空谷の跫音





お正月特別編

年末年始、橘家は忙しい。
さらに、お詣りなどの為か、家政婦など一般人には全て暇を出している。
当然いつにも増しての存在は気にかけられなくなるわけで。

の食事が運ばれることなんて有り得ないのである。

の食生活は不定期で、普段家政婦が運んでくれる食事にも手をつけないことがある。
それは、に気に入られようとする浅はかな弟子たちによる、ささやかな細工のせいでもあるのだが。

しかし、いくら何でも大晦日から三が日を絶食するのはいささか辛い。

久しぶりに自炊でもするか、と重い腰を上げたは、台所に足を進めた。


玄関から見て、右は八畳間、左はトイレ、浴室、洗面台、洗濯機等の水場。
そして突き当たりにわずか二畳ほどの台所がある。
流しとコンロ、冷蔵庫という簡素なものだが、生活するには事足りる。

これだけの物をを隔離する為だけに揃えるとはご苦労なことだ。
本当に無能が感染ると思ってるわけでもあるまいし。
この離れは本来、身内の殯に備えての遺体安置所であったのに、今はすっかり居住空間だ。
は久しぶりに台所をチェックしてみて、食材になるものがほとんどないことに気がついた。
あったとしても、緑色のふわふわに侵食されている。

几帳面そうに見えて、意外に自分に関しては適当なの新たな一面だ。

「…………参ったな」

金なら定期的に支給されているが、もうとっくに陽は落ちていて、もうすぐ8時になる。

この時間帯に出歩くのはいろいろと得策ではない。
昼だから襲われないという訳ではないが、やはり確率は低い。

明日の朝出かけよう。

あっさりと夕ご飯抜きという選択をして、台所を後にした。



高校受験を2月に控えた身だ。
勉強し過ぎるということはない。

そう思って志望校の過去問をだらだらと解き始めた。

の目指す高校は特別偏差値が高いと言うわけでも、低いと言うわけでもない。
中の上と言った所だろうか。
一、二年生にサボっていても三年生で塾に通い詰めれば合格可能な市立だ。

一番近いことを理由に選択したその高校は晃樹の第一志望校で、それを知った時には諸事情から市立にせざるを得なかったは安心したものだ。

晃樹に会ったのは、中学二年の春。
ざっと二年近い付き合いの中で、は晃樹に対して心を開き、晃樹も変わらずそれに応えてくれた。
晃樹を通しての交友の輪は広がっているだけで、本質的な性格は殆ど変わっていないので、新しい学校では中一の生活に逆戻りするだけだろう。

は独りになるのが好きなわけではない。

ただ、『慣れている』だけだ。

むしろ、他人といることが怖かった。

奇特な晃樹の存在がどれだけ支えになっただろう。


ぴーん、ぽーん。
ぴーん、ぽーん。
ぴんぽ、ぴんぽ、ぴん、ぴんぴんぴん…………。

ひっきりなしに連打されるチャイムの音に、感慨に浸っていたの頬がひきつった。

この家の者は、のもとを直接訪れることなどせず、内線で済ます。

一般の来客、例えば、長子と聞きつけて機嫌を取ろうとする財界人(この家の後継ぎがであることを知ればすぐ帰る)や、宛名がの荷物を運ぶ配達員などはまず母屋を訪ねるので、内線で来客の連絡が来てから、この離れに来る。
直接裏口に近い離れを訪れる者は四人。
その中、父とはインターフォンなど押さないので除外。
そして残りの二人、槙原姉弟に自ずと限られて来るわけだ。
この落ち着きのない押し方は弟の晃樹でほぼ決定。

