冬薔薇の棘を身に纏え




迎えた成人の儀。
『此処』で随分の経月が流れたものだ。

『以前』は迎えることなく生を終えた。
初めて迎える女のそれは、自分を邸の中に縛りつけるもの。

煩わしいかもしれない。

確かに感じる行く先の不穏。
動かねばならぬときが必ずや来る。

しかし今は。
今だけはただこの平穏の中で。




二章  伍

五月末日、香り高い橘が花開く頃、の裳着は昌浩の元服と共に行われた。
吉日の占は例によって晴明が、儀には道長の采配もあり、昌浩の加冠役は行成、と願ってもない好条件。

顔見せも終わり、今は当事者を抜きにした宴が始まっている。


「…………疲れた」

御簾を下ろした母屋の控えの室でやる気のなさそうに書物を繰りながら、は小さく零した。
着袴、舞姫の折にも思ったが人前に出ると言うのはどうも疲れる。
格式ばった作法も、無駄に動き難い衣装も苦手である。
裳着の儀を最後に女は人前に姿を晒すことなど殆どなくなるのがまだしもの幸いだ。
女として束縛されるのはごめんだが、人前で気を使わなくていいのは楽なことだ。


が身に纏っているのは、現代では通称十二単と呼ばれていた、貴族女性の正式な礼装。
紅の表着に赤紫の裏地の鮮やかな薔薇の襲。
唐衣は通例通り朱色で五衣は梅の匂い襲、ずいぶんと豪華な代物だ。
しかし、その衣服に着られることもなく、宴の間にいたはた迷惑な野次馬貴族どもを一目で魅了してみせた。

いい加減うざったくなったので、昌浩を置いてさっさと出て来て、今に至る。

完全に服に着られたような形になっていた昌浩が半眼で、退室する自分を睨んでいたがそんなことは知ったこっちゃない。
何事も経験、と自分のことは棚に上げては思った。
大体、これからは出仕することになるのだから、人前で素を隠すいい練習になる。

そんなことを考えていると、ばたばたと騒々しい足音がして妻戸が勢いよく開かれた。

「冬華、逃げたな!」

不機嫌顔の昌浩がの横にもう一人分用意された茵に腰を下ろす。

「これからも何かと人前に出るのですから、慣れておかねばなりませんでしょう。随分評判になっているようでもありますし」

涼しい顔で言い返したにぐっと詰まった昌浩は、ぶすくれた顔で呟き返した。

「なんなんだ、その評判は。どいつもこいつも無責任なこと言いやがって」

本気でうんざりしている様子の昌浩に、まったく気苦労のないは微笑みを浮かべた。

人前に出ないという、『冬華』と『』の立場は似て非なるものだ。
このような場では、『冬華』は女なので、人前に出る“必要がない”。

橘家にも、政界の有力者が繋ぎをとろうと訪れることはよくあった。
しかし、母屋で酒宴が開かれていても、は顔を出すことは“許されなかった”し、またそれを望んでいなかった。

今の昌浩を見て分かるように、好奇心で向けられる不躾な視線に晒されることもなく、それで良かったと思っている。

考えるのは、幼少期より、大人に交ざることとなった弟のこと。
何も持たない孤独と何でも持っていてただ一つ手に入らない孤独。
どっちが辛いだろう。
勿論、いかな理由があろうと、が弟を哀れむことはないし、許すことも愛することもない。

彼の狂気はには到底理解し得ないものだったから。


そこで思考を断ち切って、昌浩の続く愚痴に耳を傾けた。

「衣装が変わると気性も変わるかと思ったけど、あんまり変わらないなぁ」
「変わってたまるかっ」

物の怪がそばから口を出して、昌浩はそれに憤然と吠えた。

「冬華の落ち着きっぷりを見たか?野次馬で来た奴らなんか、ぽかんとくちあけてたぞ」
「……………なんで冬華はそんなに落ち着いてるのさ」

半眼に見上げる昌浩の恨みがましい視線をするりとかわし、閉じた扇を口元に当てて艶やかな笑みを浮かべた。

「被る猫がありますから。兄上ほど視線もありませんでしたし」

常日頃から猫を被っているのだ、今更人前で被る猫など苦にもならない。
人を喰ったようなの笑みを見て、物の怪は、こいつも間違いなく晴明の孫だなあ、と一人納得していた。
視線、という言葉に昌浩は再び怒りがこみ上げてきたのか、笏を放り出して冠を鬱陶しげに外した。

「俺は珍獣かっ」
「ま、しかたないわな。殿上人っていうのは、基本的に刺激がたりないから、肴にされるのは宿命だと思って諦めろ」
「殿上人の覚えがよいというのは便利なものですよ」

