帰り来ぬ 昔を今と 思ひ寝の 夢の枕に にほふ橘 ・・・・・・式子内親王 二章 壱 ふっと意識の底をくすぐった香りには薄く目を開いた。 燭台の日は既に消え、目の前には月明かりによって薄闇が広がる。 あの香りは夢かと思いきや、部屋にはくゆる香りが漂っていた。 「橘………?」 伏せていた文台から体を起こして、几帳の向こうに声をかけた。 「」 ふわりと香りがまた強く漂って、几帳の陰からひとりの男が顔を出した。 随分と美麗な男である。 年の頃は二十をいくつか越えたあたりか、藍色の狩衣姿に烏帽子を被り、額にかかる髪は漆黒、闇の中きらりと光る瞳は山梔子の色。 丁寧な、心地よい響きを持つ声で、その男は聞いた。 「申し訳ありません。起こしてしまいましたか」 「いや」 は短く応え、肩に流れる絹糸のような黒髪を背に払った。 すっと歩み寄ったと呼ばれた男が、背にかかる髪を集めて櫛けずる。 身の丈を越すほどになった黒髪から分かるように、は今年で十三歳、近く裳着の儀を控える身である。 そんな年頃の娘の部屋に堂々といる男。 端から見ると問題であろうが、当のにとっては問題ではない。 自身の考え方ではなく、男の本性を知っているからだ。 男の本性は枳殻の樹精。 貴船から持ち帰った枝を身代とし、自身の毛髪を呪物として作りあげた式。 高於加美神の神気によって霊性も高まっていた樹精は、もはや式神と言えるほどの力を持っていた。 はつい先ほどまで香を焚きしめていた大袿をの肩に着せかける。 自らの好む香りに包まれて、はうっすらと笑みを浮かべた。 随分と懐かしい夢を見た。 まだ、この髪がまだ茶色だった頃。 「真那賀の橘………。、伽羅は破邪退魔の効があると言うが、橘にどんな効があるか知っているか」 「いいえ………」 が答えながら脇息を引き寄せてに勧める。 寝起きの身体には夜風が冷たく感じるのか、は袿の袷をかき寄せて、脇息にもたれかかった。 「橘は追憶………昔を偲ぶ香と言う。過去の夢を誘ってくれるとのことだ」 何かを思い出すように目を細める主を見ながら、はそっと香具に蓋をした。 常に無表情で感慨とは縁もなさそうな主だ。 自分を創った日からそれは変わらない。 珍しいこともあるものだ、とは小さく呟いた。 「ご幼少の頃の夢でもご覧になりましたか?」 「幼少……いや、もっと『昔』でもっと『先』のことさ」 意味を含ませた言葉に、は賢明にも沈黙を通した。 主を理解することなど所詮、式である自分には出来はしない。 主が真実全てを明かしているのは、親代がある貴船の祭神。 自分に出来るのは側に控えるのみ。 誰よりも強く、自らを曲げない主。 その底に渦巻く心は、の預かり知らぬところ。 実の口調で話すというだけではかなり心を許しているのだが、それも知らず自らの存在意義に悩む。 「、鏡をもて」 突然、がすっと柳眉を顰めた。はすぐさま部屋の隅の台にある鏡を茵に座るに差し出す。 はこつこつと白い指で鏡を叩きながら低い声で呪言を紡いだ。 鏡がの手を離れて中空に浮かび上がる。 ぼんやりと仄かな光を放つそれが一軒のあばら家を映し出した。 「今宵で四日目……ようよう遭遇したか」 の指先がぴくりと動くと、あばら家全体を映していた鏡は、大髑髏の異形に追われて走り回る一人の少年と白い猫のような体躯の生き物を映し出す。 「あぁ、敵ではないな」 の言葉通り、鏡に映る少年が繰り出す術が容易に追い来る大髑髏を四散させた。 鏡の中の少年が緊張を解くのとともに、も鏡を消そうと手を伸ばす。 そのの目の前で、倒壊寸前であったあばら家はガラガラと崩れていった。 「……………」 鏡が瓦礫の中でも無事な少年を映すのを最後に、ふつりと映像は途絶え、覗き見る自身を映した。 自分同様、遠見の術を使っていた祖父が術を解くのを感じる。 僅かに眠気が残る体を叱咤して、は立ち上がった。 「もう少しお眠りになられては?」 部屋の隅の帳台を示して言うに首を振り、御簾を巻き上げた。 東の空は薄紫に変わりはじめ、その光景に僅かながら安堵の息を吐く。 「お召し物はいかがなされますか」 唐櫃に手をかけて聞いた。 彼の主はいささか機嫌のいい声で、橘の襲、と応えた。 |
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