天秤はいとも容易く傾く。 片方には『自分』を、もう一方には『他人』を。 傾いだ針のその結果、自分が消えてしまうなら、俺は笑って逝くだろう。 ちっぽけな成果と自己満足を胸に抱いて、俺は自分を嗤うだろう。 それには花弁の一ひらほどの後悔もない。 それには湖面のさざ波ほどの躊躇もない。 だけどお前がそんなにも辛そうな顔で願うから。 口先だけは、優しい言葉を与えよう。 けして守らぬ約束を、してあげよう。 二章 漆 心配を隠さずに安倍邸の庭で待っていたは、空に白い一点を見つけてほう、と息をつく。 鳥の如く舞い降りてきたそれから、藍色の人影が飛び降りるのを見て、は目元を和ませた。 「戻った」 「お帰りなさいませ。ご無事で何よりです」 人影―――は長く振り乱された髪を掻き上げると、の言葉にうんざりした表情を浮かべる。 「妖の類の姿はなかったが、思ったより邪魔だったのは人間だな」 事のあらましを室内で着替えながらに語ると、の眉間にどんどん皺が寄っていく。 それに気づいたが、あ、まずい、と思ったのも遅く、の着替えの手伝いを終えた彼はすっくと立ち上がる。 「その不届き者どもに今すぐ罰を下して参ります」 「待て待て待て待て」 そのまま本気で出て行きかけたの服を掴んで押しとどめると、すでには右手に茨の鞭を携えていた。 今のこいつなら本気で半殺しにしかねない、とため息をついた。 の元は貴船の神域に生えた唐橘の樹。 樹齢を数百年重ねた樹ならば、樹精がついていてもおかしくはない。 それほど年月を重ねた樹でないにもかかわらず、が神将と比べて遜色ない霊力をもつのは単に彼を育んだ土壌にあろう。 貴船山そのものが高於加美神の御神体ならば、その最も深いところに根を下ろしているのである。 は木性ゆえに土をも支配し、色々な戦い方があるのだが、霊力を使わずに戦うやり方が最も手ぬるい方法だ。 そうは言っても、組み手をすればですら数分と保たずに組伏せられる。 それだけでその半端ない強さが知れるだろう。 そんなが霊力を具現化した茨の鞭で滅多打ちにでもしたら、目の覆いたくなるような惨状になりかねない。 多分、人間では逃げることも敵わないだろう。 「まったく、馬鹿ですか、そいつらは。ついでに火の中に放りこんでくれば良かったんです」 あなたは助けようとしていたのに。 憤然と息巻きながらも、鞭を消し、腰を下ろすは何時になくピリピリしている。 「次何かあったら止められてもついていきますからね」 「(どうやってを置いていくかを)考えておこう」 「私を置いていく方法など考えないでください」 当たり障りなく「考えておく」とだけ答えただったが、内心を的確に言い当てられて口を噤むしかなくなる。 は今度は悲しげな表情での手を取ると、懇願するように言葉を続ける。 「お願いです。私はあなたの盾となるためにあなたに創られたのです。あなたがそう仰ったのではありませんか。自重してください。頼ってください。私が無傷であなたが怪我を負うようなことがあれば私の誇りはどうなります」 切実な声と瞳に、それを無碍にすることは良心が痛むが、それに本心から是、とは答えられない。 最後に選択を迫られた時、と自分では決して同じ選択を選ばないから。 自分は昌浩のような高尚な目標をもっていない。 しかし掌に乗せたいと思う人々はいる。 そして自身は両の掌でその者たちを庇い、終わった時にその手しか残っていなくても、悔やむことはないだろう。 けれどは―――――――――。 そこまで考えては思考をやめた。 まだ起きないことを考えても仕方がない。 の手からそっと自分の手を引き抜くと、分かったよ、と答えた。 それは綺麗な笑顔でつく、優しい嘘。 自己満足な仮初の約束。 もそれ以上は無駄と悟ったのか、あえて何も言わなかった。 祖父は気づいているだろうが、内裏で『鬼』と騒がれた不審者が自分であることをは文にしたため、被害者の送魂を行ったことを告げた。 ついでに被害の規模や祖父自身の見たても伺いたいとの旨も書いたが、恐らく自分同様曖昧なところまでしか掴めていないだろう。 