冬薔薇の棘を身に纏え




何事もなく、月日は流れた。

貴船の神の世話になることもなく。

俺は『冬華』として間もなく裳着を迎える。
昌浩も元服を。
家族も安泰、友人もでき、平穏は続いていた。

しかし何度占じても、先行きが見えないのは何故だろう。




二章  弐

五月の下旬。
祖父によって吉日が選ばれ、と昌浩は同日に裳着と元服を行うこととなった。

ちなみに同日に行うと決まった時、珍しくが声を荒げて祖父対孫娘の舌戦が繰り広げられた。
一週間にわたるの抗議は、結局受け入れられず、晴明が術で『疑問を抱かせない』ようにするということで落ち着いた。
二人が同時に裳着と元服を行っても、誰も二人が双子であるということには思いがいかない、という具合に。



「冬華様、お父上が」

姿なくそっとかけられた声に、は頷いて膝に置いた市女笠を取り上げる。
今日のの衣はいつもの女の童姿や汗衫姿ではなく、壺装束と呼ばれる外出用の姿だ。
帯に衣の裾を折り込んであるきやすいようにし、衣を被いて紗のある市女笠を被る。
長い髪は節分けして結い、前に垂らしていた。

先の来訪を告げる声の通り、御簾越しに吉昌が声をかけてきた。

「支度は出来たか?」
「はい、父上」

几帳の影から立ち上がって、御簾を上げて出る。
完全に支度の出来ているに満足そうに頷いた吉昌は昌浩を呼んで来てくれないか、と言った。
快く了承したは兄の部屋に向かった。

実は今日、吉昌と二人は左大臣である藤原道長邸を訪れることとなっていた。
曰わく、晴明の手塩にかけて育てた孫を見たいとのことだ。
道長の晴明に対する信頼を考慮すれば、将来きっと、多分、恐らくは一人前の陰陽師になるであろう昌浩に特別な計らいをする理由はわかるが、何で自分までと内心面倒くさいの一言に尽きる。



「がんばれよ、晴明の孫」
「孫言うなっ!」

はここ数ヶ月、よく聞くようになったやりとりを扉越しに聞き、はあ、と一つ溜め息を落として部屋の中に入った。

「兄上、父上がお待ちです。支度はお済みですか?」

に向けられた視線は二つ。
一つは兄、昌浩。
もう一つは、大きい猫くらいの白い異形。
本人はまことに遺憾ながら物の怪のもっくんと呼ばれている。

本性は凶将騰蛇。

霊力のない前世はどんな小さな雑鬼も不浄の念も恐ろしくて、すぐに体が竦んでしまった。
神将ましてや凶将など、言うべきもない。
しかし今は忌み恐れるべき存在に不思議と安らぎを感じる。

「あ、うん、今いく」
「お、お?」

突然のことに驚く物の怪を昌浩は兎のように抱き上げて、の腕に押し付けた。

「行こう」

昌浩が邸に物の怪を連れてきた時、はまさか騰蛇が、という思いよりも先にそれを抱き上げていた。

の孤独な生活の数少ない癒やしの中に、動物が入っていた。
妖を下している橘の敷地の中ではともかく、登下校ではいろいろな動物と触れ合っていた。

この時代に生まれ、久しく見ない愛らしい動物。
そんな時目の前に現れた物の怪をはいたく気に入っていた。
昌浩もが仄かな笑みを浮かべるのが嬉しいらしく、物の怪を抱かせる。

