切磋琢磨





正月を迎えて数日後。

吉昌に呼ばれたと昌浩は大人しくその前に端座した。
そして話されたのはそろそろ元服および裳着を迎えて良いだろうとのこと。

それを聞いたはまたしても一緒に受けさせるつもりか!と部屋を飛び出して晴明の元に怒鳴りこみ、取り敢えず主張を済ませると晴明の言い分を聞き流して断固拒否を示した。

部屋に戻って急な退室を詫びたは、少し落ち込み気味の昌浩を横目に見ながら吉昌の話を受けた。

「元服と裳着は父上たっての願いで同日に執り行う。それに関してはまぁ」

ちらっと娘の顔に視線を流した吉昌はこれから一悶着ありそうだな、と気苦労を感じながら言葉を続けた。

「父上と冬華で話し合ってもらうとして。日取りを決めるまではまだ時間があるから、その間に二人でこれまで学んだ陰陽道の知識について本をさらって復習をしなさい」

女だから出仕することもなく、もちろん陰陽師になるわけでもないだが、これまで昌浩と同じく徹底的に陰陽道の知識を叩きこまれていた。
それは昌浩と同等の教育であり、分け隔てのないもの。
だからこそ、吉昌は将来陰陽寮の役人として出仕することになる昌浩と兄妹同士で切磋琢磨してほしいと思ったのだろう。
それに対しては異論のないだが、昌浩の目がきょどきょどしているのを見ると昌浩は異論があるのだろう。

吉昌が話を進めようとした時、昌浩が膝を乗り出すように勢い込んで言った。

「あ、あの!」
「どうした、昌浩」
「いや、どうせだったらここは視野を広げてみてですね、他にもいろいろと試してみたいなぁ、笛とか書とか武道とか」

それに対して吉昌は少々渋い顔になる。
出仕というのは早ければ早いほどよい。
何故なら、よほどの貴族ではない限り、一つの位に最も長くとどまっている古株の方が次の位に先に出世していく。

「しかし…………」
「よろしいのでは?」

渋る吉昌に口をはさむ

「出仕すれば仕事に追われる日々、趣味を嗜む暇などありませぬ。なれば、今の内に色々と経験を積んで芸を身につけるがよろしいでしょう。私は書や笛の技は身につけて損になるものとは思いませぬ。それに、私はおじい様と決着をつけねばならないことがございますのでもうしばらく日を頂きたいですわ」

の口添えもあって二人の元服及び裳着は一先ず見送りになった。



一週間の舌戦の果て、取り敢えずは承諾しただったが、一月半ほど経った今も、昌浩の方は諦め悪くまだ様々なことを理由に元服を避けている。

は離れから見える紅白の梅花を眺めながら、知人への文を認めていた。
曰く、書の手ほどきをしてくれる人を紹介してはくれまいか、と。

、あそこの白梅の枝を添えてこれを行成様へ」

墨が乾くのを待って文箱に入れて蓋をすると、を呼びつけて託した。
こうしては時折人身をとって(といっても神将と違って人に酷似した容姿のため朱金の瞳が黒になるだけであるが)雑色のような仕事をしている。
勿論それだけではなく、身の回りの片付けや衣服の用意なども自発的にやってくれるので一家に一人欲しくなるような式神だ。
行成邸では顔馴染みになっているであろうはいつものことだという表情だったが、白梅の枝、と聞いて首を傾げる。

「白梅を………ですか?」
「ああ。行成様の邸となれば白梅くらい咲いていようが、あそこの白梅は日差しが良いのか、見事な咲きだ」

が言いたかったのはそういうことではなく、横に咲いている紅梅ではなく白梅なのか、という意味だ。
万葉の頃は白梅を風流というものが多かったようだが、近年では紅梅がそれよりも好まれ、更には梅よりも桜が好まれる。
桜も咲き初めで良いころ合いだというのに、あえて何故白梅なのか。

「ああ、ちょっと待て。その枝にこれを結びつけろ」

さらさらと筆を滑らせて何事か書きつける。
が手元を覗き込むとどうやらそれは歌のようだった。

「春さればまづ咲くやどの梅の花独り見つつや春日暮らさむ…………?」
「万葉集第五巻、山上憶良の歌。さて、どう返してくるかな?」

何処となく悪戯のような笑みを浮かべてを送り出した。
それほど遠い位置にはない行成の邸へはそれほど時間をかけずに往復できるはずだ。

「じゃ、俺は昌浩の所に行くかな」

髪を滑らして立ちあがったは昌浩の部屋に向かう。

「あ、冬華。どうしたの?」
「先ほど知人に書の大家を紹介してくれまいか、と文を出しました」
「ありがとう。冬華って意外と人脈広いなぁ」
「まぁ、舞姫の折に知り合いは一気に増えましてその知り合いの人脈が尋常でない量で…………」

