冬薔薇の棘を身に纏え




新たな友。

稚く、愛らしい姫君。

昔の俺では想像もつかない。

こんなに丸くなるなんて。

でもその変化がこんなにも嬉しい。
救う側に立てる余裕が、何とも、誇らしい。

また一人、『こちら側』に人が増えた。




二章  肆

しばらく話していると、彰子は箱入りのお姫様だが、ずいぶん芯がしっかりしているということが分かった。

「見鬼の才はあるけれど、陰陽師みたいに自分を守ることは出来ないの。冬華、私に何か教えてくれないかしら」

なんとも実行力のあるお姫様だと思う。
徒人は未知の現象には怯えるのが常であると言うのに。

「私はまだまだ未熟ですので、人に教えることなど出来ません。半人前が何を言うと、祖父に叱られてしまいますわ」
「………そう、無理言ってごめんなさい」

そう言いながら、残念そうに肩を落とす姿を見て、は僅かに心が痛んだ。

はいざという時、何も出来ない歯がゆさを知っている。
無力なことがどんなに恐ろしいかを知っている。

と彰子では、取り巻く環境が違うけれども。
彰子には安倍晴明という、堅固な支えがあるけれども。

は一人寝る時の闇の恐怖を知っている。

「…………術を教えることは出来ませんが、呪具を差し上げることなら出来ます」

袖から取り出したのは、一枚の文。
それは伽羅を焚きしめた、どこから見ても文にしか見えない代物だけれども、彰子は素直に受け取った。

中を開こうとした彰子の手に、の手がそっと重なった。

「今はまだ開きませんように。姫の御身に災いがあった時、最後の砦となるためのものです」

肌身離さずお持ちくださいませ、と告げて、は手を離した。
彰子は神妙な顔つきで頷き、桃色の合わせに文をしまい込んだ。

(それにしても…………妖気の残滓がそこここに残っている。気分が悪くなる前に祓っておくか)

そっと衣の下で印を結んだ時、に向けて声だけを降らしてきた。

『昌浩様と騰蛇殿がこちらに』

言われて気配を探ってみると、確かに二人は庭を抜けてこの対の屋に近付いてきている。
声が聞こえるほどには近くはない。
が、恐らく物の怪が妖の残滓に気付いたのだろう。