物の怪との慰めともつかぬ言葉に、昌浩はやさぐれた笑みを浮かべて肩をすくめた。

「ふっ、上等だ。俺が大陰陽師になってから奴らが助けてくれって言ってきたって、絶対助けてやらないねっ」
「まあ、目標にそぐうように頑張れや」

物の怪が渡した狩衣にその場で着替えようとした昌浩を見て、はため息をつくと音もなく立ち上がった。

「冬華?」
「外でお待ちしています」
「?」

妻戸を開けて出て行く妹に、わけがわからない表情をする昌浩の横で、物の怪がお子様だねえ、と言った。


退室したはすぐに一人の殿上人と鉢合わせた。

「行成様」
「ああ、冬華殿」

舞姫の折を初対面にそれから何度か交流がある年上の友人。
出歩いているを見て苦笑いを浮かべると、気さくに話しかけてきた。

「てっきり御簾の中にいるものと思ったけれど」
「先ほどまでは。何分退屈なものですから。行成様は、酔い醒ましに?」
「少し風にあたろうと思ってね。今日は人も多いから不用意に出歩いていると、無粋な輩に会ってしまうかもしれないよ」
「安倍晴明の邸で、その孫に暴挙を働くような肝の座った方がいらっしゃるなら、お会いしたいものです」
「確かに」

ひとしきり笑った後、行成は気まずげな顔で一通の文を差し出した。

「これは?」
「無冠の大夫、藤原靖遠殿から預かった文でね………」
「またですか」

行成の表情のわけがわかり、案の定ロクなことではなかったことに、は内心鋭く舌打ちをした。
舞姫の折に見初めたとかで、しつこく文を送って来る男。
そのマメさとしつこさだけは感心ものだ。

兄や父を通して来る文に、は何度となく『取り付く島もない』返事を返した。



それでも一向にやむ気配がなく、とうとう文を預からないでくれと家族に頼んで、もう煩わされることはないと安堵したのに。

方法変えてきやがったか、あの野郎。

行成の手前、文を受け取りつつ、今後一切繋ぎはしないでくれるよう告げた。


「そう言えば行成様。左大臣様に一の姫の話し相手にと私を推薦なさったとか」
「大人顔負けの知識を持つ貴女には少々退屈だったかな」
「いえ、良き友に巡り会うことが出来ました。感謝致します」

本心からの礼を行成に告げ、は頭を下げた。

「わたしのようなものばかりと付き合っているとお父上もご心配なされるだろう」
「それはまずありませんのでご心配なく」

しれっと言ってのけたの相変わらずな様に、裳着を終えても変わらないね、と苦笑いをする行成。

「人の本質というものは良くも悪くも簡単には変わらぬものです。どんなに様貌が変わっても、どれほど時が流れても」

悟ったかのようなの言葉に片眉をあげて、怪訝な顔をした行成。




「従兄弟と…………同じことを言うね」
「従兄弟?」

語尾をあげて訪ね返した

「父と同腹の弟の子で、成房という。まだ十八だが母を幼いうちに亡くし、父と兄二人が出家したのを機に自らも出家を志している………幼い頃から悟ったような子ではあったが」

の記憶には藤原行成の父親・義孝、義孝の同母弟・義懐ぐらいまでは残っているが、流石に義孝のように歌の名人でもなく義懐のように政治に関与したわけでもないものを覚えてはいない。

「十七で妻を迎え、一女をもうけるものの、憂いがちな彼に妻も愛想をつかして…………」

深いため息を落とす行成は本当に従兄弟の身を案じているようだった。

「すまない、祝いの席にはそぐわない話だった」
「いえ、お気になさらず」

は人の問題に口を出せるほど出来た人物ではない。
悟っているが出家など考えたことのない自分には一生何の助言も出来ないだろう。

は決めている。

『悟り』という名の『諦め』だけは行わないと。
それは全てから逃げ、全てを放棄したものの言い訳だ。

にとって『悟り』とは冷静な自己から客観視した事実だ。




「昌浩殿にも挨拶がしたいのだが」
「呼んで参りましょう」

さっと踵を返したに行成は手を振って、足を動かした。

「なに、私が行くよ。貴女もあまり出歩かない方がよろしい」

どうも慣れないのだが、流石に裳着を終えたら邸内とは言え人前をうろちょろ出来ないようだ。
ふう、と溜め息をついたは一つ頷いて諦めたように言った。

「では控え室まで。兄もそこにおります」

行成を誘って控えの間に戻ると中から話声が聞こえる。

「おや、誰かいるのかな」

が止める間もなく行成が妻戸を開く。
中にはひん曲った烏帽子をかぶった昌浩が端座しており、もちろん行成には見えないだろうが物の怪がその肩に乗っている。
意外そうな顔で室内を見回す行成と、その後ろに相変わらず表情の薄い顔で佇む妹。
しかしその表情の下にわずかな焦りがあることを、見る人が見れば気がつくだろう。

