二つの名前。 どうして、どちらが大切だと優劣つけられるだろう。 『』も『冬華』も何一つ変わらない。 どんなに姿形が変わっても、ここにいるのは。 『俺』という自己を持つ『私』。 一章 壱 唐突に意識が浮上した。 トクン、トクンと規則正しい音が耳の中に響く。 これが熱い血潮の脈動だと気付くのは容易かった。 耳に残るのは今際の際、あるいは既に息絶えた後に聞こえた厳かな声。 与えられた、今一度の生。 僅かに身じろぎをすると、近くに自分以外の存在を感じる。 ここは、新たに親なる者の胎。 したがって、この存在は血を分けた片割れか。 長い孤独にささくれ立ち、晃樹と共にいてすら癒えなかった、心。 それが母親の胎内に響く心音にゆっくりと洗われていくのを感じながら、再び深遠に意識を沈めた。 再び意識が、今度はゆるゆると緩慢な覚醒を始める。 何度か瞬いて、白い外界に目を慣らし、動かない体に力を入れて、首を巡らした。 自分の隣にいる、赤子。 恐らくは自分も似たような姿をしているのだろう。 再び生を受けたという実感が湧いた。 それと同時に、もはや元の自分ではないという実感も。 橘。 この名を持つ存在は、己が弟に殺された。 もう、その存在は、この世にない。 13年間の孤独。 14年目の転機。 15年分の記憶。 神よ。 願わくば、今一度受けたこの生に。 いやまさる不幸を負わせ給うな。 そっと落とした瞼が、瞳にたまった涙をこぼした。 涙が止まらない。 悲しいのか、嬉しいのか。 それすらもわからないまま、ただはらは らと涙がこぼれるに任せる。 名をもらった。 安倍、冬華。 冬の華。 その名で呼ばれた瞬間、涙が抑えられなくなった。 それは呪だと、かつて神道の血筋であったは知っている。 その名を紡ぐ声が、心からの喜びに満ちていて、自分が望まれて生まれたことを知った。 傷を治療するとき、その傷口に触れる。 それは時には痛みすら伴う。 しかし、長い時を経れば、如何なる傷もいずれは塞がるのだ。 しかし、傷ついたのは心。 人の手の及ばぬ、深いところ。 傷つけるのはあっけないほどに容易く、癒やすには深すぎる。 それでも、万感の思いを込めて呼ばれたその名が、膿んだ心に染みわたる。 それは醜い傷にとても痛みを与えるけれど、ただ血を流す傷口を撫でてくれる。 傷が痛みを伴って、確かに癒え始めた。 この涙はその証。 橘が安倍冬華に変わる証。 |
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