冬薔薇の棘を身に纏え




冬の華は逆境に耐え、他の季節よりも鮮やかな華を咲かす。

かつては呆気なく折れてしまっていた俺でも、今なら耐えられる。

自分と大切な人と、その利己的な天秤の秤で決められた線の外の人でも。
この掌に隙間がある限り、誰でも乗せてあげられる。
きっと、『彼』もそうだったのだろう。
俺を掌に乗せてくれたのだろう。

見果てぬ占と空に昇った危急を告げる鬼火の煙が。
冥府に下った多くの魂とそれを送った鎮めの詞が。
初めて抜いた神の刃とそれを交えた刃鳴りの音が。
全ての始まりを告げる。




二章  陸

昌浩が雑用として忙しく陰陽寮を駆け回っている頃。
裳着を迎えて本格的に箱入り娘になってしまったはやることもなく、書を紐解いたり占じて見たりして日中を過ごしていた。


「何かが…………邪魔をしている」

は石を散りばめた黒布を見ながら腕を組む。

「一昨日の夜には太陽とセレスはスクエアに近かった。しかし昨夜の内にオポジションに移るだと?有り得ない。何者かが俺の占を遮っている」

の西洋占星術は母親譲りで一流だ。
霊力のないも占術だけは優れていた。
そういう才能ならばあったのだ。
父が求める血はなかったけれども。

「冬華様、それは一体………?」
「ああ、お前が知ろうはずもない。西洋の占星術だ」

は機嫌の悪い主を刺激しないよう、賢明にも口を噤んだ。
黒布にバラまいた天体に見做した石を庭に戻し、は溜め息をつく。

「これでは何が起こっても後手に回るしかない」

パタンと床に寝そべって、仰向けに天井を見上げる。
ゆっくりと瞬きをして、目を閉じた。

目を閉じたからと言って完全な闇が訪れるものではない。
瞼の裏にちらつく目の錯覚が、くるくると動きを変える。
その光の点が次第に何かの形を取り始めて…………………。


「アンタレス」


の口がはっきりと一語を漏らした。

「大火の象徴、赤色の星。毒を持つ蠍」

いきなり語り出したが並べる単語に、何かを悟ったは膝を進めて問いかける。

「近く、火災が起こる兆しということですか」
「兆しじゃない」

は勢いよく起き上がった。
御簾を上げて簀の子におり、安倍邸から西の方角、すなわち大内裏の方を見据える。

「今だ」

見上げた空に細い煙が上がっている。

「いったい、何が………」
「分からない。今、視る」

すっと印を組んで遠視の術を行う。
鏡という媒体が無くてももちろん出来る。

の意識は覚えのある門を抜け、大内裏を抜け、内裏の火元に辿り着く。

『これは…………』

死者の凄惨な呻き声も、生者の助けを求める声も、まだその声は少なかれど、内裏に満ちている。

「冬華様!」

火元を追って、意識を火の中に落としかけたを引き戻したのはだった。

「………………飛びすぎです」
「すまない、助かった」

引き戻されなければ死者の霊渦巻く火の中に入ってしまうところだった。
ただの火ならば問題はないけれど、これは。

「鬼火だ」
「鬼火?」
「正体までは視えなかったが、雑鬼の放った鬼火だ」
「奴らが面白半分で火を放ったと?」
「違う。あれは危急を知らせるものだ」

言って、は身を翻して部屋に駆け戻る。

「どちらへ?」

唐櫃から服を取り出しながら、に答える。

「鬼火に焼かれた魂は浄化されない。あのままではあまりに不憫だ」
「では私も」
「お前は残れ。木生火、相性が悪い」
「しかし!…………わかりました。こちらをお召しください」

諦めた表情のがさっと取り出したのは一揃えの狩衣。

「時間がかかりましたが、仕上がりました」

藍の生地で作られたそれはどこから見ても熟練の作品にしか見えない。
確かが頼んでから三月ほどしか経っていない。
十分出来る時間とはいえ、が作っている姿を見たことがなかったから期待しないで待っていたのだが。