物の怪は小柄な昌浩よりもずっと薄いの肩にのるようなことはせず、大人しく腕の中で丸くなる。
物の怪を抱いたは昌浩の後ろに従って、吉昌の待つ戸口に向かった。

吉昌はいつものことながら、昌浩の物の怪に対する扱いに肝を冷やし、愛玩動物のようにに抱かれている騰蛇に毎度毎度驚く。


道長の待つ東三条殿に足を進める三人と一匹。
は父より今日のことを聞かされてから、抱いていた疑問を口に上らせた。

「父上、何ゆえ私も左大臣様のお屋敷に参らねばならぬのですか」

「それが……一の姫とお前が同じ年頃ということをお聞きになって、話相手として会っては貰えないか、と頼まれたのだ」

吉昌の言葉にの眉が寄った。
表情は被いている紗で覆い隠されているが、娘の気配で意を察したのだろう。
吉昌が困ったような表情を浮かべた。

「お前が年頃の娘の話相手となるような性格をしていないことは申し上げたのだが………左大臣様はすっかり乗り気で」

どうやら藤原行成様が何か仰ったようだ、と言った父には心底溜め息をついた。


殿上人の位には程遠い安倍家だが、職業柄、様々な人との付き合いがある。
特に藤原道長や藤原行成の相談は多く受けていた。

これは去年の暮れの話だ。
昌浩が陰陽師にはなりたくない、元服は待ってくれと言っている頃。

邸に藤原行成が訪ねて来て、祖父と何事か話していた。
式を通じて晴明の部屋に呼ばれたはそこで行成と対面を果たした。

『失礼致します、冬華にございます』

簀の子に膝をついて一礼し、入室の許可を得て入り、祖父と行成の視線を受けて、下座に腰を下ろした。

貴族の子女ならば扇で顔を隠したり、几帳の陰に座ったりなどするのだろうが、まだ裳着をすましていないのなら、礼式的には恥にあたらない。
女児が男を避けるのはただの恥じらいなのである。

膝に置いた手をついて、深く再度礼をし、落ち着いた声で要件を尋ねた。
晴明はそれに答えず、行成に向けてを指し示した。

『これはわしの末孫、冬華と申しまする。どうですかな、条件は満たしていると思いますが』

唐突に紹介されて、どうしたらいいかわからない表情をしたに晴明はさらりととんでもないことを言った。

『覚えも早い。五節の舞姫の大役も果たせましょうぞ』

数秒、頭が真っ白になったのを覚えている。

『舞……姫?』
『さよう』

頷く晴明に説明しろと視線をやると、行成がすまなそうに口を挟んだ。

行成の話では、新嘗祭の花、五節の舞姫の役を探しており、晴明に相談したとのことだ。

五節の舞姫。
新嘗祭の花として国家の繁栄豊穣を願って舞う、少女のこと。
天皇即位の年は大嘗祭として舞姫は五人、今年は新嘗祭なので四人だ。
公卿から二人、殿上人・国司から二人召し出すのが慣例であり、行成にも命が下った。

行成は人脈もあるため、ただの少女ならばここまでは悩まない。

お上の気紛れで四季の名を持つ娘を集めよ、との条件がつかなければ。

舞姫に条件をつけるのは珍しいことではない。
年を揃えたり、装飾を揃えたりなどはよくあることだ。
しかし名前となると、位が高ければ高いほど、本名は知られぬものである。
ましてや行成が受け持ったのは“冬”。
音ならともかく、字をそのままなどあまり好ましく思われないに決まっている。

『つまりは、私に冬の姫を務めよと仰りたいのですね』
『新嘗祭まであまり日もない、無理を承知でお願いしたい。どうか、舞姫を務めては貰えないだろうか』

話の最中から嫌な予感はしていたものの、 いざ言われると速攻で断りたい。
しかし、ここで断っては晴明の泣き落としが始まるだろう。
ぐだぐだと結論を伸ばして、結局は従うことになるのなら、早々に諦めてしまったほうがよい。

は諦めが早い上に、大変潔かった。

『分かりました、及ばずながらもお引き受け致しましょう』

それからほぼ毎日、は舞の師の邸に通いつめ、見事舞姫の大役を果たした。

それから早くも半年。
行成とは文通の友として兄や父を通してしばしば文のやりとりをしている。
流石は後世に残る能書家、筆跡もさることながら、和歌も漢詩も感服するものばかりで、自身の向上を助けた。
よからぬ噂が立たぬよう、公にではなく親しくなった二人の間には、男女の色事などなく、語り合うに良き友としての感情だけがあった。
女であることを気にせず知識を語り合える行成をは好いていた。

は貪欲に知識を探求し、女児という自由さから楽も習い、和歌も漢詩も並みの男では歯が立たぬほどのものを身につけた。
更には晴明に様々な術の教えを請い、昌浩と同じに瓶の水を移すがごとく教わった。
霊力の無かったころせめてこれだけでもと蓄えていた神道の知識に、密教や仏教などを融合した陰陽術を加え、今では独自の術すら編み出している。

昌浩に比べて、非常に多芸多彩な
実を言うと、致命的な欠点があったりもするのだが、それはまあ、別の話。