこと言わないでください。兄上達が聞いたら」

が言い切る前に、がたっと一番近くの妻戸が揺れた。
中から押し殺した声でしーっなんて言い合っているのも聞こえる。

半眼になったが勢いよく妻戸を開け放つ。
倒れ込んできた体を飛びすさって交わして、呆れたように言う。

「何やってるんですか」

前のめりに倒れ込んできたのは成親、昌親。
その後ろに吉昌や露樹も立っている。
露樹の腕の昌浩のみ、状況が分かっていない顔だ。

気まずいやら尋ねたいやらでもどかしい表情の面々が口を開く前に、桶に水を携えて戻って来たに視線がいく。

桶を持っていては地脈に遁行出来なかったのは分かる。
分かる、分かるけれども!

なんて間の悪い。

「冬華様…………?」

が主の名を呼んだときに安倍家の面々の表情がそれぞれ険しいものになる。

がしっと肩を掴まれて見上げると、笑顔の成親が何でも無い声で言った。

「兄に紹介してくれるな?冬華」

全然笑ってない兄の瞳を見て、そう言えばこの邸で姿を他人に見せたのは今日の青龍が初めてだっけ、ああでもなんでおじい様は知ってたんだろ、とは現実逃避した。




を紹介すると、祖父と父と兄達(昌浩除く)そして元凶のを残して母に連れ出され、暫くののち一人部屋から出てきて座り込んだの表情を見て、は無言での肩を叩いた。






安倍家には容姿も美しく才も芸も優れた姫がいる。

しかしその姫を手中におさめんとするや、その者は原因不明の幻に悩まされるとか。











おまけ↓


「という話を従兄弟が聞いたらしいのだけれど」

この時代の友人第一号、藤原行成が杯を傾けながらおどけたように言う。


今朝、行成からの文が送られてきた。

『庭の桜が美しく花開きました。花を愛でながら歌でも詠みませんか』という、言わば花見の誘いの内容であったのだが、とくに用もなかったは今こうして藤原行成邸で花を見るに至る。


「こうしてお誘いして私は大丈夫だろうか」

十割冗談で行成は問いかける。
そうですね、と思案するように杯の縁に指を滑らせてから杯を傾けた。

親の目が無いのでちゃっかり飲んでいるだが行成は何も言わない。
池に舟を浮かべて岸に咲く桜を眺めて歌を詠みつ、二人は杯を干していく。

行成の頬は酒のために僅かに赤身がさしているが、の涼しげな面は変わらない。
未婚のうら若き乙女と立派な男性が一緒に酒を飲むなど考えられないことだが、二人の間には本当に色めいたものがないのだ。

「成親兄上の目が笑っていなかったら危険かも知れません」
「最近は会っていないからなあ」

そう言う行成には一つ頷いて、では大丈夫でしょう、と言った。

「兄上なら裏でこそこそやる前に牽制に来るでしょうから」

今度会った時には気をつけるよ、と行成が笑って言って手酌で酒を注ぐ。

「そう言えばあなたはずいぶん酒に強いようだ」
「いえ、まだ序の口ですよ」
「なるほど、酔わせてなんとやらは余程の酒豪でなければ無理そうだ」
「少なくとも…………あなたでは私を酔い潰すのは無理なようです」

年若い娘にそう言われて怒るでもなく行成は微笑む。
それに優雅に微笑み返して、は自らの杯を満たした。


二人の間に散った桜が舞い上がる。


晴明の配慮も虚しく、最初の友人は十五も上の立派な男性だった。



2009/4/12  移動・修正