「晃樹!インターフォンは」

ガラッと、勢いよく戸を開けたは思わず言葉をとめた。

来客ということは当然、人が来ているわけで。
だがの前にあるのは。


「……………七輪?」

玄関に繋がる裏口の戸は開き、確かに来客があることを告げている。
だが何故七輪だけがでんとおいてあるのか。

「よっ、ととと」

石畳にまろびながら、大量の荷物を抱えた晃樹が姿を現した。
次々と玄関先に荷物を積み上げて、晃樹はもう一度塀の外に引っ込む。

「待て」

晃樹の襟首をぐっと掴んで引き戻すと、晃樹はカエルの潰れた声をあげて、の前に立った。

「何だ、この荷物は」

しばらくむせてた晃樹は、足元の七輪を抱き上げると、芝居のような大袈裟な身振りで語り出した。

!俺は受験という名の戦争に疲れた!一緒に何の束縛のないあの世に飛び立とう!」

七輪を抱えて泣き崩れる晃樹は端から見ていておかしい人だ。
笑えない。

「絶対ごめんだ」

これ以外になんと言い返せるだろう。
いや、昔の自分だったら速攻で戸を閉めるという選択肢があったか。

「やっぱり?」

上目遣いで見上げてくる晃樹を見て、抱えてる七輪に真っ赤に焼けた炭を突っ込んで車に閉じ込めてやろうかと思った。
だが慣れというのは恐ろしい。
自分でも不思議なくらいにスルーして、本題を問い質す。
「で、何だよこれは」
「あれ、今日泊まりにくるって言ったじゃん」

……………………………はあっ!?

「聞いてないぞっ!?」
「終業式の日に言った!」

何だか大変な誤解が生じている。
は少し心を落ち着けると、詳細な説明を要求した。


晃樹がにそれを告げたのは終業式の途中、校長の話の時。
名前の順も背の順もないテキトーな座り方で、その時は半熟睡状態だったらしい。

『な〜、うちの親さ、年末に同窓会で静岡に行くんだって。今年お節抜きかなあ』
『ん――――はいはい……』
『姉ちゃんもさ、大学のサークルで徹夜で忘年会&新年会やるみたいだし』
『ん――――はいはい……』
『俺独りになっちゃうからさぁ、31日の日、泊まりに行っていい?』
『ん――――はいはい……』

