お前は妬まないのか。 お前は僻まないのか。 俺はいつも妬んでばかり、僻んでばかり。 もし俺がお前より強いと分かっても。 もし俺の本当の姿を知っても。 お前は変わらない笑顔で、声で、態度で接してくれるだろうか。 ならば俺は、いずれ仮面の紐を解くだろう。 本当の俺を、受け入れてくれるのなら。 二章 捌 血が染みてしまった衣は早く洗わなければ落とせない。 放っておくとタンパク質が凝固して大変なことになる。 額に布を巻き付けて深夜の水場に忍び込もうとしたには堪忍袋の緒がキレたようで、いい加減にしないと気絶させますよ、と薄ら笑んで言われた。 その口調は本性を再確認させるほどグサグサ刺さりそうだった。 衣をに任せては鏡の破片を拾い集めた。 この時代、たいていが裸足で過ごしているから誤って踏んでは大変だ。 指を傷付けないようつまむようにして拾っていると、原型の三分の一ほどの大きさをとどめた欠片があった。 血液が随分付着しているので、の額をえぐったのはこの欠片かもしれない。 赤色の汚れを指の腹で拭き取り、顔の前に持って姿を映す。 (顔拭くの忘れてた…………) 映る自分の顔にも赤黒い筋が跡を引く。 まるで頭から血を被ったかと言うほど出血していたらしい。 ひどい顔だ。 恐らく痕は残らないだろうが治るまで目立つ。 暫くは外出を控えねばならないな、それに父母向けに何かいい言い訳を考えて置かねば。 なんてことを考えていると、突然意識の隅で捉えていた騰蛇の気配が膨れ上がった。 はっと顔をあげて、より詳しく探るとどうやら戦闘中のようだ。 それも、騰蛇が本性に戻らなければならないほどの。 くっと指先に力を入れて鏡の欠片を眼前に掲げる。 ぼんやりとした光が放たれ、の顔が映らなくなる。 「……………雄牛、か?」 鏡に映った昌浩の敵は、四本角に白い毛並みの巨躯の牛。 見たこともない妖だが、何よりも問題なのは、戒める騰蛇の炎をもってしてもその妖が事切れていないこと。 その妖気までは伝わって来ないが、昌浩の様子から、以前昌浩が退治た大蚯蚓よりも凶悪な妖気を放っているようだ。 が見ている中、その妖は赤熱した躯を震わせて膨れ上がり、そのあら簑のような毛皮を残して姿を消した。 「一体この都で何が起こっている?」 鏡が光を放たなくなり、はそれを他の欠片と共に布に包む。 後でに庭に埋めさせるとして、は手巾を出して部屋を後にした。 井戸から汲み上げた水に手巾を浸そうとして、それが破れているのに気付く。 これは確か、火事場に行った時顔を覆っていた布だ。 切れ端の方は髪を結んでいたが、戻ってくる時に内裏に落としてきた。 あれだけで身元が割れるようなことはあるまい、万が一バレても帝が承知の事だ、何とかなる気がする。 そして恐らく最も有効な弁明は「安倍晴明の命で」。 孫なんだから名前くらいは有効利用させてもらおう。 濡らした手巾で顔をゴシゴシ拭く。 さっぱりと綺麗になったら、血の染みがついた手巾は鏡同様に廃棄し、昌浩達の帰宅を待った。 背後からさっさと休めという強烈な意思が送られている気がする。 始末はもう着けたはずなのに、昌浩たちは一向に帰宅する気配がない。 待ちながら、硯を出し、墨を摺って、紙に筆を滑らしていく。 文字ではない何かを書き付けて、ひらりとの方に飛ばす。 「見たことはあるか?」 その紙に描かれているのは先程の牛の妖。 まるで模写したように似ているそれには否、と答えた。 「そうか。……………俺は見たことはないが知っている気がする」 しかし、どこで知ったのか思い出せない。 この時代で知ったのではないと思うのだが、前世でこんな動物的な妖に出会ったことはないし、書物で呼んだにしてももう十数年前、一年で五百冊近く読んでいたが詳しく覚えているわけもなかった。 紙をひらひら振って、諦めたように台に肘をつく。 「明日にでも高於に聞きに行くか」 御簾越しに空を見上げれば、後一刻もすれば明けの色に白んでくるだろうと思われる空だ。 やっとそれほどの時間になって、昌浩たちは帰宅した。 そのころには、の眉間のシワは跡が残りそうなほど深いものになっている。 