一番有力な情報源となるのは、東三条邸に向かって妖を退けた昌浩だと思ったのだが。 「昌浩、東三条邸で感じた妖気はやはり異質なものだったのですか?」 「んー……」 「あの、聞いてます?」 どこか上の空な受け答えに物の怪に視線をやると、肩をすくめて返された。 昌浩の手には品の良い小さな匂い袋がのせられている。 それを見て大方の事情は悟ったははぁ、と大きくため息をつく。 「兄上、私は此度の内裏炎上、人の手のものではないと考えているのですが」 「んー………」 ぴき。 額に青筋が浮かんだがわざとらしく咳払いするがやはり昌浩の視線は匂い袋に。 「実は私、意中の殿方がおりまして、近々婚姻でもと」 「うえっ!?冬華、今なんて言ったっ!?」 小さな声でぼそっと言ったの言葉に、昌浩の頭がばね仕掛けのように振り返る。 「はい、内裏炎上に関しての私の考えを」 「いや、その後!殿方がどうたらって!」 「知りません。桃色の回想に浸っているから幻聴でも聴こえたのでは?」 辛辣な妹の言葉に昌浩はうっ、と詰まり、素直にごめんなさい、と頭を下げる。 それによろしい、と軽く頷いたは本来言いたかったことを昌浩に再度尋ねる。 「東三条邸の妖と内裏炎上、兄上はどう見ます」 「……………やっぱり繋がりはあると思う。内裏炎上があったから、陰陽寮の誰もが東三条邸の妖気に気付かなかったんだし」 それには同意して、昌浩の部屋の星図を持ってくる。 「私も占じてはみましたが、いま一つ確証あるものは得られていません。兄上もどうぞ占ってみてください」 もしかしたら、兄上ならば何か分かるかもしれませぬ、と告げて、天球儀と星図を昌浩の前にどん、と置く。 星見は得意だと言う自負があるが、どうも最近はうまくいかない。 潜在能力は祖父と同等ともいわれる昌浩ならば、自分とまた違った結果が得られるのかもしれないと勧めた。 途端に昌浩はイヤーな顔になる。 「…………星見?」 「はい」 「冬華がやった方がいいんじゃ」 「やって駄目だったから兄上に頼んでるんです」 「分かったよ、やる。……………でもその前にさ」 「何です」 ものすごーく気まずげな昌浩が上目遣いにに語りかける。 「星の見方……………教えてくれない?」 昌浩の後ろで物の怪は大きくすっ転び、も額に手をやって俯く。 その二人の反応にわずかに頬を染めた昌浩は、早口で言い訳するように言う。 「だって、星見とか作暦とか苦手で………………!」 「星見も作暦も苦手って、お前それは陰陽師としてまずいだろう」 物の怪の正当な突っ込みにうんうん、と頷いたはいや、待てよ、と考えた。 長男の成親は作暦が得意で若くも暦博士となっているし、次男の昌親は天文生だ。 こう考えてみると見事に吊り合いが取れているのかもしれない、なんて思ってみた。 でもまぁ、二人の兄はそれぞれの得意分野がそれと言うだけで、調伏も出来る部類に入るのだが。 要は昌浩自身の努力の問題。 「兄上?」 「ふ、冬華?」 「二日できっちり仕込んであげます。昼の間は直丁の仕事で忙しいでしょうから、夕餉の後に」 にっこりと、笑顔なのにどこか怖い気配が漂う妹に、昌浩は素直にハイ、と頷いた。 火事から数日。 星見に関して昌浩に徹底的に復習させたは、自身もだ定まらぬ占と格闘していた。 毎度毎度同じことを占じても埒が明かない、と色々視点を変えて占っても見たが、自身読み解くことのできないような結果が出る。 昌浩も同じようで、一日に何度も同じことを占ったりしているが、大して結果は変わらないだろう。 行動的な昌浩ならばそろそろ焦れて都にでも繰り出すかもしれない。 祖父に問い合わせての答えは『はるか西方、異郷の地から来訪した妖異が、禍となって人々にふりかかる』とのこと。 言いたいことは分かるとはいえ、何の解決にもならない答えだ。 前世の経験を足しても、晴明には遠く及ばないためが重ねてやって晴明より良い答えを得られるとは思わない。 「というわけで、方法を変えてみようかと」 占術は清められた部屋で行うのが一番よい。 そのため部屋をきちんと整えたが突然切り出した言葉には首を傾げる。 