さつきまつ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする ・・・・・・読み人知らず 序章 壱 五月。 橘が白い花を見せ、梅雨の晴れ間の澄み渡った空にその香りが広がる頃。 一際橘が香る庭。 スパンと滑らかな音を立てて、障子が開く。 縁側に出て来た少年は、朝独特の僅かに湿った空気を胸一杯に吸い込んで大きく伸びをした。 強い朝日は目が眩むようで、白く中天に輝いている。 そう、中天に。 「……寝坊だ」 少年がそう呟いたのを図ったかのように、室内で携帯が鳴る。 長く寝てあちこち固まっている体をほぐしながら、少年は通話ボタンを押して耳に当てた。 「〜っ!無事か!?」 「無事って何だよ…晃樹」 少年―――は思わず携帯を耳から10センチは離して、呆れたように答えた。 「だって!お前、いつもなら約束の時間の10分前には来てんのに!もしかしたら事故にでもあったんじゃないかって!」 電話の向こう側では、ズビズビだのグズグズだの、明らかに顔面汁まみれな気配だ。 今日は晃樹と映画に行く約束をしていたから、早く起きるつもりだったのに寝過ごしてしまった。 どうも夢見も悪かった気がする。 「……悪かった。いつもは自然に目が覚めるんだが、今起きたところだ。すぐ行くよ」 はまだグズグズやってる晃樹に言って電話を切り、手近な服を着て部屋を飛び出した。 「兄さん」 玄関で今まさに家を出ようとしたを呼びとめる声。 その声の正体を振り返らずとも察したは不機嫌に顔をしかめてその名を口にした。 「、後にしてく」「ダメ、今」 最後まで言わせずに可愛らしい笑顔で遮った。 「当主継承の話なら父さんに言えよ」 はリュックを背負って、に背を向けた。 「ずるいよ、兄さん。僕、橘家の当主になりたいんだよ」 橘家。 江戸中期に橘三喜が唱道した橘氏相伝の古神道一家。 天照大神を始めとする天津神を崇拝する術者の一族。 幼い頃、霊力を持たぬ能なしとして疎まれていたに対し、溢れんばかりの才能を持って生まれてきた弟。 は形ばかりの修行は受けながら、普通の少年として過ごしてきた。 しかしある日、母が死んだ日、は力を開花させた。 それと同時に母が自分を普通の子として育てたいがために力を封じたこと、母の術は規格外のの力には弱すぎて母を殺した事を、知った。 はふと足に絡まるものを感じた。 気づいたを見て、は笑みを深める。 「蛇羅、僕の新しい式神」 「いい加減にしろよ。……滅」 小さく口の中で呟いただけで、足に絡んでいる白蛇がバシッと音を立てて弾け飛ぶ。 足の上で息絶えたそれを振り落とし、弟を冷たい瞳で見下した。 「俺は当主なんて興味ない。―――家に愛着がわくような育て方はされなかったしな。なりたいなら勝手になれ、俺を巻き込むな」 今度こそ外に出て行ったの背を暗く見つめる。 その口元には歳不相応な笑みが浮かんでいた。 |
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