冬薔薇の棘を身に纏え





自らを罰し、報いを受けて、それで満足なのか。

他人に責められることが怖いから、自分で勝手に完結させる。
自分が悪いと、抗弁もせずに咎を負う。

それは時に易き道を選んでいることになりはしないか。
今までずっと、そうして逃げてきたのでは?

過去の罪など、数知れず。
今できる贖罪をさあ始めよう。




二章  拾

神域に足を踏み入れたが高於加美神の御前で何をしていたかというと。

『久しいな。池で水浴みをすることはあれど、本宮を訪ねるは幾年ぶりか』

厳かな声がの頭上から降り注ぐ。

「神の数える年月ならば、瞬きのうちだろうに」

笑い含みにそう返して、は笠を脱いだ。
高於加美神は幾分面差しが大人びた少女を目を眇めて隅から隅まで観察した。
不躾な視線に気分を害するでもなく、それを受け止める。

「三年という年月は、人には十分成長しうる時間だ」

最後に神の御前に立ってから三年ばかりが過ぎていた。
確かあの時も『あの夢』を見て、神域を確かめに出掛けたのだった。

「高於の神よ。二つばかり、問い尋ねたいことがある」

の駆け引きも何もない発言に、神の顔から表情が消えた。

「言ってみろ。問い掛け如何によっては答えてやらなくもない」

これでも神の機嫌はマシなほうだと言えるだろう。
本来、神は人に関わらない。
人が勝手に縋っているだけなのだ。

「都の異変、どれほどまで察知しておられる?」
「お前たちと変わりはない。私とてこの国を離れたことはない。異邦に関しては人の方が詳しく知っているだろうよ」

確かにこの国の神が他国に関心を向けるほど、建設的な性格をしているとは思えない。
ならば、遣隋使、遣唐使など異国に関心を向けている人間の方が情報は多いだろう。

そしてこの性格ならば、都の北方守護だのなんだの叫んでも、貴船山、つまり自分に対する害意がない限り重い腰をあげることはしないだろう。

異邦の妖異に関しては、神から何か助けを得られる可能性は限りなく低いようだ。
どうやらその力量や根城すら、探る気はないらしい。

「分かった。期待しない。これは人で決着をつける」

のある意味無礼ともとれる発言を涼しい顔で流し、高於加美神は次の問いを促す。
は今更ながらに少し気圧されて、小さく開いた口から細く息を吐き出すと、体の横で拳を握り締めた。

「神に人を鬼とする力、いや権限はあるのか」

それほど大きくはない声だったのに、その声は二人の間に確かに響いた。

「高於よ、こう告げたのを忘れてはいなかろう。『お前は理を犯した。人の身で天の定めた摂理に逆らった。それ故にお前の魂は鬼に堕ちた。…………もとより魂は穢れていたようだがな』と」

確かに理は犯した。
天の定めた摂理に逆らった。

「鬼に変えたのは何れかの神の仕業か。人は自らの情念で容易く鬼に堕ちる。しかしそこに神が手を加えたなどと聞いた試しがない。鬼に落ちればもはや冥府の管轄。神すらも介入は難しい」

今まで何故気付かなかったのか。
は神が自分に下した罰として鬼になったのだと思っていた。
しかし、鬼となっても何も変わらぬ。
高於加美神は『これが罰だとは言っていない』。
こうして魂を鬼に堕としてもなお生きることが、にとっても罰になると述べただけだ。

では鬼に堕ちたのは何故か。

自分を卑下し、責め、追い詰める心が、負の情がそれをなしたのだとしたら、納得がいく。
罰を下したのは、自身ではないのか。


「聡いお前ならば、もう聞くまでもないことだろう」


見透かすような瞳が、の目を捉える。
凍り付く瞳を見て、高於加美神はが初めてここを訪れた日を思い出した。
危うい、薄氷のような、剃刀のような、それでいて澄んだ清水のような瞳に惚れ込んで、気まぐれにこの人間を守護にとおいたのだ。

「人の魂は己にしか穢せぬ。罪を犯しても罪と知らねば無垢なまま。自らを戒め、悔い改め、二度と同じ過ちを犯さぬために自らに課した咎を受けただけのこと」

じゃあ、と幼子のような口調でがポツリと零す。

「俺は一生鬼のままだ。俺は忘れない。自分で自分を許すこともない。それに…………俺は脆いから、自分を制御する何かが必要だ」
「誰かに許してもらえばいいだろう」
「誰がその権限を持つ。前世の罪と現世の罪、どちらも理解していなければ。口先だけの許しなど、いらない」

確かに脆い子どもだ。
そして誰よりひたむきで、強い。
例えるなら、青竹のよう。
真っ直ぐ、真っ直ぐ、伸びていき、多少の風ではしなるだけ。
しかし、柳のように受け流したりはしないから、いずれ限界を超えたら、ポッキリ折れる。