「彼らのように雑鬼に尋ねますか?」 の言葉に外に視線をやれば、こそこそと庭を出ていく人影。 「二人して同じことをしても意味がないだろう。妖気を直接辿る。運よくあの火事以降、妖気が濃くなったように感じるからな」 東三条邸に姿を現した妖異を昌浩は仕留めていない。 となればまだその妖気をたどることが出来る。 上手くいけば、その棲みかや他の妖異に関しても。 集中するからちょっと出ていろ、とを部屋の外に追い出す。 「飛びすぎないでくださいね」 「分かってる」 「帰りの印をしっかり残してください」 「はいはい」 の術は占術としてではなく精神を飛ばして『視る』もの。 何かの目標物が明確ならば占などよりも答えがはっきり分かるし、手っ取り早い。 が、飛びすぎて帰り路が分からなくなったりすると精神の抜けた抜け殻が一体出来上がる。 離魂の術と似て非なるものだが、十分危険な術であった。 設えた場に座禅を組んで腰を下ろし、三脚のような台に鏡を置く。 目標物を捉えるにはまずその位置を把握しなければ。 「………………東三条邸」 映りの悪かった鏡が煌々と輝きはじめ、はっきりと東三条邸、一の姫の対の屋が映る。 薄い霞のような妖気を手繰って、異質な妖気の集まる場所を探っていく。 都から少し離れて―――――。 (…………………荒れ野?) 視点を引いてその場所を特定しようとしたとき、の視界に何かが割り込んだ。 と言っても物理的な視界ではない。 の飛ばした精神体の動きを遮るように何かがいる。 獣の、しかしそれにしては大きすぎる瞳と目があった。 その瞳はを嘲笑うようにうっそりと眇められ、本能的に危険を感じたは意識を引き戻そうとした。 精神体が逃げを選択したその刹那。 その異形が猛々しく咆哮した。 の精神は大きく弾かれた。 ばしん、との手にある鏡が砕け散る。 その破片は逃げる術のない抜け殻の身体を深く傷つけ、朱を散らした。 弾き飛ばされた精神が身体に辿りつけたのは、その痛みが本体を傷つけられたものだということに気付けたからに他ならない。 精神体にまで響いた痛みが、帰り道の導となった。 ゆっくりと肉体の瞼を開くと鼻梁を赤いものが伝っている。 激しい目眩をこらえて上体を起こすと、初めて自分の身体が壁際まで飛ばされていることに気付いた。 「今の音は何です!?開けますよ!」 焦燥感が滲む口調でが怒鳴っているのがぼんやりとした思考のなか聞こえる。 扉が蹴破らん勢いで開かれて、顔色を失った精悍な面と目があった。 「冬華様!!?」 部屋の中にすっ飛んで来たはの上体を支えて、主の額から赤い血潮が流れる様に、激しく動揺した。 「い、一体何が…………!」 「落ち着け」 額を押さえて一言そう言ったは、ぐい、とその手で血を拭う。 ぬるりとした感触が手に触れて、仕方なく衣の袖を押し付けた。 見れば右腕からも血が滴っていて、冷静に身体を調べると、やはり一番酷いのが額。 頭だから出血が多く止血がしづらいのが難点だ。 後は頬と腕も傷ついているが騒ぐほどのことではない。 「、何か血止めの布」 おろおろとしていたが慌てて麻布を持って来て、はそれを額に押し付けた。 みるみるうちに染まるそれに、は言葉を失う。 「………………負けた」 「は」 額を押さえながらぽつりと呟いたに、がその顔を覗き込む。 「敵に気づかれて弾き飛ばされた」 戻って来れたのは運が良かったな、と笑みを零すを見てが眦を吊り上げた。 「笑い事ではありません!」 「そう言うな。あそこまで強いとは思っても見なかった」 遮られた途端、首筋に悪寒が走った。 現世で無能だった頃は何にでも反応していた危険を察知する『本能』だが、こちらでの生で身の危険を感じたのは初めてだ。 相手にここまで圧倒するものはかつていなかった。 の肩に手を置いて立ち上がると、血を流しすぎたのか少しよろめいた。 それをに支えられ、半蔀を上げて右京の方を睨んだ。 「どうやら、手こずりそうだな」 夜の闇にの低い声が溶けた。 |
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