手早く身につけると採寸もぴったりで、大きくなってもいいよう、裾に折り返しが入っていた。

プロだ。

なんだか色々と負けた気がしてはちょっとへこんだ。
狩衣に色々と陰陽師の必需品を突っ込んで、は昌浩の沓を一つ失敬した。

「礼を言う。……………では、行ってくる」

庭に下りて池に近寄ると、近くの枝をその水に浸す。
本当は榊の枝がいいがこの際仕方ない。

さっ、さっと宙に水滴を振り撒くと、飛び散った水滴は池の水を従えて西の方角に橋をかけるようにして流れていった。

それを見送ってから懐に手を入れ、お馴染みとなった折り鶴を取り出す。
それをが乗っても大事ないほど大きく変化させるとひらり、と飛び乗る。

「行け!」

ごうっ、と容赦のない風が式鳥を吹き上げる。

「お気をつけて」

の声がもう姿の見えない彼方の主に向けられた。


いつもと違い制御も何も行っていないそれはスピード重視で、きりもみ状態や垂直落下を体験しながらの飛行となった。
もちろん、着地も適当。

式を乗り捨て、内裏の一つの屋根に飛び降りた。
長髪が僅かに遅れて背に落ち、風に乱れる。

膝で衝撃を吸収して僅か一秒ほど動きを止め、突如屋根づたいに駆け出す。
殿の一つ一つは渡り廊下で繋がっているため、飛び移るのも容易い。
それに煙の方角もよく見える。

と、は内裏から離れた場所から異質な妖気を感じ取った。
一瞬の迷いの中でその場所を特定する。

東三条邸。

意外にもは問題ないと判断し、再び駆け出す。
それは兄がそちらに向かっていることに気付いたためと、先だって渡しておいた『御守り』のため。


風を切る音が聞こえた。

次の殿に飛び移ろうとしたの足元に矢がつき立つ。
はっ、と下を見ると弓に矢をつがえた近衛達。

「何者だ!火事に乗じての野盗かっ!」

声と共に再び矢が放たれる。
飛びすさってかわし、無視して走り抜ける。
先に水を送ったから被害はこれ以上広がらないだろうが、やはりまだ消し止めるまでにはいかない。

この忙しい時に邪魔を、と思いつつ、次々と放たれる矢をかわしながら駆ける。
顔の覆いと髪を纏める紐くらい持ってくれば良かった、と思っても後の祭りだ。

仕方なく持っていた一枚きりの手布を二つに裂き、鼻から下を覆うように首の後ろで結ぶ。
残りで適当に髪を結い上げた。

ちなみにこれ全部、走りながらやっているのである。

「なんだあれは!矢をかわしていくぞ!?」
「鬼だ!」

そんなことしている暇があったら消火活動に勤しめ、こののろまども!と叫びたいのをこらえ、走りつづけると、問題の殿が見えた。
人が逃げまどう波の中には身を投じる。

ざっ、と砂を巻き上げながら無事に着地した。

の周りから人が悲鳴を上げて離れていく。
烏帽子も被らず髪を振り乱した男(実は女)が空から飛び降りてきたら誰でも怯えるだろう。

「止まれ!」

火の中に飛び込もうとしたの前に長刀が突き出される。
はそれをつかむと逆に近衛の鳩尾に突き込み、長刀をもぎ取る。
情けなくも尻餅をついた近衛は慌てて仲間のもとに駆けていく。
飛来した矢を長刀で叩き落とし、水で作っていた結界を解いた。
ばしゃばしゃと水が降って来て、の左手が示すまま、殿の中に道を開く。

長刀を持った近衛達がその所業に驚きながらも円陣をくんでを取り囲んだ。

まったく、一番面倒なのが人間だとは。
は火と相性がわるい木性ゆえ置いてきたが、こういうためにならつれてくれば良かった。
一人残らず滅多打ちにしてくれたに違いない。

