冬薔薇の棘を身に纏え




くれなゐの ふりいでつつ泣く 涙には

袂のみこそ 色まさりけれ

・・・・・・紀貫之



一章  弐

は赤い掛布にくるまって静かに祖父の腕に抱かれている。
もう片方の腕には白い布にくるまっている双子の兄、安倍昌浩。
こちらは先ほどまであーだのうーだの言っていたが、今はすやすやと小さな寝息を立てている。

「冬華は本当に大人しいのぅ」

この祖父は、が時折泣いているのを知っている。
人知れず、赤い掛布が一部分だけ、その色味を濃くしているのだ。
夜泣きもせず、声すらも出さず一人で静かに泣く。
そんな時、祖父は優しく頭を撫でてくれる。
それがまたあまりにも優しくて、どうしても涙が溢れてしまうのだ。

名を呼ばれ、安倍冬華として愛おしく思われるたびに、橘が泣いてしまう。
だった頃、涙を流す心なんてものは、とうの昔に失ってしまった。
しかし、とうの昔に失った筈の涙はひっきりなしに流れた。
祖父が頭を一つ撫でてくれて、また涙が頬を伝った。


少しして。
すっと小さな息を吐いて泣き止んだは、ひりひりする目を幼い指で擦る。
それを止める手があって、袂で頬を拭われた。

「さて、と。……紅蓮」

祖父の声に応じて現れる神気。
今まで感じたどの神気と比べても桁違いに苛烈なもの。
恐らくは負の凶将に違いない。

祖父、安倍晴明は十二神将を従える。
かつて神道の血筋であったには式や術など見慣れたものであったし、のころ、封じられていた霊力や見鬼は冬華となった今でも健在だ。
それゆえ、は晴明のそばにいつもあるいくつかの神気に気づいていた。
しかし、見知らぬ初めての神気に、冬華は身じろぎして首を傾げ、布から抜けだそうとした。
晴明はが落ちないように、抱えなおし、しっかりと抱えられた腕からの脱出を諦めたは、動きを止めて、晴明と苛烈な神気の主の会話に意識を向けた。

「……吉昌の子が、生まれたのか」

低く呟かれた声。
見知らぬそれは、昔孤独に耐えていた自分によく似ていると思った。
そしてだからこそ、の心にするりと入り込む。

「ああ、これが最後の孫だのぅ」

両腕に双子の嬰児を抱えて晴明は紅蓮と呼んだ十二神将最強の凶将、騰蛇に歩み寄った。
騰蛇が身を引いて嬰児を受け取らないことに、晴明は諦めたようにため息をつき、と昌浩を茵にそっと寝かして袿をかけた。

「……少し、見ていておくれ。露樹の許に様子を見に行ってくるよ」
「おい!」

荒げた声が聞こえて、もぞもぞと袿から這い出そうとしていたは動きをとめる。
騰蛇の声にはがらにもない恐怖が宿っていた。
袿相手の格闘に疲れ、なるようになれ、とは再び目を閉じ、兄のように意識を沈めた。


隣の昌浩が目を覚まして、も浅い眠りから意識を呼び起こした。
昌浩が首を巡らせて一点を見ている。
その視線にそっても寝返りをうとうとしたが、思い通りにならない赤子の体で再び袿と格闘することになる。

一方、昌浩は何度か瞬いて騰蛇を見つめていた。
昌浩もまた、袿から抜け出そうと窮屈そうに身じろぎをする。
そろそろと伸ばされた指が二人に掛けられた袿を少しだけ下げてくれ、昌浩は自由になった両手を泳がせ、は寝返りをうつ。
視界に褐色の肌が目に入り、その鋭角な腕の線を追って金の瞳と目が合った。
と目が合うと、騰蛇は硬直して身動きが取れなくなった。
が小さく息を吐き出すと、面白いくらい大げさに騰蛇の肩が揺れる。
昌浩が騰蛇を見つめたまま、ふらふらと紅葉のような手を掲げた。
そんな兄を真似て、も手を伸ばした。

昔の自分が、何も信じられず、人に接するのに怯えていた時。
最初で最後の親友が自分にしてくれたように。

目の前にいる、怯えた神将を撫でてあげれたらいいのに。

紅葉の手のひらが視界に入って、は目を細めて笑った。
数拍の時をおいて、騰蛇が恐る恐る口を開く。

「…………」

呼ばれた新たな名に、今度は涙は流れなかった。

『冬華』という呪がにかけられる。
これで真実、は冬華となった。
ああ、神よ。
新たな生に感謝します。

生まれて来て、良かった。

今まで、まったく反対のことを考え、何をしても空虚に、諦めていた。
妬むばかりで、羨むばかりで。
挙げ句の果てには、殺されるほど憎まれ。

ここには安倍冬華の誕生を喜ぶものがいる。
この支えがある限り、自分はけっして空虚にはならない。

兄と共に手を伸ばして、は指一本掴むのが精一杯の、大きな手を掴んだ。
息を詰めて驚く騰蛇の様子は、初めて人に頭を撫でられた、橘にそっくりだった。

人は、生きている限り、変わり続ける。
時に様々な方向に逸れる道に従って、良くも悪くも、変わり続ける。

百年の孤独すら、人は癒やし変われるのだと、まどろみながらは笑った。