不穏な気配。 さだまらぬ星はこれ故か。 もしこれが、俺ではなく昌浩に与えられた試練なら、俺は密かに見守ろう。 しかし、最後の最後には、俺が動く。 これだけは譲れない、境界線。 明確に引かれた線のこちら側には、気づけばたくさんの人がいるものだ。 二章 参 東三条邸は、西洞院大路を南にまっすぐ進んでいったところにある。 貴族の邸が集まるその中で一際広大で豪奢な佇まいの大邸宅が道長の住むそれだ。 安倍の親子は人通りの多い中を足早に進んでいた。 彼らの足元を軽い足取りで進む物の怪が、不意に首を巡らした。 それと同時に物の怪の横を歩んでいたの足がほんの一瞬立ち止まった。 僅かに首を巡らして、すぐに何かを見つけたかのようには歩き出す。 依然として何かを探すように首を巡らす物の怪に気がついて、昌浩が振り返った。 「もっくん?どうした?」 不思議そうに見下ろす吉昌に向けて、物の怪が問いを発した。 「……感じないか?」 「何をです?」 思案顔の物の怪を見下ろしたはそっと衣の合わせから一枚の符を抜き出し、小さく呟いた。 「突き止めよ、舞蝶」 ぱたぱたと、紙でできた蝶々に変わったそれが、誰にも気づかれずに空に舞い上がる。 物の怪には感じるだけで捉えることは出来なかろうが、にはあたりに残る異質な妖気の残滓が筋のように感じ取れていた。 えてして、人の感覚のほうが敏感なこともある。 いつまでも動こうとしない物の怪にじれた昌浩が抱き上げてせかした。 昌浩の言うとおり、少し道のりに時間がかかってしまっている。 「さて、父上、急ぎましょう」 歩き出す昌浩の肩で物の怪が再び四方に気を配った。 昌浩も吉昌も気づかなかったが、物の怪はその異質な妖気に、頭の中で警鐘が鳴るのを感じていた。 もし物の怪がの見鬼が群を抜いて優れていることを知っていれば、何らかの形で正体を突き止めることができただろう。 しかし彼ら―――安倍家や式神たち―――の前では、自身、見鬼は昌浩よりも下のように振る舞っている。 それは陰陽術を修めていても決して陰陽師にはなれない女の自分を社会の目から守るためであり、またすべての行動に一切の制約を課されないためでもあった。 「高於………何やら一波乱起きる気配ぞ」 は薄い笑みと共に、風に乗せた言霊を北の山脈に流し、再び二人に従って歩き出した。 半時ばかり歩きつめて、ようやく東三条邸にたどり着いた。 徒歩の道のりでも一行は平気な顔をしている。 四十路を過ぎた吉昌も、普段遠出しない女であるでさえもまったくこたえた様子はない。 これには物の怪が素直に感心していた。 出迎えた雑色に来訪を告げ、使いの女房に案内されながら、昌浩は物珍しそうに邸宅の内部を眺めていた。 笠を脱いだは昌浩と違い、行成の邸で経験があるためか驚いた様子はない。 「おいおい、この邸で驚いてたら、内裏なんてすさまじくだだっ広くて度肝を抜かれるぞ」 「うん、そうなんだけど、やっぱりすごいや」 「冬華を見てみろよ、まったく動じてないぞ。そう言えば冬華は内裏に行ったことがあったっけか」 自分の名が話に上ったことに、は首を傾げて振り返る。 に視線が集まって………子供たちの他愛ない話なのに吉昌まで振り返って興味津々なのは何故だ。 「ええ、舞姫の折に……大内裏では雅楽寮、豊楽院と大歌所、内裏では清涼殿と常寧殿を拝見しました。もっとも、舞姫がてらでしたから、よくよくみる暇などありませんでしたが」 「広かったろ?」 「ええ、ですが朱雀門から建礼門までは出車での入りゆえ、実質あまり見ておりませぬ」 自分を置いて会話が弾んでいくのを見て、昌浩は妹があまりにしっかりし過ぎていることに一抹の寂しさと、自分の先行きが心配になった。 ちなみに聡すぎる娘に対しての寂しさは、吉昌も常に感じていたのだろう。 いつになく饒舌なに目元を和ませる。 話している内に寝殿にたどり着いた。 そこに座す道長は、自信に溢れた壮年の男性であった。 身なりも朝廷一の権力者らしく華美ではないものの上質の絹の衣。 吉昌達に気がついた道長は目元を和ませた。 「おお、待ちかねたぞ」 「お待たせしてしまいまして、申し訳ありません」 一礼する吉昌に倣って、その後ろに控えたも頭を下げる。 緊張して固まっている昌浩の袖をさりげなく引いて、注意を戻させる。 慌てて礼をする昌浩を横でからかった物の怪は、昌浩にこれまたさりげない足払いを受けて、板の間につんのめった。 喧々囂々と抗議する物の怪の姿は、ですら思わず頬を緩めるほど微笑ましい。 用意された円座に腰を下ろし、吉昌が道長にこの度、招かれた事を光栄に思う、と告げた。 