今更悔いても仕方ない、とは突破口を探す。

やはり、直線にいくか。

長刀を構え、開いた道に向かって一直線に駆け出す。
当然邪魔をしてくる衛士ども。

一人目を蹴り飛ばし、二人目を柄で薙ぎ払い、三人目を棒高跳びの要領で飛び越えて火の中に飛び込んだ。

まだ、中に生存者がいる。

声を聞き取ってそれは確信していた。


開いた道は水の結界があっても火の熱さを肌に感じる。
生気を辿って走りながら結界を強めていく。

奥の方に声が集まっている。
がっ、と扉を開くと怯えた様子の女房が四人、部屋の隅に身を寄せ合っていた。

「歩けるものは歩け。命惜しくば衣は脱ぎ捨てよ。結界も長くは保たぬ」

の姿に驚いた様子の女房たちであったが、一人の年嵩の女房が単姿になると皆も続いて脱ぎ捨て、駆け出す。

は声を辿って生存者を探しにいく。
結界は言った通り、長く保つものではない。
急がなければならなかった。

の耳に悲鳴が届く。
近い。

女房たちが殿の外に出たことを確認すると、結界を解いて自分の周りだけを覆うようにする。
火の中、は猛然と突き進んだ。

こんなふうに見ず知らずの人間を救うのに命を賭けるほど、自分が優しい人間だとは思わなかった。

戸を蹴破って中に転がり込むと、明るい橙の光がの顔を照らした。
壁を舐めるようにして火が燃えている。
熱風に押されて思わず後ろに戻りかけただったが、今にも火が届かんとしているところに広がる女房装束を見て、慌てて駆け寄った。

肩を貸して抱きあげたその時、長く火に炙られていたためであろう、その一角が崩れ落ちた。
咄嗟に女房を引き寄せて飛び退るが、動きの遅れた女房に梁が直撃し、火が燃え移った。

絹を裂くような悲鳴を上げる女房の体にが結界の一部を裂いて水をかける。
全身びしょ濡れの女房を抱き起すと、呻き声をあげての手を振りほどいた。

「足が、折れております……どうぞ構わずに」

そう言って顔をあげた女房との視線があった。
異様な風体のに女房は驚いたようであるが、騒ぎはしなかった

「案ずるな。必ず助ける」

出来るだけ声を低くしてそう告げ、足が折れている側の肩を支えて立ち上がらせる。
冷たいものが焼けつく喉に触れてはたとは動きを止めた。
胸元から首飾りを抜き出すと、その珠は淡く光っていた。

『五行をすべからく制した剣よ』

かの神から下されたこれならば。
の手の中でそれは青龍刀に長刀の柄がついたような形になる。
あの時授かった形のまま、の手に握られた。

下された『証』をこのような形に戻したことはなかった。
調伏の折も必要としたことはなかった。

ぐっと強く握ると、今が求める水の波動がざわめく。

「高於よ………感謝する」

ぶんっと力任せにひと振りすれば、進路を塞いでいた火は真っ二つに断ち切られ、その道を開いた。
の霊力をひとりでに水性に変化させ、それは全体に広がる炎でさえも鎮静化させていく。

はその中を女房に肩を貸して歩き始めた。


外から見てみると、内裏の大半が燃えて、ほぼ全焼。
これではの霊力で鎮めたというより、燃えるものがなくなったと言ったほうがいい。
何百人といたであろう女房たちの中で、助けられたのはわずか五名。


火の中から出てきたたちを愕然と見守る者たちは気にせず、間違ってもまだ燃えている火が届かない場所に女房を横たえる。
随分気丈な女だ。
恐怖しても恐慌はせず、大人しくの指示に従って動いた。