は額に巻いた包帯を確かめ直して、昌浩たちの部屋に向かった。 の来訪にいち早く気づいた物の怪がが開くよりも先に妻戸を開いた。 「遅かったですね」 「え!なんで冬華起きてんの?駄目だよ、寝なきゃ」 「今まで寝ていて起きてきたんです」 真っ赤な嘘をつき、こうなっては朝食の準備もありますから寝坊しないように起きています、と昌浩の横に腰を下ろす。 「百鬼夜行に会いに行ったんだけど、変な、牛みたいな妖怪に会っちゃった」 「怪我は?」 「ん、大丈夫」 昌浩が脱ぎすてた泥に汚れた狩衣を拾いあげ、ところどころほつれているところを見つけて後でそれとなく母に頼んでおこう、と思う。 自分及び昌浩のためにも、が縫うという選択肢は除外した方がいい。 「ちょっとあの妖怪について占じてみる。それに今度は本物の百鬼夜行に会いたいし」 至極当然のことのように言うが、百鬼夜行とて人外のものだ。 陰陽師と仲良く話して情報提供何ぞしてくれないと思うのが普通なのだが。 「どうやって対処するんだ?」 物の怪のもっともな問いに、昌浩は堂々と自信満々に答えた。 「そりゃもちろん、符と数珠をちらつかせながら丁重にお伺いをたてる」 「妥当ですわね」 無表情でさらっと流したに、物の怪の至極もっともなツッコミが入る。 「…………それは脅迫っていうんじゃないのか」 「お伺い」 「どちらも同じです」 お前等もやっぱり晴明の孫だよなあ、と言った物の怪に、昌浩は嫌そうな顔で振り向いた。 「よせやいっ、あんなに底意地悪くないぞ」 「そう思ってるのは多分、おまえだけ」 「ぐっ………」 言い詰まった昌浩は、力任せに六壬式盤を置くと、どっかと座り込んだ。 結局四苦八苦して何も分からなかった昌浩は、出仕までの僅かな時間、に起こしてくれるように頼んで仮眠を始めた。 ただ板の間にごろんと横になって枕も置かずにすぐ寝息をたて始める。 それに物の怪が甲斐甲斐しく衣をかけてやり、軽く揺すっても起きないことを確認したあと、先ほどとは打って変わった真剣な声でに言った。 「血臭がするぞ」 「バレましたか」 は珍しく下ろしている前髪を分けて、額に巻かれた白い包帯を見せた。 鈍感な昌浩はの髪型の変化すら気付かなかったようだが。 …………昌浩よ、女の装いの変化にも気付けぬような鈍い男は嫌われるぞ。 とまあ、それはさておき。 「どうした」 ひゅん、と尻尾を振って、物の怪はの膝元まで歩み寄っていく。 その頭を撫でて、はゆっくりと口を開いた。 「妖気を辿って棲処を見つけようとしたら、思わぬ所から反撃を受けまして」 「おまっ!なんつー危険なことを!」 「だから邪魔されるとは思っていなかったんですってば」 「それがそもそもおかしい!」 前足で万歳するように立ち上がると、ギャーギャー言いながらその場でくるくる回る。 見ていて笑いを誘うような動きだが、一応怒りを表現しているらしい。 「いくらお前が若かりし頃の晴明と同じくらいの霊力を持っていてもだな!」 「…………………今、なんと言いました?」 低くなったの声に物の怪があ、と間抜けな声を上げた。 は常日頃、家族や神将の前では昌浩よりも才能は下であるという演技をしている。 それは自分が昌浩にとって以前の弟的存在にならないためであり、自身が兄を立てて目立つことなく生活するためでもあった。 「何故私がお祖父様と同等と思うのですか」 の調伏を式で見ていたであろう晴明と吉昌はともかくも、何故騰蛇が知っている。 騰蛇が知っているとなると、昌浩も知っている可能性が出てくる。 それは避けたいと思っていたのに。 「あー、多分昌浩と露樹以外全員知っていると思うぞ」 その言葉にはクッと目を見開く。 「兄上たちもということですか?」 「ああ。成親たちも知っている。だいたい、お前、昔から出来過ぎだったろう。何気なくやっているようだが、俺たち神将のような存在はともかく、樹精のような本来場から動けない存在に器を用意して留めるなんて、晴明でもやりたがらないような複雑かつ労力を使う術だ」 それを三歳でやられちゃあな、と言う物の怪に、そう言えばそうだ、と自分の迂闊さを呪った。 「それにお前、小さい頃、よく言霊を使ってただろう。