「行成様、どうなさったんですか?…………と冬華」
「いや、酔いを醒まそうと宴の席を抜けたら、冬華殿にお会いしてね、話をしていて君にも挨拶をと思ったんだが、君と誰かの話し声が聞こえたのでね」

今度ゲッとあせった表情になったのは昌浩。
何か言おうと考える昌浩の肩で物の怪が器用に直立してひらひらと手を振った。

「俺、俺、昌浩としゃべってたの俺よ。え?見えない?それは残念だなぁ、色々と積もる話もしたいのに―――――ぐふッ!」

調子良く愛想を振りまきながらしゃべっていた物の怪を昌浩の手が払い落とすよりも早く、飛来した何かが昌浩の髪をかすめて物の怪に直撃した。
二人の視線が床に落ちたそれに向かい、しなやかな手がそれを何事もなかったかのように拾い上げた。

「失礼、手が滑りまして」

にっこりと微笑んで、いつもより豪奢なその扇を開いてはたはたと扇ぐ。
そんなを見て昌浩は、あれ冬華ってもっくんのこと気に入ってたんじゃなかったっけ、ああでもそれとこれとは話が別か、なんて遠い眼をして考えた。

「ひでえよぅ、冬華。この愛らしい俺様になんてことを」
「行成様、兄はきっと真言の詠唱の練習でもしていたのでしょう。行成様のような立派な方に加冠役に付いてもらったからには、一流の陰陽師にならねばと励んでおりましたから」
「ああ、なるほど。さすがに晴明殿の孫だね、今日のようにせわしない日も修行を欠かさないとは」

感心した様子の行成に、昌浩は頬が引き攣るのを抑えるので精いっぱいだ。
扇の裏でがあきれたようにため息をついた。
話題を変えようとしたのか、昌浩が立ち上がって行成に問いかけた。

「行成様、宴の席に戻らなくてもいいんですか?」
「主役に言われたくはないなぁ」
「俺まだ酒なんて飲めませんよ。それで父上にも許してもらったんですから」
「確かに。………普通は飲めないね」

ちらりと意味ありげな視線が向けられたことに気付いたは扇の陰で二度ほど咳払いして誤魔化す。
我ながら怪しい行動と思えど、突然矛先が向いてきたのだから仕方がない。
この春酔い潰してしまった男が目の前にいるのだからは何も言えない。
そんなに悪戯めいた笑みを閃かせると、昌浩の烏帽子に手を伸ばして、すいっと立て直した。

「すみません」
「いやいや。慣れないとどうもね」

行成の優しさに感激している昌浩の足元で物の怪が性懲りもなく、熱烈な自己アピールをしている。
おもむろに助走をつけて行成の肩にぴょんと飛び乗った。

「もっ……!」
「ぐっ……!」

昌浩と二人して叫びかけ、慌てて口をつぐむ。
行成の肩でちょろちょろと動かれては流石のも叩き落とすことができない。
当然見鬼のない行成は朗らかに会話を続けていく。
それにこたえる昌浩はうろうろはらはらと視線が宙にさまよい一見怪しい。

物の怪は調子よく宙返りなどをきめているが、これが昌浩の肩だったら拍手でも何でもしてやるのに、とも内心はらはらしながら見守る。
ぶつかって烏帽子を落としたりしないか、衣のしわに気付きはしないか。
成人男性が烏帽子を落とすというのは、現代で言えば街中でズボンが落ちて下着姿になることくらい恥ずかしく、みっともないことなのだ。

の懸念も杞憂に終わり、挙動不審な昌浩を気遣った行成が部屋を辞すのと同時に昌浩が物の怪の長い尾を掴んでその肩から引き下ろした。
が素早く妻戸をぴったりと閉じ、物の怪をじとっ、と見下ろした。

「もっくんっ!」
「紅蓮!」
「なかなかの動きだっただろう。特にあの一回転なんて、そんじょそこらの奴にはまねできないね」

反省の色なし。

うっそりと笑みを唇に刷いてが笑った。

「騰蛇?」
「紅蓮だ」

しっかり訂正を入れた物の怪にはの冷ややかな笑みすら堪えないようだ。
むしろ、横の昌浩が引いている。
物の怪は逆さまに吊りあげられたまま器用に前足で耳の裏をかくと、不機嫌そうな声で言った。

「ちったぁ気づくかなーと思ったんだよ。やっぱり気づかなかったけど」

無言の昌浩は物の怪を床に落とすと、全身の力が抜けたかのように座り込んでしまった。
相変わらず調子のいい物の怪の声だけが沈黙したその部屋に響いていた。