冬薔薇の棘を身に纏え




揺らぎ始めた我が身の存在。

鬼か。
人か。
それとも。

お前は俺の本性の如何を問わず、ついてきてくれるのだろうか。

変わらず盾と、槍となってくれるのなら。
相応の感謝を捧げよう。




二章  玖

睡眠不足でふらふらしている昌浩だが、新米直丁の身分ではそうそう休むことは出来ない。
流石のも哀れむような視線で揺り起こした。
ぼへっとした表情の昌浩が二度寝しないように物の怪に頼んで、は厨房に向かう。

「一睡もしていないんですよ。今からでも少し休みをとってください」

口うるさく言いながら早足で追いかけてくると半ば競歩のように簀の子を渡り、厨房に飛び込んだ。

「遅くなりました、母上」
「いいえ…………あら、額の包帯はどうしたのですか?それに頬も」

流石は母親、前髪で隠しているのに顔を合わせた一瞬で気づいた。
は考えても結局ロクに思い付かなかった理由を口にする。

「昨晩棚を片そうとした時に誤って鏡を落としてしまい、割れてしまったのです。さらに運の悪いことに、衣の裾を踏んで破片の中に顔から倒れ込んでしまって………」
「まあ………!目に入ったらどうするのです。それで、手当てはきちんとしたのですか?」

あなたは自分のことになるとどうも雑なところがあるから、と言った母に、大丈夫です。ご心配なく、と答え、水桶を持って外に出た。

、今日は貴船に行く前に市に行って鏡を買うぞ」
「分かりましたから、寝てください」
「まあ、聞け。人間は三日間くらい貫徹しても全然平気なんだ」

それ以上言うなら市に行くとき置いていくからな、とこれ以上の言い合いはなし、と話を打ち切る。
も渋々といった様子で口を噤んだ。

食卓で顔を合わせた祖父、父にも同様の言い訳をして、はっきり言って父には眉をひそめられた。
しきりに傷の深さを尋ねられ、挙げ句の果てには晴明に頼んで快癒の禁厭をしてもらうようにと告げられ、はそれを全力で拒否した。
いかに晴明が昌浩の様子をうかがっていたとしても、の状況に気づかない訳がない。
第一、物の怪より報告済みである。
何か言われそうでイヤだ。

「傷が残るような深さでもあるまいし、平気ですから」
「化膿止めはしたのか」
「…………あ。しますします、これからしますから!」

今気づいた、といった様子のに吉昌の眉がつり上がる。
慌てて弁解するは何とかしてこの場を辞す口実を探していた。

殿」

今は姿が見えないが、この娘のそばに必ず控えていることを吉昌は知っている。
思った通りに部屋の隅に現れた式神に顔を向けて、吉昌は一つ、頼み事をした。

「冬華は自分に関しては面倒くさがりやだから、ちゃんと手当てするように見張っておいてくれるだろうか?」
「はい」
「…………何だってに頼むんです」

むっとした表情のを黙殺して、吉昌はさらに言い足す。

「それにどうやらあまり眠れていないようだがら、どこかでかけるなら休みを取ってからにさせてくれ」

ちら、との顔に視線が向けられて、目の下の隈に留まる。
基本、薄化粧なでは隠しきれなかったようだ。

我が意を得たりとばかりの満足顔で頷く
小さく舌打ちしたは、は後で苛めよう、と考えながら呟いた。

「だからお前は俺のお父さんかっての」

前世の放任主義、いやむしろ存在否定よりはマシだがこんな過保護なのは要らない、とはため息をついた。



食事を終え、今日やらなければいけない雑務を終えて。

「化膿止めの膏薬を塗りますから額の布、剥がしてください」

がくるくると包帯を巻きとると、はあてていた布の端に指をかけ、勢いよくベりっと剥がした。
途端、たら、と血が額を伝う。

「ああッ!何やってるんですか!そんな乱暴にしたらまた傷が広がるでしょう!」
「俺はじわじわ剥がすよりも一瞬で剥がしたい性格なんだ」
「…………難儀な性格ですね」
「悪いか」