霊力が高い子供は得てして無意識に言霊を使うんだ」 「………………使ってました?」 自分で言霊を使った記憶など、昌浩を諫める時、無意識に使った常夜の日くらい、あまり使わないように心がけていたのだが。 「ああ、使ってたぞ。後から気付くくらいのものだがな」 物の怪はがっくりと肩を落としたの膝に乗ると、長い尾でその頬を軽く撫でる。 「何、気に病む程のことじゃない。昌浩が成親が帰って来ないーって騒いでたとき、あやすように口から出任せで言ったもう帰ってくるよ、って言葉が本当になるとか、そんなもんだ」 そう言えばあの時は成親がどこぞの貴族に呼び出された日で、いい加減帰らせろと思っていたときに、上から烏がばたばた降ってきて何かの凶兆かと晴明に文を言付かってさっさと抜けてきたって話だ。 気楽そうな口振りで言う物の怪だが、当事者たちにとっては立派な怪談だ。 の言った通り、都合よく事が進むというのはよくあることだったらしい。 しかも本人に起きる事ならば自身も気付いただろうが、別の誰かの身に起きた事では気にも留めなかった。 「そうでしたか…………。知らぬのは知識のない母上と鈍い昌浩だけ、と」 おうよ、と答えて物の怪が腰に手を当てて立ち上がった。 「大体なあ、冬華の方が術が上手く使えるからって、昌浩が僻んだり妬んだりすると思うのか。俺はむしろ奮起すると思うぞ」 あいつはそんなにひねくれてない、と言った物の怪の耳をががっと掴んだ。 「お、おい」 「悪かったですね、ひねくれてて」 「はあ?」 は弟が羨ましくて、妬ましくて憎らしくて。 僻んで、卑屈になって、諦めるしかなくて。 自分と弟の関係がそんなものだったから、昌浩とはそんなことになりたくなくて。 しばらくむにむにと耳を引っ張った後、物の怪を解放する。 「ならばお分かりでしょう。その私の術が破られたのです」 低い声で返したに、物の怪は険しい表情になる。 さっきも言った通り、経験では今の晴明に及ばないかも知れないが、霊力の高さ、殊に術の丁寧さに関して言えば、若かりしころの晴明を凌ぐことを物の怪は知っている。 力技な傾向があった晴明に比べ、慎重に丁寧に術を組むので尚更だ。 「圧倒的で、逃げるひまも抗うひまもありませんでした」 の精神に割り込んだ向こうも、精神体だったはず。 あの巨大な瞳の大きさが示すように、ヤツの精神体はかなり強靭であった。 牛を描いた紙を取り出して、物の怪に見せる。 「これだ!こいつが襲ってきた!」 「一部始終、見ておりました。紅蓮の炎で死ななかったところも」 「ああ、結局倒せたかどうか定かではない」 「初めて見る、妖だったでしょう?」 の言葉に物の怪が頷く。 「私も知りません。恐らくおじい様の占通り、西方の異国の妖」 「西方と言うからには、唐か天竺か」 「今日、貴船に言ってお伺いを立ててみようと思っております」 紙を巻きながら無表情で言うに、物の怪がおずおずと手を上げて質問した。 「一応聞くが、本当にお伺いだよな?『教えてくれないとこの山丸裸にしちゃいますよ』なんて条件出さないよな?」 「流石に神相手にそこまではしません。せいぜい『仮にも都の北方守護ともあろう方が都の異変に気づかなくていいんですか。解決しろとまでとは言いませんから何か知ってることあったら洗いざらい吐いてください』ぐらいですよ」 十分不遜なことを言っている、と思った物の怪だが、あえて何も言わずに視線をそらすにとどめておいた。 「くれぐれも無茶はするなよ。俺が大事なのは昌浩だけじゃないからな」 物の怪はの薄い肩に飛び乗って、前足でその頭を撫でた。 昔から言動が変わらないからあまり気づかなかったが、この孫も大きくなったものだなぁと感慨深い。 「嬉しい事を言ってくれますね。……………なんです?」 の言葉の後半が不審げなそれに変わったのは、物の怪が何時までも頭を撫でているから。 「いや、形のいい頭だなあと」 それに対して物の怪は内心の感慨を押し隠して、昌浩に言ったのと同じ言葉を返した。 |
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