兄弟




社会人生活をざっと十年以上も続けていれば、生活のリズムというものは案外体に染み着いている。
それは一度死んで生まれ変わっても例外じゃなかった。

「くそ、また起きちまった………」

は薄い掛布をはねのけて寝台の上に胡座をかいて座り込んだ。
時刻にしてまだ日が昇ったばかり。
生まれ変わった先がとんでもないお坊ちゃまだった今は、掃除洗濯料理、全てやる必要がなく、何より出勤もないのだから、早く起きる癖というは厄介なものだ。

きっとまだ家人が朝食を作り始めた頃だろう、と思って適当に身繕いをすると厨房に向かった。

「藍ら……!いえ、様」
「よく止めたな。言ってたら一発殴ってたぞ」

朝の厨房に集まりだした家人の中、目敏くの姿に気付いた料理長はかねてから呼んでいた通り、『藍嵐様』と呼びかけて慌てて訂正した。

家人の中にも韻を踏んでランラン、と呼び掛ける者が少なくない。
それが子供に対する愛称としての『嵐嵐』なのか、それとも楸瑛がからかいながら他人に紹介する『藍嵐』なのかは不明だが、取り敢えずにとって不満なことは間違いない。

つい先日、やっと新しい名を得られたのに、今の所、誰にも馴染んではいないらしい。

「今日の朝飯、もう作っちゃったか?」
「いえ、これから準備を始めるところですが」
「ちょうどいいや。兄貴達と俺、龍蓮の分も俺が作るから。端っこ貸してな」
「い、いけません!そんなこと!」

慌てふためく料理長を置いて、は腕捲りをしながら厨房に立った。

「何作ろっかな〜」
様!」
「こう見えて意外と料理出来んだぜ?ちなみに得意料理はホットケーキ」
「ほっと……?」
「いいから今日は俺に任せろって。あんたらは家人の分をよろしく」

料理長から承諾をもぎ取った、満八歳は、年齢の割に高い身長に助けられて台の前に立つと、材料を並べ始めた。

「朝からあんまカロリーの高いもんはだめか………とりあえず」

筍や椎茸、人参、青椒、豚肉などを慣れた手つきで細切りにして、誰もが知っている中華料理、青椒肉絲を作り始める。
更には茹でた鳥の胸肉を笹身のように細かく裂き、味噌と豆板醤で炒めた。
といた卵と春雨で卵スープもつくる。
その片手間に釜では白飯に緑豆を入れた緑豆粥を炊く。

確か中国の朝食ではお粥が多かった気がする。
味の薄いお粥に味の濃いおかずを合わせて食べるからちょうど良いのだとか。

誰に教わったわけでもない筈なのに、主婦並みの包丁さばきを見せ付けた主家の息子に、料理長はおずおずと問い掛けた。

「一体いつの間にお料理を?」
「昔。俺、一応調理師免許持ってるし」

あまり意味の分かってない料理長が見守る中、いつもの食事に見劣りしない品々を作り上げた。
盛り付けに関してはそれほどこだわりがないから高級料理店とはいかないが、味にはそこそこの自信はあるぞ、と言っていつもの食卓の間に運ばせる
いつも数人がかりで支度する料理を、どれ一つ冷ますことなく作り上げたに、さらに腕を磨こうと決心した料理長だった。

料理長が必死で止める中、適当に片付けを終えたは手の水気を振り払いながら食卓に向かった。
三つ子が貴陽から帰ってきて以来、兄弟が揃って食べるようになっている。

の姿を見ると、先に部屋にいた楸瑛が立ち上がって驚いたように話しかけた。

「聞いたが、今日の朝食はお前が作ったのか?」
「おうよ。早起きしちまったからな」

卓に並んだ料理との顔を交互に見比べて物凄く意外そうな顔をしている楸瑛に、は流石にカチンと来てぶっきらぼうに言う。

「俺がメシ作っちゃワリィかよ」
「いや、あまりにもマトモに出来てるから、つい」
「見た目マトモ中身トンデモじゃねえから安心して食え」

三つ子と龍蓮も後から来てそれぞれ席についた。

「それにしても、これだけ出来れば良いお嫁さんになれるね」
「……………オイコラ」
の性格上、旦那の為に作ると言うよりももっと保護者的何かを感じるけどね」
「待て待て待て」
「では良いお母さんといったところか」