ため息をついての額をそっと布でぬぐう。
今度はただ血を止めるために包帯を巻いておくのではなく、きちんと化膿予防をして包帯を巻いた。

「悪いな」
「いえ」

片手で額に触れようとした手をは掴んで押しとどめる。

「さあさあさあ、お父上から言質はとりましたからね。寝てください」

ちゃんと寝台で、という相手に仕方なくは衣を脱ぎ捨てて単衣姿になる。

「分かった。四半刻ほど休む」
「駄目です。最低二刻」
「そんなに寝たら市に間に合わん。半刻」
「それだけで睡眠不足が解消されると思いますか。却下。一刻と半刻」
「それじゃあ大して変わらないだろうが。一刻だ」
「そっちこそもう少し譲歩なさい。一刻と四半刻」
「半刻」
「なに流れに乗せたフリして減らしてるんです。駄目です。一刻と四半刻」
「ちっ………………いいだろう」

なんで睡眠時間で値切り交渉なんぞしなきゃならんのだ、と呆れ果てたため息をついては仕方なく肯定した。
寝台の紗をさっと払って中に入った。

「一刻と四半刻だからな!」
「はいはい」

だからなんでそんな手のかかる子どもを持った親のような口調なんだお前は、と言いたいのをぐっとこらえてさっさと寝の体勢に入った。
でないと貴船に行くのが本当に遅くなる。

そう言えば寝台に入って寝るのは結構久しぶりかもしれない、と思いながら瞼を落とした。




「ここは………………」

緑深い森。
隙間から差し込む木漏れ日。
チチチと姿を見せずに鳴く野鳥の群れ。

「久しぶりだな」

いつからか眠りに入ってから訪れるようになったどこかの神域。
これは夢なのか、それとも精神が抜けてどこかに行っているのか。

ここ最近はあまり訪れるようなことがなかったかのように思う。

そしてここに来る時は何か思い出さなければいけないことがある時。
自分の立ち位置を再確認しなければならない時。

貴船の神域を知ってから、ますますこの空間の霊気の高さには言葉を失うばかりだ。
こんな神域の主は下手をすれば地祇として下っていない天津神かもしれない。
と言っても、ここでは小生意気な子栗鼠以外、の前に現れたことはないので、関心の外だ。

「お?」

気づくと自分の姿は“橘”だ。
友人に散々美術室にある彫刻みたい、と言われ続けた容姿を取り戻している。

「本質はこちら、ということか」

貴船の祭神の前でとる霊魂の姿は鬼を模した異形なのだが、どうやらそれでもないらしい。




お前はなぜ、鬼に堕ちた?

「人の道を外れ、神の領域を侵したから」

本当に堕ちた、のか?

「それ以外に何がある」

おりたのでは。下りたのでは。降りたのでは。堕りたのでは?

――――――なに?」



何処からか響く問いに無意識に答えていたは、はっとあたりを見回した。
ここで誰かの声が聞こえたことなど初めて。
声の主と思われる者の姿は捉えられない。

「何だってんだ…………」

どさっと腰を下ろしたの頭に、前世の記憶が早馬灯のように過ぎる。


「知っている。全て“俺”だ」

じゃあここにいるのは?

「それも“俺”」

何故ここにいる?

「知るか。死ぬ直前か直後に声が聞こえた。それが俺を転生させた。神の気まぐれ、それでいいだろう」

神ハ本当ニソンナ事ガ出来ルノカ?

「何が言いたい!」


ばさばさばさ……と鳥の飛び立つ音がして、鳥の鳴き声が一切聞こえなくなった。
それきり自問自答するような声も頭に響かない。

また聞こえる前にさっさとこの空間を抜け出そう、とは土の地面に横になって、ゆっくりと目を閉じた。



霞をはらうようにして思考が晴れていく。
寝台の天蓋が目に入って、は自分が覚醒したことを知った。
胸にかかった布を払い落として起き上がり、寝台を抜け出す。
はあたりにがいないことを確認すると、そっと御簾をあげて太陽の位置を確認した。

「頃合か」

単衣を脱ぎ替えて、杜若の襲を羽織って市に行く支度を始める。
帯に上掛けを挟み込むところまでしたときに、極力音を立てないようにして妻戸が開いた。

「もう起きてしまったんですね」
「お前、もしかしなくても起きなかったらほっとこうとしただろう」
「ええ、それが何か」

日増しにが生意気になっていく、と思いながらそれは自分のせいでもあるか、と思いなおした。

いつだったか友人が自信満々に胸を張りながら言っていた。

『お前はちょっと押しが強い奴にはすぐ流されるんだよな〜。逆らう労力が惜しいってヤツ?でも自分からは何にもしないから、俺ぐらい強引な奴がお前にはちょうどいいってことよ!』