「って生返事してた!」
「生返事は返事じゃねえっ!っていうか、状況を考慮しろ、再確認が必要だろうが!」

完全にペースを乱されながらもお互いに怒鳴りあう。
これだけ叫んでも問題ない母屋との離れ具合に初めて感謝した。

「わかったよ、あがれ」

はクセのある髪にぐしゃぐしゃと指を通して、建設的でない議論に終止符を打った。

「さすが!話がわかる!」

は頬ずりしそうなほどご機嫌に飛びつく晃樹を引き剥がし、玄関を塞ぐように立っていた位置をどいた。

「荷物は自分で運べよ」
「えーっ、少し手伝えよぅ!」
「手伝って下さいだろうが!それにしても、どうやって持って来たんだ?」

と晃樹の家は2キロほど離れている。
さぞや重かったことだろう。

「姉ちゃんが車で送ってくれたんだ。でも荷物全部裏口に放り出して行っちゃった」
「奈津樹さんがわざわざ車を?」

あの人の性格上、リュックと手提げ、七輪(何故?)だけでそんな優しいことをするとは考えにくい。
嫌な予感がしては裏口を見に行った。

「おまっ………!」

思わず言葉を失ったの前にはカバーに包まれた布団、風呂敷包み、枕、小型のヒーター、鍋、コンロ、スーパーの袋に入った大量の食材。

「衣食住は迷惑かけないように全部持って来た!」

呆然と突っ立っているの横で、晃樹が自前の包丁の箱を誇らしげに開いていた。

「オイオイ………それじゃあさっきのリュックは何なんだ!?」
「あれは着替え」
「手提げは!?」
「教科書その他。ついでに勉強教えてもらおうかと思って」

槙原晃樹は奇特な存在だ。
自分に近づくと理由だけでなく、一般の常識的に。



歩道に置いておく訳にもいかず、二人がかりで何とか全てを運び込んだ時には、はもう何か文句を付けるのも面倒になっていた。

「なんで……っ、暖房まであるんだ……!」
「だっての部屋、こたつしかないって言ってたじゃん。俺寒がりだもん」

可愛らしく言っても、には今の晃樹は小悪魔にしか見えない。

は心身共に疲れ果てた様子でこたつに胸まで潜り込み、晃樹は運ぶだけ運んだ荷物を紐解いていた。

それを横目に見ていると、本当に色んなものが出てくる出てくる。

一通り開き終わって満足したか、さっそく夕飯の準備を始めると言い出した。

夜八時。
普段なら食べ終えている頃だ。
今更作る気も起きないのだが。

「ほら、作るぞ」

長ネギで頬をペタペタ叩かれて、ようやくは台所に立った。

「メニューは年越しうどん鍋!」
「フツー蕎麦だろ」
「安かったからうどんにしました」

慣れた手つきでネギを切っていく晃樹の横で、は白菜をべりべり剥す。
行動がひどく幼いように見えて、実は晃樹は非常に家庭的だ。

両親が共働きの為か、一通りの料理は危なげなく作れるし、後片付けなども主婦並みに手際がよい。
普段あまり器用ではない晃樹が、家庭科の授業で大根のかつらむきを見事にやり遂げるのには、を含めクラス一同驚いたものだ。

さらに2ヶ月前のハロウィンにカボチャのホールケーキを押しつけられたことは記憶に新しい。
またその前のバレンタインにはガトーショコラを手渡されて、学年中に危うくホモ疑惑が立つところだった。

晃樹と関わってから、望んでいた『平穏で変化のない生活』が駆け足で遠ざかっている気がする。


、大変だ!皿を忘れた!どうしよう!」

の心中など知ったこっちゃなく、突然晃樹が手に持っている椎茸を振り回しながら、この世の終わりのように叫んだ。

「少ないが二人分くらいあるだろ」

が鍋の中に具材を放り込みながら答え、冷蔵庫を顎でしゃくる。
それに従って晃樹が冷蔵庫の扉を開けると、食器類がきちんと並んでいた。

「………なんで?」
「食器棚がないんだ。別に食器だし、どこにおいてもいいだろ」

「冷たっ!デザート皿じゃあるまいし、なんでとんすいがこんなに冷たいわけ!」
「冷蔵庫に入ってたからだろ」
「箸まで冷たいよ!どっか別なところに置いとけばいいのに」
「普段あまり使わないんだから、邪魔だろうが。冷たかったらこたつにでも入れておけ」

皿を冷蔵庫に入れるだが、素直にこたつに入れる晃樹も晃樹だ。

鍋に一通りの具材を入れ、携帯コンロで火にかける頃には微妙に温い皿になっていた。

「ガスコンロはあったんだがな」
「台所のコンロじゃ鍋囲めないじゃん!」

晃樹はとんすい、はサラダ用の深皿を取り皿として、こたつに食卓を用意していく。
は並べながら、この離れで誰かと食事するのは初めてかもしれない、と思った。

、マッチかライターある?」
が食卓を用意してる間に姿を消していた晃樹は、腕に玄関に置きっぱなしになっていた七輪を抱えていた。
どこまで準備がいいのやら、今は中に炭と新聞が入っている。

あのやけに重いダンボールは炭だったのかと内心納得しながら、は台所のライターを放った。

「何に使うんだ?」
「火、点けようと思って」
「それはわかる」

さすがに今の状況でわざわざきくほど疎くはない。

「電子レンジもオーブンもないから、これでお雑煮作る!」
「雑煮は新年に食べるものだろう」
「それじゃダメなんだ!」

呆れて首を振りながら突っ込むと、晃樹は強い口調で言い返した。
思わず目を見開いたに晃樹は真顔で言い募った。

「だって、俺は明日には帰るから、、一人になるじゃないか」

一人でお雑煮食べても全然ありがたくないよ、と言って、晃樹は俯いた。
が干渉されるのが嫌いなことは知っている。
だから晃樹は一度も家庭事情を聞いたことはないし、『何か不思議なこと』が起きても何事もなかったように振る舞ってきた。