あまり邸から出たことのない昌浩と違い、の活動範囲は広い。
そのお陰で付き合いきれないほどの誘いが来ていて消耗していたりするのだが、それは置いといて。

「何をやっていたのですか」
「えっ」

が室に入って、昌浩がさりげなく閉じた書物をは見逃さなかった。
さっと手を伸ばして昌浩の手元からそれをすりとると表紙に書かれている文字を確認する。
幾分古めかしくなって薄れているそれは。

「呪詛返し…………」

見られちゃ仕方ない、と昌浩はバツが悪そうな表情で口を開いた。

「別に陰陽師になりたくないわけじゃないんだよね」

とある出来事をきっかけに昌浩は晴明にめっきり懐かなくなったが、幼少の頃の『じい様みたいな陰陽師になる』という夢は健在らしい。
見鬼の才さえあれば、安倍家の慣例に従って陰陽寮に務めることになんの異論もない。

陰陽師には必要不可欠と言える見鬼の才。
それが昌浩だけは見事に欠けている。

「学ぶことを疾しく思う必要はないと思いますよ。意外な拍子に見鬼が目覚めることもあるかもしれませんし。そうしたら兄上は陰陽師になるでしょう?」

こくり、と頷いた昌浩の頭を一つ撫でては目を細める。
昌浩の見鬼を封じたのは晴明だ。
晴明が昌浩を陰陽師にしないという選択肢はないと確信しているので、それに関してはは一切口出ししていない。

しかしあまり焦らすと昌浩が本気で諦めていざ見鬼が戻った時にブランクが出来やしないか、と少々心配になってきた。
ここはさりげなく陰陽の知識が抜けないよう少しずつ復習させていざとなったら一週間程度でさらい直せるようにしておいた方がいいかもしれない。
今まで習ったことはあまりにも膨大で短期間では復習できないだろう。

「兄上、この本はすでに読み終えましたか?」
「ううん、まだ途中」
「では一緒に読ませていただいても宜しいですか」
「え、一緒に?」
「ええ、そして時々少し説明でもしていただければ」
「じゃあ最初からもっかい読もうか?」
「かなうならば」

昌浩は気軽に請け負って書の初めを開く。
はその横に腰を据えてその手元を目で追った。

「掻き祓いに使うのは桃の枝か祓い串ですか」
「うん、桃には邪気祓いの効があるからね」
「伊邪那岐命が黄泉比良坂を下る時に桃の実を投じて助かったのでしたね」
「そうそう、大加牟豆美神って呼ばれてその後も人々を護るように、と命じられたんだ」
「追儺でも桃の枝の弓矢が使われますね」

が時折言葉を差し挟むことで、昌浩はただ読むだけではなく話しながら知識を復習することになっていく。

昌浩は昔は良くこうして二人で本を広げて学んでいたのを思い出す。
いつしか妹は自分よりずっと難しい本を読むようになり、読む速さも速くなり、その違いから一緒に学ぶことは久しくなく、お互い一人で書物を繰っていたけれども。

「たまにはこうして二人で本を読むというのも良いものですね」

今まさに心の中に思い起こした言葉が、自分の横からぽつりと紡がれる。
時たま昌浩とはぴったりと考えていることが合わさる時がある。

それは双子という近い血の故か。
それとも他の何かなのかも
知れないが、悪い気はしない昌浩。

「そうだね。二人だとただ読んでるだけじゃないから飽きないし」
「私と兄上では得意不得意も異なりますからお互いに教え合えますし」
「ははは、冬華が言うと信憑性ないかも」

苦手などない、といったように完璧に見える妹の謙虚な言葉に昌浩は軽く笑った。

「私にだって苦手はあります」
「例えば?」
「符を作ったり式を作ったり、気配を察知するのは得意です。しかし残留思念に関してはあまり。同調しづらいんです」

貴船の祭神にも心に隙がなさ過ぎて、簡単には憑依できないと言われたほどだ。
惨劇のあった場所などに行けば陰陽師は自ずと読み取るものであるが、は意識しないと読み取れない。
強い思念に呑まれないよう、心を覆っているのは自分の精神が強いからか、弱いからか。