高於加美神はうっすらと笑みを刷いて、二度ほど折れた青竹を見やる。
今はまた真っ直ぐに伸びていこうとしているけれど。

「私を飽きさせるなよ、

高於加美神の言葉に不機嫌さを隠しもせず、無言で立ち上がると笠を手に一礼し、は神域を抜けた。

その背を見送った神は、少し悲痛そうに顔を歪めて、呟いた。

「遠い昔、お前のようにひたむきで脆く、それでも壊れられないくらいには強い、そんな神がいた……………」

勿論その声は届くことなく、明らかに違う空間の狭間に遮られて消えた。
神は気だるげな息を一つ零すと、その龍身をくねらせて天に昇って行った。



時は戻り、と合流した



による手柄か、異国の妖を調べる術を見つけたはすぐさま邸へ引き返していた。
以前塗籠に山海経と書かれた書物があったことを覚えていたのである。

どことなく機嫌の良いに疑問を感じながら、切り替えの早いは自分自身の問題をすっぱり切り捨てた。
もやもやしていて気持ち悪かったものが、悪い結論だったとは言え吹っ切れたのだから神に会いに行ったことは十分価値がある。



塗籠にて。

うず高く積まれた書物を前にして、の肩を一つ叩いた。

「…………はい」

流石のも疲れたような表情をしてしまう。
に本の山を任せて、は足元に低く積まれた書物を調べてみる。
には高いところを任せて手燭で足元を照らしていると、その火が僅かに揺れた。

火というのは不思議なことに実体のないものにも揺れ動く。
例えば、気功を体得したものは触れずに、風を起こさずに火を消せるらしい。
研ぎ澄まされた殺気なども同様に。

は手燭を床に置いて、戸口に声をかけた。

「人手は多いほど良い。手伝ってくれるな、六合」

寡黙な神将はもとよりそのように命を受けて来たのだろう。
程なくして六合によって山海経は見つけられた。
と六合で運び出されていくそれを、がもの凄い速度で目を通していく。
思わず読んでいるのですか、と尋ねたは手で黙るように合図し、あっという間に全十八巻に目を通してしまった。

「生き物と思われる記述だけ暗記した。部屋に戻って書き留める」

一刻もすぎたら忘れてしまうだろうから。
と書物を適当に足元に積み上げる。

「本当はもう少し時間をかけたいが………。昌浩が使うのだろう?」

手燭を手にさっさと出て行ってしまったに、は自分の認識がまだまだ甘かったことを痛感した。
人並み外れているのは霊力だけではなかったらしい。

ぶつぶつ呟きながら墨を擦る主の為に料紙の束を棚から下ろして待つであった。


時を同じくして。

昌浩は陰陽寮で偶然にも山海経にたどり着いていた。
自宅にあるということを吉昌から聞かされた昌浩は、帰宅後すぐに塗籠に駆け込み、発掘済みの山海経を自室に持ち帰った。



一言も喋らずに書き続けるのそばで、次から次へと料紙を差し出し、また書き終えたのを拾い集めていく
一刻程、一心不乱に書き続けて、はようやく筆を置いた。

今まで息をしていなかったかのように深く息をついたを見て、は感嘆の息を吐いた。

「凄いですね。これら全てをあの一度に?」
「まあな。瞬間記憶を持つ人のように、絶対に忘れないということは出来ない。少し時間がたてば、忘れてしまう。ただ単に、一度で暗記できる量が普通の人より多いだけさ」

何でもないことのように言って、から料紙を受け取り、ぱらぱらとめくっていく。

「本を書き写す時、読んで覚えて書きつけてを繰り返すだろう?誰しも本の方に視線を向けたまま書くわけではない。それと同じことだ」

友人曰く、テスト直前に役立つ暗記力だそうだ。

「そう言えば、一つ気になる記述があったな」

そう言って何枚かめくった後に、はその手をぴたりと止めた。



ひらり、と一枚が投げられて、それをが床に落ちる前に掴みとる。

「右から三行目」
「頂上に獣がいる。その状は牛の如く、白い身に四つの角、そのあら毛は蓑をひろげたよう、その名は………これは?」
「ごうえつ、だ。昌浩を襲った牛の特徴に合致している」

そう言って昨晩描いた雄牛の絵を棚から引き出す。

「どうやらこの都を襲ってきているのは唐から渡ってきた妖に間違いないらしい。狙いは良く分からないが、一の姫を狙っていることといい、内裏の火災の原因といい、我々にとっては廃さなければならない敵のようだな」
「どう動かれるおつもりですか?」

その言葉には片膝を抱いて少し考え込むと、しばらくしてスッと立ちあがった。

「どちらへ」
「昌浩と少し情報交換をする」

昌浩は二度も直接妖に対峙している。
一度目は東三条殿にて、二度目は夜の都で。

御簾をくぐり簀子に足を踏み出して、日もすっかり暮れ落ちたことに気付き、夕餉の支度を手伝わなかったことを思い出した。

「しまった。母上に詫びなければ」
「御母上なら先ほど見えられました」

から思いもよらないことを聞いて、は愕然とした表情になる。

「いつ?」
「あなたが一心不乱に書き留めている間に。手が外せないご様子と申し上げたら気にせずともよいから、と仰られておりましたよ」
「…………気付かなかった」
「素晴らしい集中力です」