……………………どうやら自分と相性が良くなる、もとい上手い関係を築くには相手側が強引な奴であることが絶対条件らしい。
に対するコツを身につけ始めたようだ。


「一刻と四半刻、しっかりと寝たからな」
「わかっております」
「何処に行っていた?」
「お母上から布を頂きまして新しい狩衣でもと」

の手には仮縫いだけ済ませた新しい狩衣がある。

「一着だけでは心もとないと思いましたから」

そのあまりの細やかさに、は感心して何も言えなかった。

「………………さて、行くか」

さっと袖を捌いて市女笠を取り上げると、を伴って五条の市へと足を向けた。




昼には朝の市のような慌ただしさはなく、むしろのように顔を隠して訪れるような女も増えてくる。
それと同時にそういう女を狙った質の悪い輩も。

手ごろな鏡を物色していたは、進路を遮るように進んできた三人組の男を顔をあげることもなく、かわした。
体の動きに流れた黒髪が、ぱさ、と男の腕に触れる

「いってええええ!」
「おい、しっかりしろ!」
「嬢ちゃん、あんたのせいでこいつが怪我したんだぞ。こいつの怪我、どうしてくれんだ」

一瞬呆気にとられたは思わず脱力して口を開いた。

「昔も今も、典型的なあたり屋か。進歩のない」

その声は幸いにして聞こえなかったようで、男たちは大袈裟に騒ぎ立て、道行く人は関わり合いになりたくない、とでも言うように足早に過ぎ去っていく。
は仕方なさげに溜め息をつくと、すっと一歩下がって頭を下げた。
笠の紗の下、冷たい色の目に男たちが気付くことはない。

「それは申し訳ありませんでした。、『看病』してやりなさい」
「おいおい、看病で済まされるとおも」

男が突然言葉を止めたのは、貴族然とした装いの青年がずい、と遮るように身を乗り出して来たからだ。
先ほどまでこのカモの側には誰もいなかった、と男たちが困惑する。
青年は逆らいがたい迫力で男たちの腕をひとまとめに掴むと、それではこちらへ、と有無を言わさず人気のないところまで連れて行った。

それを見送ったは、が何事かを終えて帰って来るまでに無事鏡を入手していた。

「ご苦労」
「いえ」

あくまで淡々としたの返答に、は薄く唇の端をつり上げた。

「もうあまり時間もないから、式で行くしかないな」

市の外れの寂れたところに足を進めたは、懐から折り鶴を取り出す。
パッと手をはなすと、それは見る間に羽を広げれば四丈をこす巨鳥となる。
ただ紙のまま巨大化させて風に乗せて飛ばすこともあるが、乗り心地最悪のため、あまりやりたいものではない。

鳥の羽ばたきを邪魔しない位置にしがみつき、が万が一に備えてその後ろに乗る。
の質量はどうやら通常では物の怪のように零に等しいので、問題はない。

一気に舞い上がった鳥は、人が見上げても雲と間違える高さで、貴船を目指した。
歩きなど比べ物にならない、さながら飛行機のような圧倒的時間で貴船につく。

舟形岩の前まで進んだは、その奥に足を踏み入れようとして、だけ弾き出された。

『樹精風情が我が神域に入れると思うなよ』
「………………だそうだ」

言って奥に進んだ主を見送ったは、舟形岩の目前つまり社の前、神域と言ってもたいして変わらない場所に立つ自分の本体を見上げてため息をついた。
いや、この舟形岩も神が降り給う場所なのだから神域だ。
いつもいつも締め出されるこの先で、自分の主の真意が語られていると思うとやるせなくなる。

「落ち込んどるようじゃの、唐橘の」

再び大きな溜め息を着いたの背後から、老成した声がかかる。

「……………楡の翁」

の言葉に長い髭をたくわえた樹精が目元を和ませる。

「まだ三十年かそこらの若木に生まれた樹精が人に使役されたと聞いて驚いたがのぅ、どうやら上手くやっているようじゃないか」
「いえ、私はあまりお役に立てていません。あの方の指示に従うしか」
「式っつーもんは言われたことに従っておればいいんじゃ、アホタレ」