「兄上はきっと上手だと思いますよ」
「子どもの方が同調しやすいって聞くけど、そういう意味で言ったんじゃないよね?」

胡乱な眼差しで尋ねた昌浩は妹のほうが遥かに大人びていることを自覚しているのだろう。

「いいじゃないですか。まだ私たちは立派な子どもです」
「立派なって………」
「それにおじい様だって相当なものですから子どもがどうの、というより性格の素直さが重要なのでは?」
「冬華、それ本気で言ってる?じい様が素直だって本気で言ってる?」
「いや、それは…………」

お互い黙り込んでしまったことが晴明が孫たちにどう思われているかを如実に語るところである。
フォローできなくなったはわざとらしい笑みを顔に貼り付けて、強引に締めくくった。

「きっと術を使う時は無我の境地にでもなってるんじゃないですか。たぶん、恐らく」
「そういうことにしておこう」

何気なく次の頁をめくってずらりと並んだ神歌や祈念詞を見ると昌浩はげっ、と顔を顰めた。

「陰陽師ってさ、これ全部覚えてるのかな」
「式典で呪詛祓いをする時は写した書を掲げて読むことはあるようですけど、実戦ならその場で諳んじるんでしょうね」

つい先日、強引にも呪物の禍気祓いに駆り出されたはそれを思い出しながら答えた。
思わず変な声を上げてしまうほどの量の詞を見ながら昌浩は大変そうな顔をした。

「術者の方角、呪いを行った月、日、術者の生まれた年、手に入っている情報によって祈念詞は違いますから、ざっと…………六十通り」
「ちなみに情報がなにも分かってなければ?」
「全部唱えるようです」
「じい様は」
「勿論覚えているでしょうね」

の言葉で昌浩の中の何かに火がついたらしい。
自分が目下陰陽師以外の道を探している最中だということも忘れて、真剣に取り組み始めた。
この扱いやすさは素直さからくるのであろうが、果たしてそれは良いことなのだろうか、と昌浩の将来が心配になったであった。


――――次。中央より来たる呪詛なれば?」
「天八降魂尊、その詛戸を返し給い、万の禍を祓い給え」
「正解。これで神歌と方角は全て学びましたね」

昌浩はそのまま後ろに向かって倒れると、ふいー、と声を上げながら肩の力を抜いた。

「呪詛が行われた月の祝詞は、神世七代の独り神と揃い神の名が当てはまっていて………」
「待って、冬華。ちょっと休憩させて」

一緒に学べばやはり理解も暗記も昌浩よりはやく行えるが自然と昌浩相手に教えるような形になる。

思い返せばどんな小さなことも、昌浩は冬華を見習っていたのだった。
昌浩がまだ幼い内に婚姻を結んだ兄たちが家を出た後も、その前も一番近くにいたのは冬華だった。
言葉も文字も冬華が時折口を挟んで、修正してくれていた。
自分が冬華を追い越して、逆にその手を引いてあげるような時は来るのだろうか、と少々兄として自信がなくなる。
まず一番の目標は身長を抜くこと。


「それにしても俺の知るやり方とは随分やり方が………」

床に伸びた昌浩の横で書物を手に熱心に頁を捲っていく
ぽつりと呟いた声を聞き咎めて体を起こした昌浩の存在に、は慌てて口調を戻す。

「私が知る呪詛祓いの法とは違うな、と思いまして」
「え?これじゃないの?」

この書物はそれほど難解ではなく、陰陽師として一般的な術が載っていると言ってよい。

ここに載っているものは、対象者の髪などを入れた人形を用意し、打ち返しの祝詞を唱え、対象者の身辺にある呪いの念を人形に移し替え、呪い返しの神歌と祈念詞を唱えて術者に返す。
最後にこの人形を神歌を唱えつつ灰にして処理するという、の知る現代でも行われていそうな段階を踏んだ、七日間から二十一日間ほどかかるまどろっこしいものだ。
人形というのは呪詛にもその対処にもよく使われるが、の知る呪法は弓矢を使ったもっと簡潔だった。

それ以外の呪詛祓い、というのに興味を持った昌浩がに説明を促す。

「蟇目の法と言って、橘家神道や日置流、嵯峨流、日神流……あと八幡流もですか、で行われている退魔法で」
「ちょっと待った!何それ、きっけしんとう?」
「……………聞き流してください。私も書物を読んだだけで経験はありませんから質問されても説明できません」