は褒めてくれたが、これは気をつけねばならないかもしれない、と記憶にとどめて、は昌浩の部屋に向かった。

「兄上、冬華です」

が声をかけたらすっと妻戸が開き、目の前に誰もいないのを見て下に視線をやると、物の怪が器用に二足直立で扉を開けてくれていた。

「どうした?」
「兄上は山海経を読んでおられますか?」

の唐突な言葉に目を見張った物の怪はもしかして、と告げる。

「塗籠の山海経、お前の仕業か?」
「私とおじい様もとい、と六合の協力の成果です」

どちらも自分で探していないところが物の怪を何とも言えない気分にさせる。
物の怪に招き入れられて、書物を前にした昌浩の背後に腰を下ろすが、昌浩は何かをあーでもないこーでもないとぶつぶつ呟いていて気付いた様子はない。
集中力は兄妹、似通ったところがあるらしい。

「今、昨夜の牛の記述を見つけたところだ」
「それはこちらもすでに。兄上達は東三条殿でも妖に遭遇したそうですが、それは?」
「まだ分からん。それと、昌浩が今日、おかしな夢を見た」

の双眸が物の怪の言葉に鋭く細められる。
力あるものの夢は意味をもつ。

「東三条殿の邸に化け物を見たらしい」
「あくまで狙いは一の姫ということですか」
「いや、昨晩は昌浩を献上すると言っていた。となると」
「狙われているのは霊力をもつ者」

物の怪の言葉を引き継いで、が低く言葉を発した。
頷きで返す物の怪に、は今ある情報から組み立てた自分の推測を話す。

「力ある者の血肉は妖の力を高めます。しかし、それを目的として唐から出てくるとは思えません。あちらにも名のある僧侶はおりましょう。だとすれば推測できる状況は二つ。唐が既にその妖の手に落ち、更に支配を広めようとやってきたか。もしくは何らかの原因によって唐を去らねばならなくなり、新天地を求めて我が国に来たか。後者ならば妖同士の勢力争いに敗れた可能性がありますね。それでこちらで力を蓄え唐に戻るという考えも」

すらすらと告げられた言葉に物の怪が感心しながら問い尋ねた。

「貴船の神は何か言っていたか?」

物の怪の言葉に素晴らしく笑顔になったは辛辣に言い放った。

「神が基本気まぐれだということを忘れていた私が馬鹿でした」
「つまり収穫はなしか」
「異邦のことなど知るか、と言われましたよ」

実際、そうなのだろう。
物の怪もこんなことがない限り他国について何かを知ろうとはしなかったに違いない。

「俺はもう少し山海経を読む」

昌浩の下の書物を物の怪が覗き込んで初めて昌浩はの存在に気付いたらしい。

「あれ、冬華どうしたの?」

さっきの自分と見事に被る、と思いながらここに来た理由を告げようと口を開いたその時。

「あっ!」

物の怪が声を上げて勢いよく頭を持ち上げ、に意識を向けていた昌浩は、不幸にも、その頭突きを顎に喰らった。

「がっ、あががが!」
「……っっっ、っだぁぁぁぁぁ……!」

二人ともそれぞれ顎と頭を押さえて床で悶えているのを冷静に見ていたは、物の怪が声を上げた理由を何かを知るべく、床の書物を手に取った。
涙目になりながら漸く悶絶を終えた二人にも聞こえるように、は口に出して読む。

「洛水ながれて北流し河に注ぐ。水中に蛮蛮多く、その状は鼠の身に鼈の首、その声は犬の吠えるよう」

真剣な目になって起き上った昌浩は、それが夢で見た東三条殿を襲った妖だという。

これで敵の正体もはっきりしてきた。
都に訪れた妖は複数。
騰蛇ですらてこずる妖に、更にはその上をいくであろう主の存在。
そしてその主に仕える妖は今もまた霊力のある人間を食らおうと都を跋扈しているに違いない。

「早々に片付けねばなりませんね」

の呟いた言葉がやけに響いて、昌浩は立ち上がると自分の櫃の中から手甲や呪符の用意を始める。

「昌浩?」
「探さなきゃ。あの化け物…蛮蛮を。放っておいたら、大変なことになる」

口に出さずともも昌浩と同様に、自分の本能が警告しているのを感じ取っていた。
精神体で対峙したあの妖が彼らの言う主ならば、昌浩や自分では未熟すぎる。

それはと昌浩の心に、不安と恐怖と、そして決意を生む。

「……どうやって探すんだ。都は広いぞ、しらみつぶしに当たるのか」
「その辺にたむろしている化生どもをとっ捕まえる。奴らだって感じてるはずだ、きっと息を潜めて隠れてる。それを見つける」
「…………そうですね。少々お待ち下さい」

思案していたは突然顔を上げると、ぱたぱたと駆け足で離れに戻って行く。
何となく展開が読めて、はすぐに後を追った。

昌浩が待ってと言われて素直に待っていると、四半刻もしないうちには戻って来た。

「では、行きましょうか」

初めてみる妹の狩衣姿に、昌浩と物の怪は揃って顎を落としたのだった。