冬薔薇の棘を身に纏え




怖れているのは他でもない。

この幸せに慣れてしまうこと。
自分の罪を忘れてしまうこと。

そして忘れたころにもう一度。

あの頃の自分を思い出すこと。

だから、未来永劫苦しんだままでいい。
それでも、確かに守りたい存在が、ここにはある。



一章  参

赤子は寝るのが仕事というのは嘘だ、とはここ最近認識を改めた。

安倍冬華がこの世に生を受けて、4ヶ月。
不慣れな体にも慣れ、つかまり立ちは出来るようになった。

は這いずって部屋から出て行こうとする昌浩の着物を引っ張りながら、ため息をついた。
父、吉昌は陰陽寮に出仕し、母、露樹は唯一の女手のため、家のことで忙しい。
必然的に蔵人所陰陽師である祖父の晴明が二人の面倒を見ているのだが、晴明にもないようで仕事はある。
昌浩は人がいなくなった隙に簀子から庭に落ちようとするのだ。

昌浩との全力の攻防の末、勝利を納めたは、力尽きたように部屋に寝転がった。
昌浩は今度は部屋の調度品に興味を示してくれたようで、鏡の前でにぱにぱ笑っている。

(早く帰ってこい…!)

同じ日に生を受けただが、昌浩ほど元気が有り余っていない。
度々熱も出すし、赤子だから当然なのだが体力がない。
自分に関して言えば寝るのが仕事だと頷ける。
ぐったりとしているを尻目に、昌浩は今度は棚の上に登ろうとしていた。

(いい加減にしろー!)

最近、性格が変わってきた。
橘家では、無関心、無表情を貫いてきたが、否応なしに昌浩のペースに乗せられている。
晃樹じゃあるまいし、面倒見なんて良くないのだが、昌浩相手ではハラハラして放っておけない。
まるで弟の面倒を見ているかのようだ。
ちなみには、無能が移ると言われて弟のそばにすら近寄らせて貰えなかったためあまりよくわからない。

「まさひろ、だめだ」

着物の袖を引っ張っては昌浩の気を引く。
昌浩はくりくりとした大きな目でを見返してくる。
さすがに大人の前ではやらないが、舌足らずながら、言葉を発することができる。

「だ、め、だ」

ゆっくりと怒るでもなく告げると、昌浩は家具から手を離して座り込んだ。

今、は言霊を用いた。
前世の霊力や見鬼はますます研ぎ澄まされたようで、ただ名を呼ぶだけで強力な呪をかけられるようになった。
日頃、あまり使わないように心がけているが、こういう場合は致し方ない。

やっと大人しく隣に座り込んだ昌浩を見て、はもう一度深々とため息をついた。

(次からは神将に任せよう…)

例えば、お気に入りの紅蓮とか。


先日、昌浩とともに騰蛇から「紅蓮」という二つ名を呼ぶ資格を貰った。
非常に嬉しいことではあるが、深く暗い胸の内で鋭利な痛みが走った。

重い。
信頼されている。

今までの孤独と引き換えに放棄してきた様々なものが安倍冬華にはあった。
女として転生したことなど、大きな問題ではない。
本質的にはなにも変わっていない。

だから。
あまりにも違う親に戸惑う。
向けられる眼差しに戸惑う。

晃樹が己に示した感情が多くの人々から向けられる。
その資格は、ない。
暖かいこの場に溶け込んでしまいそうになる時、氷塊が滑り落ちるように胸の中が突如冷えていく。

親殺し。
間接的にも母親を殺した。

母親の遺骸。
変わり果てた、骸。

橘の自分を思うと、暗くて冷たいところに捕らわれる気がする。
逃げれない。
この身に背負った業。
あの家に崩壊の楔を打ち込んだのは誰?
百の犠牲に一を救って逃げ出したのは?
息すら出来なくなるような痛みが胸を刺す。

涙が零れた。
突如零れたそれに、昌浩の目が大きく見開かれる。

駄目だ、笑え。
人の前では泣かぬ、そう決めた。
幸せだと。
ここにいる限り、安倍冬華としていきると。

目の前にちらつく濃色の赤。
罪の色。
はっ、と短く息を吐き出して呼吸を鎮める。

身を丸めて俯いたの頭を紅葉の手がポンポン、と軽く叩いた。

見上げた先には、太陽のような笑顔。
かの凶将、煉獄の主騰蛇を無邪気に救った笑顔がそこにある。

再び頭を叩いて、昌浩が笑う。
とは違って、ただの子供であるはずの昌浩が、無意識の内に自分の痛みに気付いたか。

「まさひろ…」

その影のまったくない笑顔は晃樹のものとよく似ていて、かなわないな、とは諦めたように笑った。

この魂に根付く罪は消しようもない。
他ならぬ自分があの光景を覚えている。
ばたばたと降りかかったのは赤色の雨。
一面の白に冬薔薇のような赤を落とし、果てた姿。

忘れようもない。

だがその罪を背負ってなお、生きることが許されるのならば。

神よ。
かけまくも畏き、天津の神々よ。
涅槃を司る、冥府の神よ。
必ずや、この罪に対する裁きは受ける。
それまではどうか、この幼子のそばで。
この身を捧げて守ることを。
お許し下さい―――





おまけ

帰宅した晴明は孫たちが待つ室に足を速めていた。
所用で紅蓮も連れて行ってしまったため、二人の赤子はさぞ不満だろう。
絶えず神将が邸には控えているから危険はなかろうが…。
そんなことを考えながら晴明は戸を開けた。

几帳の影に座り込んだいる二人を見て、晴明はほう、と息を吐き出した。

「これはこれは。………紅蓮」
「どうした」

呼ばれて顕現した紅蓮もそれを見て思わず頬を弛ませた。

まるで繭玉に包まれるがごとく、二人の赤子が重ねた衣の中で手を繋いで眠っている。
衣は開いている唐櫃から引きずり出したに違いない。

そんなことはともかく。
手を繋いだ二人は本当に幸せそうで。
あまり甘えないし、笑わない冬華は安らいだ笑みを浮かべていて。
その頬に涙のあとはあるものの、一片の悲しみすら感じられず。

「昌浩は暖かいじゃろう?…冬華」

膝をついた晴明は、幼子の額に張り付いた前髪を払ってやりながら、柔らかく微笑んだ。

「後は頼んだぞ、紅蓮」
「は?」

いきなりの命に思わず聞き返した紅蓮に、晴明はほけほけと笑いながら言った。

「二人が起きるまでここで子守じゃ」

夕餉の時間に、晴明の命で赤子を連れにきた勾陣が見たのは幸せそうに眠る主の末孫たちと。
その横で赤子を長い腕で抱き込んで眠っている、これまた幸せそうな十二神将最強の凶将、騰蛇だった。