さっと身を翻したの衣に、女の指がかかる。

「狭霧、と申します………」

女房の言葉に、は名乗り返すことはできず、静かに頷いた。
名残惜しげに指が離れて、は今度こそ身を翻す。

背後の気配に気づいていたから、眼前に突き出された刀に、特に驚くこともなかった。
しかし、その刀の主に瞠目する。

見覚えのある顔。
年上の友人とよく似たそれは、彼より十ばかり若い。
は会っている。
舞姫として出立する直前に。

「少将!」
「成房殿!」

上がった声に、なるほど、やはり彼が行成の言っていた「従兄弟」だったか、と納得する。
成房の表情には行成の言っていた憂いの表情はない。
瞳はむしろ、穏やかに澄んでいて武人のようには見えなかった。

はゆっくりとその刀に自分の長刀の刃を添える。
キィンと澄んだ音がして、刀身が震えた。

「お待ちを!」

場の緊張を裂いて声が聞こえ、後宮から避難が済んでいたのだろう、今上帝が制止を気に留めることなくこちらにやってきた。
皆が槍や弓を放り出して膝を突く中、と青年は身じろぎもしなかった。
何事か、そう問われても誰も答えられず、黙っている中、の眼前の青年が口を開いた。

「畏れながら主上、この者が内裏に侵入し、火の燃える殿から女房たちを救いだしました。しかし、その素性が分からぬため、こうして取り囲んでいる次第にございます」

視線はから逸らさない。
もまた、青年から目を離さなかった。

「まことか」

一番そば近くにいた衛士にそのように問いかけ、是、という答えを受けると頷いて成房に声をかけた。

「成房、よい。双方、刀を引くがよい」

言われて躊躇いもなく鞘におさめた成房を見て、も長刀をただの首飾りへと戻す。
どよめきが走ってもは気にすることなくそれを首にかけた。

「そなたは何者か。何故このようなことを」

はつい、と視線をやって、半年ぶりの帝の顔を見た。

「冬の華は、何処であろうとも、たとえ火中であろうとも花開くでしょう」

そっと囁くように答え、身を翻す。
はまだくすぶる火の残る、焼け落ちた後宮に向かって、膝をついて頭を垂れる。
そして火の爆ぜる音に負けぬ、しかし決して大声ではない静けさを持って言葉を発した。

「畏しや、打ち靡く天の限り尊きろかも、打ち続をく地の極み、萬の物を生み出て統べ治め給ふ大神、世の限り有りの尽尽落つる事無く、漏るる事無く命を分かち霊を通はし、稜威輝き給ふ神の御名を天照國照統大神と称へ奉りて、言祝ぎ真祝ぎに鎮魂の神業仕へ奉りて……………」

鎮魂の祝詞。
本来場を整えて、神官が唱えるべきそれが、異様な風体の正体もわからぬものから発せられる。
成房はくっと目を見開いて空を凝視した。
帝もはっと、火の燃える後宮を仰ぐ。

そしてゆっくりと、の背後に膝をついた。
によって語られるその祝詞を帝が複唱していく。
続いて成房も刀を腰から外して前に置き、膝をついて首を垂れる。
皆がそれに従って、燃えゆく炎の犠牲になった人々を送った。

「…………………今の現に此れの命人より始めて、現はれ出でしめ給ふぞと、神祝ぎ祝ぎ奉る事を嬉しみ尊び忝み奉りて、八平手百平手打ち上げ打ち亮らし、舞ひ立ち舞ひ出で舞ひ退き舞伏しつつも、拝みも奉らくと白す」

長い祝詞だった。
火が後宮を燃やしつくしてしまうほど。

が柏手を打ちならし、深々と拝する。
何秒か首を垂らしたままであったが顔をあげて、すっと立ち上がった。
手のひらを返して取り出した鶴に呪言を紡ぎ、行きと同じように式となす。

どよめきが収まらぬ中、さっと飛び乗ってふわりと浮かびあがる。
風がの長髪を巻き上げ、結んだ布がはらりと落ちる。

「礼を言う。………冬の華よ」

立ち上がった帝がその背にかけた言葉を受け取ったのか、ちらりと視線を返して、鶴は一気に舞い上がった。
空に広がる雲と見紛うようになるまで、人々はその姿を見上げていた。