「どうしたの、冬華」
「いえ、どうやら私はもう戻った方が良いようです」

それを聞いて、貝合わせに使う蒔絵の細工貝を取り出していた彰子は不満そうに頬を膨らませた。

「まだ来たばかりじゃない」
「今日は父の共として参りましたので、長居するわけにはまいりません」

まだ納得いかない様子である彰子を見て、は言葉を添えた。

「姫のお時間が許します時、お声をかけて下さればいつでも参ります」

後々気軽にそう言ったことを後悔することになるのだが、今のが知る由もない。


に彰子を気遣う言葉を添えたのは、左大臣の姫と親密になっておくのは損ではないと考えたのもあるが、単純に彰子の人柄に好感を抱いたからでもあろう。


以前のならどんなに好感を抱いても、いやむしろ遠ざけようとしていたのを思い出す。

安倍晴明と高於加美神という絶対の後ろ盾がの行動に選択肢を与えていた。

意識すればいくらでもある自分の変化を面白く思いながら、同時に少し、寂しかった。


「あら、話し声が………」

彰子が庭から聞こえる声に不思議そうに首を傾げて、立ち上がった。
が止める間もなく、彰子は御簾を上げて簀子に足を踏み出した。

それを見たが流石に苦笑いを浮かべて、を呼びつける。
目の前に顕現した僕に、は不敵な笑みを浮かべて言った。

「あれが『普通の』貴族の姫だ。どうだ、似たようなものじゃないか」
「………あの方はいとけなさゆえのことと思われます」

憮然とした声に、は低く笑みを漏らした。

いとけなさか。
それは自分の言い訳には使えないな。

この心は生数えればはや二十七。
長兄と同年代だ。

どう言っても幼子とは言えまい。


に手を振って下がらせると、彰子に続いて室を出た。



一方、最初はからかう物の怪を追って奥に入り込んでしまった昌浩。
東対屋の前で動きを止めた物の怪曰わく、異形の残滓が残っているらしい。

呪詛の類いでもなく、博識の物の怪ですら知らないものだと言う。


二人とも目の前の残滓に気をとられていて、後ろから声をかけられた時には、文字通り固まった。

「あなたたち、なにしてるの?」

桃色の衣を纏った、まだあどけない少女が不思議そうにこちらを見下ろしている。

「なにをしているの?その生き物は、なぁに?」

物の怪の存在を当たり前のように尋ねる事に、昌浩は驚いて声を上げた。

「えっ、きみ、これが見えるの?」
「これ言うな」

物の怪が間髪入れずつっ込んだ時、御簾が揺れて二人のよく知る人物、冬華が顔を出した。

「姫は見鬼でいらっしゃる。恐らく見鬼は安倍家の誰よりもお強いでしょう」

が告げた言葉に物の怪が労るように話しかけるが、彰子は楽しそうに安倍晴明の加護を告げた。

途端に不機嫌な表情になる昌浩に、は内心ため息をつく。
と物の怪の視線が一瞬絡み合い、呆れたように肩をすくめた仕草が返ってきた。
物の怪は長い尾をひとふりして、の前の高欄に飛び上がる。

「やっぱり昌浩としては面白くないわけよ」
「相変わらずですか」
「そうそう、さっきなんか道長の前で『孫言うな!』って怒鳴ってさぁ」
「え、道長様の言に?」

いくらなんでもそれは不味くないか。

「いや、俺。道長にはいきなり叫んだように見えただろうな」

あっけらかんと言った物の怪に、昌浩の苦労を思って苦笑する。
恐らくは吉昌が取り繕ったんだろう、自慢げな物の怪の様子では昌浩が褒め言葉を賜ったのだろうか。

素直で物事を曲げないのは昌浩のいいところだが、社会では少し大変かもしれない。

「昌浩には人生経験豊富なこの俺がついてるんだ、まかり間違っても失敗はない」

の思考を読んだように、物の怪が不遜に胸を反らして笑って言った。


「じい様の孫じゃなくたって、すばらしい陰陽師はいっぱいいるよ」

ひどく不機嫌そうな昌浩の声がはっきり聴こえて、物の怪と二人、昌浩に視線をやった。

昌浩の機嫌が急降下するのは大概晴明絡みだとは知っている。


納得の行かなそうな面持ちで、おおかた、『晴明の孫』を『昌浩の祖父』にしてやるとでも考えているのだろう。

昌浩の考えが手に取るように読めて、の表情の薄い面に笑みが滲んだ。

昌浩の言葉に彰子が声を立てて笑い出し、素直に自分の言を詫びたことに慌てる昌浩が面白い。

くつくつと笑みを漏らすの横に、突然が降り立った。

「どうした」
『女房がこちらに向かっております』

物の怪に気づかれないほど気配を消して、がそっと耳打ちする。

そろそろ頃合いか、と僅かに首肯し、ぽん、と手を叩いて昌浩たちの注意を自分に引きつけた。

「ここは寝殿から離れておりますし、随分と奥に入ったところです。一の姫の対屋に長居するのは望ましくないのでは?」
「そうだね。じゃあ、お邪魔しました」

詫びを告げ、もと来た道を走り出した昌浩の肩に、物の怪が体重を感じさせない動きで飛び乗る。
途中で昌浩に容赦なくはたき落とされていたが。

「それでは、わたくしもこれにて失礼させていただきます」

二人を見送ったは彰子に優雅に頭を下げて、自らも辞すことを告げた。

見送り不要、と彰子を室に押し戻し、対屋を後にしたは思い出したように立ち止まり、両手で印を結んだ。

「払邪」

ただ、一言呟くだけで、渦巻く風が巻き起こり、対屋を取り巻いていた妖気の残滓は霧が晴れるように薄くなっていく。

「これだけでよろしいので?」

がその場しのぎにすぎない術に疑問を述べた。

「この邸はお祖父様の保護下にある。私が手を出す必要はない」

は首筋にかかった髪を鬱陶しげに払って、足早に対屋を後にした。