うっかり前世に残っていた術者家流派の名を上げてしまったは言葉を選びながら話を続ける。

「これは怨敵降服、憑物退散、病気快癒、呪詛返しなど色々と効を選べる便利なやり方で。榊や檀などの長弓と桃や梅の鏑矢を用意します」

まるで料理教室のような口調で語り出した妹の言葉を昌浩はふんふんと大人しく聞く。

「その鏑矢の鏃には穴を穿って特殊な鋭い音が出るように細工してあるんです。まぁその音の響きによって邪霊を祓うといってしまえば終わりなのですが、日にちをかけないで良い代わりに場を整える必要があるのです。屏風か幕で斎場の四方を囲み、祭壇に神撰を備え、北に黒幣、東に青幣、南に赤幣、西に白幣、中央に黄幣を置きます」
「四神相応の幣だね。中央は……あ、黄帝か、道教の流れも汲んでるんだね」
「まぁ、神道といっても唐の伝来が混ざるものですから。的を用意して、鳴弦の法を行い、弓を引いてごく短い神歌を唱えます。最後に祝詞を唱えて対象者の顔に向かって鏃で空中に『封』を書き、的に『魔』と書いて呪詛を移し替える。そして最後に気を込めて矢を放てば呪詛にとりつかれた人は無事回復、術者は逆襲を受けるという単純明快なもの、でしょう?」

蟇目の法で最も大事なのは念である。
我が身を日月の如く、大日如来の如く思い、気は天地四方に満ち溢れるが如く泰然として心動かさず気高く立つ。
対象者の禍を全て漏れなく的に移し替え、魔を術者に打ち返すという強い念が必要だ。
はっきり言えばそれがあれば人形など必要ない、ということである。

「……………祝詞とか少なくてこっちのやり方よりも楽かもしれないけど、弓、使えないと駄目だよね」

昌浩のポツリとした一言に、は確かにそれは根本的な問題だ、と思い起こす。
的に当たらなければ意味がない。
橘の呪法には弓矢や太刀を使うものが多かったようだが、あの弟は使えていたのだろうか。

「……………練習しておきますか?昌親兄上は使えますし、助言くらいは頂けるかと」
「……………どのみち俺はこういう格式ばったのって苦手かも」

考えるより行動派の昌浩にとっては場を整えて、というところから苦手意識が出てしまうらしい。
それにくすり、と笑みを漏らしたは、兄を励ますようにその背を叩く。

「こういう儀式的なものは比較的得意な部類に入りますから、兄上の苦手は私が、私の苦手は兄上が。そう、補っていけばよいでしょう?」

勉強だけではなく、お互いの長所短所をすり合わせて、うまくやっていければよいと思う。
かつて兄弟関係が最悪で気の合わない者同士だっただけに、何も苦しむことなく、自然に昌浩と良い関係を付き合いたいとは思う。
お互いが必要でなければならない、ということを自覚しあって。
そんなことを真剣に考え込んでいる自分がおかしくなって、唇を皮肉げに歪める

自分は相変わらずも進歩のない。

「これからもよろしくお願いしますよ、兄上」

その言葉に昌浩は相好を崩して笑う。

「どうしたの?冬華」
「改めて自分の苦手が実感できました。そしてそれは兄上の得意な面なのでそこは頼ることにします」
「残留思念のこと?」
「まぁ、それだけとは限らず」

昌浩はの言葉の意味をはかりかねて首を傾げる。

「私も色々と兄上から学ぶところが多い、ということです」
「それなら俺も冬華を見習わなくちゃならないことがたくさんあるよ」

そう言い終えた後、お互いに顔を見合わせて笑い合う。

「じゃあ、俺の目標は冬華で」
「私の目標は昌浩で。二人合わさればちょうどいいくらいでしょうか」
「でも冬華ってそんなに苦手あるかなぁ」
「ありますよ。それはもう」

真面目な顔をしてが言い返したので昌浩はそれを尋ねようと口を開きかけた。

と、その時。
妻戸を開かずに室内に気配。
それは人の形をとっての背後に跪き、その姿は昌浩の視覚にも捕らえることが出来た。

「お話中失礼いたします」

昌浩は見知った顔でないその者に少々驚いた様子だが、すぐにピンと来たのかへと問い尋ねる。

「えっと、冬華の式神だっけ?」
「あれ?知りませんでしたか?です」

そう言えば部屋にいる時は大抵見鬼がなければ見えないくらいに陰形しているので、昌浩の前に姿を現したのは久しくないかもしれない。
幼少期の頃には何度か顔を合わせているのだが、忘れているのだろう。