5月の修学旅行の時に、『人がいること』に戸惑っているに言葉をなくした。

を独りにしない。

晃樹が決めた、余計なお世話かも知れない、ルール。
が本心から『独りでいること』を望まない限り、絶対にを切り捨てない。


その思考を晃樹の表情から読み取ったか、は小さく呟いた。

「…………なぜ」



投げられた純粋な問いかけに笑みをもらす。

それには絶対に答えてやらない。

だって恥ずかしいじゃないか。
自分がにとって、『その他大勢』だった頃、一度だけ、助けられたことがあるからだなんて。

顔も覚えてないくらい小さい頃の出会いだった。
偶然にも、再会する事にもなるなんて。

「さぁね」

一人で笑っている晃樹の額が、指で小突かれた。

「いでっ」
「……………火、使うなら気をつけろよ」

いつもと変わらない口調で言ったけれども、の瞳はとろけそうなほど優しい。

これでこの話題は終わり。
少なくとも、今のは幸せそうだ。


二人で鍋を囲みながら、その横で炭を燃やす。
少し炭を燃やしてからの方がいいとの晃樹の主張に、今は窓を開けてただ網ものせずに燃やしている。
ヒーターと、こたつと、七輪で、窓を開けても寒くはない。

「………テレビないの?」
「ない。ラジオならあるぞ」

どちらも鍋奉行気質ではなく、ただゆっくりと時間が流れる。

「俺こんな静かな大晦日初めてかも。いつもは紅白見て、酒の入った家族のテンションに付き合って………」

は黙って取り皿を見下ろす。
今頃、母屋では酒宴が開かれているに違いない。
その場に顔を出したことは一度としてなかったし、ひもじい思いをしながら年を越したこともあった。

まさか誰かと食卓を囲むとは。

「来年はうち来いよ。そしたら鍋じゃなくてお節つくろう」
「………そうだな」

この時、『約束』をしなかったのはただの偶然、だったのかもしれない。



二人で受験の過去問を開いているうちにいつの間にか新年を迎えた。
台所ではお雑煮用に、海老の頭でだしをとったすまし汁が火にかけられている。
晃樹が持ってきた荷物を再度確認して、確かに明日ではお雑煮は無理だ、と思った。
一人がどうのこうのよりも、解凍してある海老の鮮度が保たなかっただろう。
お雑煮の為に、二人分以上あった鍋は明日にまで残されることになった。

明日の朝はもう一度うどんでも入れて食べようか。

そんなことを話しながら、専ら晃樹の勉強をがみるという形で勉強は進んでいた。
炭もしっかり燃えた七輪の上では網にのった餅がぷっくり膨らんでいる。

三分もしない内に二人分のお雑煮が出来上がる。


「ん?」
「あけましておめでとうございます」
「…………ああ、おめでとう」

年越しそばがうどんだったり、お雑煮を深夜に食べてたり、大晦日らしくて全然大晦日らしくなくて。

でも、晃樹が一生懸命、『普通』の大晦日を味あわせたいと思っているのが分かって。

は静かに微笑んだ。



が皿を洗っている間に晃樹が風呂に入った。
薄い壁越しにご機嫌の鼻歌が聞こえる。

七輪の炭の始末もして、ついでにこたつも端に寄せて晃樹が持ってきた布団と自分の布団を敷いた。
八畳とは言え、こたつをあげないと少々せまい。


「出ましたー!入んないの?」
「俺はいつも夕方6時位に入るから」

水を滴らせて出てきた晃樹にもう入った、と返す。
「もう寝ろ、明日起きれなくなるぞ」

持参のパジャマ姿の晃樹はろくに髪も拭かず布団に寝ころがった。
が戸締まりをして部屋に戻る頃にはしっかり寝息を立てている。

晃樹を布団の中に押し込めてかけ布団をかけてやり、もパジャマ姿になると布団に潜り込む。

かち、と紐を引っ張って、夜の闇が訪れた。


は圧死する夢を見て飛び起きた。
いや、飛び起きようとした。
自分の上にのっている晃樹がいなければ起きれた筈だ。

「起きろ!」

そう言えば、こいつの寝相はひどかった、と修学旅行を思い出しては思う。
起きる気配のまったくない晃樹を起こそうと躍起になっていると、メールの着信音がした。


「晃樹、携帯鳴ってるぞ」
「代わりに見てー……」

仕方なくが新着メールを見ると、着信は彼の姉から。

『ごめん、二日酔いで帰れそうにないわ。お父さんたちも帰り延ばすって。三が日、のところに泊まってね』

の意見を完全に無視したメールに、は八つ当たりで(いや、元凶かもしれない)晃樹を引き剥がすと二度寝を決め込んだ。


2009/4/12  移動・修正