投げやりな声が聞こえて、体格のいい老人が着物から片腕を抜いた姿で現れる。

「欅の、もうちっと助言になるような事言わんか」
「ケツの青いガキの悩みなんざ、どんなもんじゃい」
「……………ガキ、ですか」

ふっ、と暗い笑みを浮かべてますます沈み込んだ
それをさも鬱陶しいとばかりに見やった欅の樹精は、変わらない声を真理を言った。

「人の未来は人の手にのみある。わしらがどうしようとて、変わりはせん」
――――――それでも」

はっきりとした口調で、続けようとした欅の言葉を遮ったは、強い目で自分より数十倍の経験を持つ樹精二人を見返した。

「それでもあの方の前に立ちふさがるものはあの方に一切の被害を与えずに排除したいのです。私が今あの方の傍で出来ていることと言えば、傷の手当てや衣服の管理、人間相手の処罰などです。あの方が本気で取り組んでいることに、何の手助けもできていない」
「………………おぬし、それじゃまるで召使いじゃな」
「………………はい。べつにそれが嫌だというわけではありません。むしろ、光栄です。しかしあの方の負担を減らすことが出来ていないのです。あの方が探している敵の、正体を掴むくらい、協力出来たら…………」

またしてもずーんと沈み込んだに、楡と欅の樹精は顔を見合わせた。
若さゆえか、情が激しい精だとは思っていたが今回はまた随分浮き沈みする。

「敵、か」
「はい。西方より来たりし敵の正体を」

口に出してから、ははっとあることに気がついた。
この森には自分より遥かに経験豊かな樹精がいる。
ともすれば、その正体を知る手掛かりを知るものもいるかもしれない。

「お二方は何かご存じありませんか」
「知らん」
「すまんのう」

考える素振りすらなく返答を返されて、はまたしても沈みかける。

「大体、そんな脅威が近づいていることすら初めて知ったぞ」
「わしらは樹のさがゆえこの山より離れることはないからの。樹精で出歩いとるのはおまえだけじゃろうて」

深くため息をついたを哀れに思ったのだろう、楡の精は思い出したように言葉を紡いだ。

「杉の老ならなにか知っとるかもしれんのう」
「風の便りに、な。あの御仁は何かと外界に興味を持つ」
「呼んで頂けますか!?」

僅かな希望が見えて、は勢い込んで二人に詰め寄った。
のような若造では山一番老齢な杉を呼ぶのは憚られる。
それを心得ている二人がいざ山に呼びかけん、とした時、森がざわめいた。

『聴こえておったよ』

森のざわめきがまるで声のように聞こえて、を含む三人はこれが杉の送ってきた風であることに気付いた。

『西方の神仙妖獣について記された書が、我が国に海を越えて伝わったはずじゃ。確か――――二百年ほど前』

あっさりと言われた年の頃ではは影も形もない。

「杉の老、その書の名は」

楡が呼びかけた声に、風が重々しい声を持って返す。
樹精であればその属性は木、土が限度なのに、これほどまでに風を容易く扱うとはやはりとは格が違う。

『そう、確か山海経。本国では見ぬ西国の妖と言えば、これを読むがよかろう』
「せん、がいきょう………」

口の中で小さく繰り返したはそれを頭に刻みこむ。


ちょうどその時に、が貴船の奥宮から姿を現した。
あたりに広がる樹精の霊気に当然、は一瞬で気付き、その気配の根元に山全体を探ってたどり着く。

「随分力ある樹精がいるようだな。この気配は杉か」
「冬華様、お喜びください!西国の妖について記された書に、『山海経』というものがあるそうです。何かしらの手がかりとなるやもしれません!」

それを聞いて、は顎に手を当てて考え込んだ。
精神体で見た異形の正体は分からずとも、調べてあの化け牛の正体が分かれば自ずと知れよう。
見当もつかなかった頃とは比べ物にならない前進だ。

『ほお、随分奇特な気を持つ女性よの。その運命ゆえ、障害も多かろうが負けぬようにな』
「あなたに心からの感謝を、樹精殿。そして―――――ありがとう、

命じられたことに対する、『悪いな』でも『ご苦労』でもなく。

感謝の言葉を受けて、は胸に溢れる誇りや歓喜と言ったものを抑え込んで、深々と一礼した。