「返事を預かって参りました」
「ご苦労」

差し出された文箱と紙が結びつけられた桜の一枝に視線をやって、はまず文箱のほうを紐解く。
ざっと目を通したはそれを畳みながら昌浩に話しかける。

「兄上、知人が書の大家に紹介状を書いて下さるようです」
「え?ほんと!?」
「ええ。詳しい事は先方の都合を尋ねたのちにお知らせくださると」

まず手始めに書の道を学んでみようと考えていた昌浩にとって朗報である。
文を昌浩に手渡すと、昌浩はそれを見て幾分ショックを受けたかのように震えた。

「こ、この人、上手すぎる……!」

そりゃあ、後世に名を残すほどの人ですから、と突っ込みたくなる

「冬華も上手いよねぇ………。今度冬華の書で手習いさせて」
「女の筆跡でよろしいんですか?そもそも教えを受けるのなら、私のような素人に習うよりもその師に頼んだ方がよろしいかと思いますが」

平安時代の書というのは現代の文字を考えては解読できない。
もはじめから上手かったわけではなく、いろんな書物を書写し、自分にあった筆跡を選びぬいてそれを何度も絵柄を真似るように手習いした。
の筆跡というのは昌浩と同様の年月、つまりこの生になってから成り立ったものなのだから、外見に合わせて女人の筆跡を真似たのは当然のことである。

やっぱり出仕するにしても字は上手いほうがいいよね、とため息交じりに言う昌浩。

「そう言えば、そっちの桜の枝は何?」
「これは…………苦手克服のためのものです」

は文を昌浩の手から受け取ると文箱に戻し、桜の枝を抱いて立ち上がる。

「兄上、こうして兄上と共に書を読むのはとても学ぶことがあります。また日を改めてご一緒しましょう」
「うん、今日はありがと」
「それでは失礼します」

すっとの背後で戸を閉め、の後に続く。

「実は口頭でですが、藤原行成殿が妙なことを仰いまして」

の背に投げかけた言葉の『藤原行成』に『様』はつかない。
それがつくのは主たるとその血縁である者たちだけ。

「この歌は普通、私から送るものではないか、と笑いながら仰っておられました」
「そう言えばそうか」

一人納得した様子のに、は意味を聞いても宜しいでしょうか、と問い尋ねる。

「俺が書いたあの歌、あの歌の意味は『春になるとまず咲く我が家の梅の花を、一人で見て春の日を過ごしましょう』というものだ。この歌を受け取ったらどう思う?」
「…………暇ということですか?」

のあんまりな答えには呆れた表情になると首を横に振った。

「お前も和歌とか学んだ方がいいぞ。それはあんまりだ」
「…………私には恋文を送る機会などまかり間違ってもありませんから、必要ありません」

真実といえば真実だが、意外と風流を楽しむにとってはちょっと頂けない。

「この意味の歌を他人に送るということは、一人で過ごすのが嫌だと、相手を花見に誘うことになる。だから行成様は女である俺から受け取るのではなく、男である彼が誘うべきという意味で仰ったのだ」
「それに桜の枝を返してきたのはなぜです?」
「この時代は妻問い婚、男が女のもとにやってくるのが常だ。安倍邸にやってきたらいらぬ噂を立てられかねん。だから、俺が行成様の邸に向かうよう、桜の枝を送ってこられたのだろう」

それを聞いて今度はが呆れた表情になる。

「あのですね、もう少し女性らしい慎ましさを身につけられた方が……。行成殿でなければ誤解を生むかもしれません」
「だから行成殿ならいいんだろう。、俺の苦手を知っているか?」
「苦手……………ですか」
「そう、昌浩は比較的に得意で、俺が大の苦手なこと」
「分かりません」

昌浩は苦手だが、は得意、といった項目の方がは思い浮かぶ。

「人付き合い、だよ」

ああ、と納得したを張っ倒してやろうか、と思いかけただったが、残念ながらすでに自覚していることだ。

「おじい様が昔色々と画策していたが、やはり俺も交友関係を作るというのは大事だと考えてな。舞姫の任を引き受けた後には人脈が一気に増えたが、どうも俺は人付き合いが苦手なようだ。話が合わない。で、こうして比較的付き合いやすい友人で練習しようかと。昌浩は外に出ることが少ないから交友関係はほとんどないと思うが、いざとなったら誰とでも友人になれそうな、親しみやすい性格をしていると思うんだ。だからそれを見習って………」

至極真面目に言い放ったは思わず額を押さえて空を仰ぐ。

「女性の友人を作らなければ意味ないでしょうが…………!」

行成との話が合うのは知識量が同じくらい、興味も関心も似通っているからだ。
間違ってもの年齢の女性が好む話題ではないだろう。

この聡い主が本気でそう言っているのか、は計りかねるのだった。