三つ子が散々勝手なことを言うのにつれて、の額にはしっかり青筋が浮きだしている。

「俺はお兄さんだこのやろおぉッ!」
「「「それじゃあ龍蓮にしか該当しないじゃないか」」」

精神年齢は最年長ながら、この藍家ではあくまで五男。

「その前に先の二つは性別に該当しないってことに気付けっ!」

お前らみたいな旦那も子どもも、お先真っ暗で絶対いやだ!と全力で主張するだったが、三つ子のニッコリ笑顔を見て自分がおちょくられたことに気付く。

――――ッ!てめえら自分で皿洗いやがれ――――っ!」

庶民丸出しの発言をして朝食を掻っ込むと、バタバタと食卓を飛び出していく。
その後ろ姿を見送りながら、何度も兄におちょくられている弟を哀れに思う楸瑛だった。



「あんにゃろ……っ!相手にしちまった俺も俺だけど!」

兄に言い負かされて部屋から飛び出すというのは別段珍しいことではない。
いや、むしろ邸の誰もが気にとめなくなるくらい頻繁なことだ。

「大体俺はあいつらよりも長生きしてるはずなのに、なんで人生経験豊富な俺があんな二十歳そこそこの奴らに言い負かされなきゃならねぇんだ、この、この!」

近くの樹を八つ当たり気味に蹴り飛ばしながら、こんな姿は慧には見せらんねぇな、と思い立って少し心が落ち着く。

前世では兄という立場のため、大人ぶっていたのだ。
龍蓮のように天才児でもない――――むしろ慧の方がそれに近かった――――ガキが、一生懸命背伸びしていっちょ前に保護者ヅラしていたのだ。
それが、『一色嵐』だった。

慧は一色嵐にとって、庇護の対象であり、自分という存在の確立に必要なものであった。
慧の前でなければ、慧がいなければ、『一色嵐』は皆の知る『一色嵐』でいられなかったのである。

「哲学になんざ、興味はねェ」

甘えだろうが依存だろうが、それが事実だったことには変わりがない。
自分が兄として立っていなければならなかった事実は関係ない。
それが、弟に対する嫉妬に近い執着だったのか、それとも弟を通しての自己主張だったのか、自分にすらよく分からない。

「心理学にも興味はねェよ」

ただ、互いに必要だった。
その必要を、相手が先に、必要としなくなっただけ。


スッと細く息を吸って、頭をはっきりさせる。
自分は慧ほど頭が良くない。

いや、違う。


感情を削いで、考えられない。


感情は人を時に強くするし、脆くもする。
一度間違ってしまってから、臆病になってその比率が少し傾いただけだ。

目の前の樹に、本気で拳を叩きつけた。
サンドバックみたいに揺れることのないそれは、の手に痛みを残しただけで、葉の一枚も散らさない。

「子ども、だよな」

早くに自我を確立してしまったせいで、中途半端に子どもだった気がする。
今度の人生ではちゃんと、成長したい。
弱い自分と向き合えるようになるまで。

はヒリヒリする手を冷やそうと流し場に向かった。


「いけません!若様!」
「いいから、いいから」

カチャカチャと陶器がぶつかる音がして――――いや、朝食後の流し場では不思議ではないのだが――――ありえない声が聞こえてくる。
普段はこんなところに足を運ぶはずのない声。

「弟に洗えって言われてしまったからね」
「だからと言って、当主様方自ら……!」

そう言えば、親父はさっさと隠居して、三つ子の兄貴たちに当主を譲ったんだっけ、ってことを頭で確認してから、愕然とした。

「な、何してるんだよ、兄貴っ!」

そこには三つ子と楸瑛と龍蓮、藍家直系兄弟が揃い踏みで――――――袖捲って皿洗いしてた。

ああ、金で模様の入ってる皿はそんなに擦るんじゃねェ。
漆もだ、剥げるだろーが。

「皿洗いしろって言ったじゃないか」

皿を拭きながら平然と言った楸瑛に、くらくらと眩暈がする。

「どういう心境の変化だ?着る物すら他人任せのくせに?」
「いやあ、私たちのために早起きして作ってくれたことに報いようと思ってね」

ものすごく、胡散臭い。
雪月花、揃いも揃って、胡散臭い笑みを浮かべている。

「そんな不審者見るみたいな目で見られると、傷つくなぁ」

三つ子の一人の発言に、は小さく息を吐き出した。

どうせ、気付いていたんだろう。
自分が兄としてのポジションを誇示したいということ。
そしてそれは同時に、自分を不安定にさせる引き金だということ。

過去がどうあれ、藍はこの家の五男。
兄であり、弟であり。

なんとなく、この兄弟は慧と混同して考えないようにしよう、と思った。


甘え方なんて知らないが、正面からぶつかってみても、きっと彼らは見捨てない。

この人たちは、俺の『兄』だ。

そして龍蓮は、慧とは違う『弟』だ。

俺を庇護する『兄』がいて、俺が庇護する『弟』がいる。


もしかしたら、慧にもう一度出会った時、俺とあいつのカンケイは少し変わっているのかもしれない。
そしてそれは、きっと悪い方には転ばない。


「なってねェな、皿一つ満足に洗えねェのかよ」

は袖を捲りながら楸瑛と龍蓮の間に立って、皿を手に取った。