吉昌が昌浩とを示して紹介すると、道長はの名にはたと膝を打って、喜色を浮かべて声をかけた。 「行成から話は聞いておる。よくぞ来た、冬華」 「お初にお目にかかります、道長様」 「娘は東対屋だ。誰か冬華を案内せよ」 道長の声に女房が顔を出して恭しく礼をする。 「それでは御前失礼致します。頃合いを見てこちらに戻って参りますゆえ」 は道長と吉昌に一礼すると、暢気に手を振る物の怪に視線だけで笑み返し、緊張に固まっている昌浩に唇の形で『頑張れ』と伝えた。 昌浩に読唇術が出来るか分からないが、まあ通じるだろう。 何故だか横で物の怪が『面白そうなこと』を思いついたように目を眇めた。 はそれを見て余計なことをしたかもしれない、とわずかに心配になった。 道長の不興を買わなければいいが。 まあ父がいるなら大事はあるまい。 女房に先導されて渡殿を進んでいた冬華は東対屋の欄干に一匹の蝶がとまっているのに気がついて足を止めた。 季節的には珍しい訳ではない。 冬華が足を止めたのは、白い翅を震わせているただの蝶に見えるそれが、紛れもなく自分が先ほど放った式であったからだ。 『狙いは左大臣の一の姫………!』 何故、ただの娘が狙われる? 険しい顔で黙り込んでしまったに、女房が気遣わしそうに声をかけた。 「申し訳ありません、こちらのお庭があまりにも素敵だったものですから」 主の屋敷の庭を誉められて、悪い思いをする者もおるまい。 思惑通り、女房は少々誇らしげに頷いて再び歩き出した。 女房が背を向けた隙に、の手にはちゃっかり蝶が握られている。 手の中で、紙で折られた小さな包みに変わったそれ。 は衣の合わせにそっと挟み込んで、何事もなかったかのように女房に続いた。 「姫様、安倍晴明様のお孫様がお見えになりました」 言う女房の後ろで、昌浩が聞いたら怒るだろうな、と内心笑みを漏らす。 御簾越しに映る影に向かって、は恭しく頭を垂れた。 「安倍吉昌が長女、冬華。お会いできて光栄でございます。一の姫様」 「かしこまらないで。私は彰子よ」 躊躇いもなく御簾の外に出てくる高貴な姫に、は内心驚いた。 澄んだ声の少女はまだ髪も上げてない年頃だ。 だがいくら何でもここまで堂々と出て来ていいのか。 が聞けば、貴女よりマシです、と言いそうだが、それはひとまず棚に上げておくことにする。 案の定、横の女房が眦を釣り上げて叱るように言った。 「姫様!気安く御簾の外に出てはなりませんとあれほど申しましたでしょう」 女房の言う通り、何度も注意されているのだろう、彰子は口を尖らせて不満そうに言い返した。 「ずっと部屋に篭もってるなんてつまらないわ。大丈夫よ、冬華は女の子ですもの。下がっていいわ」 は自分の考えが貴族の少女にも通じたことで、次にが言ってきたら言い返すネタが出来たとほくそ笑んだ。 このような性格は安倍晴明の狸っぷりに相当感化されているのだが、本人のためにも気づかない方がいいだろう。 「冬華、中に入ってお話ししましょう。―――あら?」 の腕を引いて御簾の向こうに戻ろうとした彰子は、の腕を取ったまま、首を傾げた。 「どうかなさいましたか?」 の問いに、彰子は何度か瞬いた後、首を横に振った。 「今、冬華の後ろに男の人が重なって見えたの。気のせいかしら」 「…………失礼ですが、彰子姫は見鬼の才をお持ちでいらっしゃいますか?」 慎重な問い掛けに彰子はこともなく頷いた。 それでか、とは納得した。 背後に見えた男と言うのはのことだろう。 普段と違い陰形したは、くらいしか視覚に捉えられる者はいない。 晴明すら難しいはずのそれをこの姫は意識しなくとも感じ取った。 いまいち確信を持てていないようであるが、感じ取っただけで相当の見鬼の証拠だろう。 昔の自分のように、妖に狙われる理由になる。 「私の式神でございます。男の姿は障りがありますから、陰形させております。害はありませんのでどうぞご安心を」 微笑んで答えるの背にもの言いたげな視線が向けられるが、は華麗に黙殺し、彰子に導かれて御簾の向こうに姿を消した。 は彰子を配慮してか、御簾の内には入らず、対屋の屋根に腰を下ろした。 「冬華は陰陽師なの?」 「いえ、祖父に昔教えを乞うておりましたが、陰陽師と名乗れるほどの者ではありません」 「………敬語、やめてちょうだい。普通にお話ししたいわ」 彰子が真面目な顔して言うのに、は首を横に振って答えた。 「この口調は素でございますので。ご容赦下さい」 がここにいたらどの口がそれを言う、と突っ込むかもしれない。 彰子は渋々頷いた。 |
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