冬薔薇の棘を身に纏え




我が身は貴女の為にある。


守れさえすれば、この身がどうなろうとも構わない。
真に守りたい者のためならば、体の傷がいかほどのものだろうか。
誇りにも信念にも近いこの想い。

時に自身を顧みない貴女の傍にいたいとどれほど思ったことだろう。
貴女の盾になることすらできず、貴女の槍になることもなく、今ここで他者を守っている。
貴女はいつも守りたい者の心を斟酌することはない。

私にとっての全ては貴女なのだと、常々告げているのに。

貴女はその本当の意味を理解してくれているのであろうか。




二章  拾肆

時は少し遡り。



黒い闇の中を疾駆する獣。

根を張った場所ならばこれほど時間を食うこともないのに、と歯噛みする。

人の姿の端末は、根を張った場所ならば何処へでも遁甲して移動することができる。
が作った軸を中心に作られている姿ではあるが、それから枝分かれした根はもはや軸も同じ。

主の情報網として役に立つため、都の各所に根を張っていたが、主の兄の気配は右京の、しかも外れの方からで流石に根を張ってはいなかった。
今度からは可能な限り一通り根を張っておこうと決心する。
主が敵を足止めしている場にはすでに根をおろしてきた。
主がその気になって呼びさえすれば、は馳せ参じることが出来る。
しかし、主はけして呼びはしないであろうことも分かっていた。




荒れ果てた広大な邸に辿りつき、中から迸る妖気と神気に確信を抱いて飛び込む。
塀を飛び越した獣の姿を、空中で常の姿と戻し、降り立った地面に根を張り巡らせた。

中は一体どのように隠れていたのだろう、見慣れぬ異形達がひしめくように集まり、神将の姿も人間の姿も見えない。
時折立ち上る炎蛇が騰蛇の位置を教えるが、そのそばに昌浩の姿は見受けられなかった。

の乱入に気付いてとびかかってきた何匹かの異形をまとめて串刺しにして地面に縫いつけ、手近なものは鞭を一閃し薙ぎ払う。
幾分か開けた視界の奥に、襟首をくわえられた少年と、そのすぐ傍に虎に似た異形―――山海経の記述によれば窮奇と思しき異形がいる。
瓦礫の山に首を押さえつけられている様子を見ると、もはや抵抗もできないほど弱っているか。

否。

伏した顔は見えないが、小さく動く口元。
瓦礫に押し付けられた体は動いていないが、右手だけはしっかりと剣印を結んでいる。

は術の呪文など知りはしない。
傷ついた体がどれほど術に影響を与えるのか、また術がどれほど術者の体力を奪うのかは知らない。

しかし、駄目だ、と思った。

深い理由を、と言われたら答えることは出来ないが、強いて言えば一瞬見えた眼差しが、主に似ていたからかもしれない。
異形の中で炎を纏う神将の姿を見つけて、静かに優しく微笑んだ眼差しが、主のそれに似ていたから。



そう、自身のことなど顧みない、ただ相手のためだけに。




いつぞやの会話。

『お願いです。私はあなたの盾となるためにあなたに創られたのです。あなたがそう仰ったのではありませんか。自重してください。頼ってください。私が無傷であなたが怪我を負うようなことがあれば私の誇りはどうなります』

主の手をとって、懇願するように告げた。
それに対して主は綺麗な微笑みを浮かべて手を引きながら『わかったよ』と答えた。
しかしそれが偽りであるとは知っている。
眼差しのあまりの穏やかさにそれ以上言い募ることもできず、優しい嘘でできた約束はかわされた。




天から闇を斬り裂く一条の光が落ちるのと、が昌浩への道を完全に開くのは同時だった。
異形にとって視界が奪われた一瞬、その時間が何のために誰のために作られたものかを理解して、やはり、と唇をかむ。

『…おのれぇぇぇ!!』

激しい怒号と共に稲妻を振り払った窮奇が剥いた牙の輝きに、昌浩は静かに目を閉じた。

渾身の力で異形を焼き払った騰蛇が昌浩との間に飛び込んで、その身を呈して庇う。
牙を肩口に食い込ませたまま、爪が更に騰蛇の背を抉って血飛沫が噴き上がった。
それでも動こうとしない神将にとびかかっていく小物を、はその棘の枝で刺し貫く。
吠え猛る窮奇には自身の枝全てを向け、騰蛇と昌浩から引き離した。

瞬きもできぬまま固まった昌浩ににやり、と笑いかける騰蛇。
はその二人を囲うようにして、さながら籠のように枝を張り巡らせた。

「…な…っ、なにやって…!なんで逃げなかったんだよ、せっかく…!」

泣きそうな顔で手負いの神将に詰め寄る姿を見て、はやはり血を分けた兄妹か、と思う。
恐らくがその存在をかけて守ったら、主は同じことを言うだろう。

まったく、この兄妹は揃ってその存在を守りたい者の心を理解してくれない。

の作った茨の籠の外に、更に炎壁を作り上げた騰蛇は前屈みに地に手をつく。
炎に炙られて、それでも越えてくるものは枝によって貫き通され、ようやく息もつけぬような攻撃から逃れることが出来た。

「紅蓮、馬鹿だよ、こんなに怪我して…じい様になんて言って謝ればいいんだよ!」

真に大切に思う者のためならば、体の傷などどれほどの苦しみだろうか。
騰蛇も、も大切なものが傷つけられる方が、我が身よりもなお辛い。

「…気にするな。俺がお前に、死なれたら困るんだ」

言葉を失った様子の昌浩に、騰蛇は続ける。

「…お前は陰陽師になるんだ。最高峰の、それこそ晴明を越えるような。こんなところで、死なせてたまるか」

騰蛇の前に座り込んだ昌浩の、その背後に立つは、容易にその言葉に納得できて、外の敵の排除に専念した。
樹を操るにとって、騰蛇は能力面で相性が悪い存在だが、騰蛇にとっては木生火、助けを受ける形になる。

「紅蓮が死んじゃったら、俺だって困るじゃないか!もっくんがいなかったら、めちゃくちゃ寂しいし、冬華だって悲しむよ!それに…!」

感情が言葉を塞いでしまった様子の昌浩の言葉を聞いて、はその素直さに好意を抱く。
かの人は私が消えたとしたら心揺らぐことがあるだろうか。

騰蛇は昌浩の言葉を受けて、遠い日から見守ってきた幼子の片割れを愛おしそうに見つめる。
今ここにいないもう一人の“泣かなかった”幼子も、どちらも同じくらい愛おしく、かけがえのないもの。
自身の式を持つことと見鬼を失わなかったことで、自分はその対象ではないと思っているようだが、それは違う。

「冬華の式が、何故ここにいる」

荒い息の中で、に対して騰蛇が言葉を向けて、昌浩は初めての存在に気付いた様子。
その言葉に若干の責めるような語気を感じ取ったは、不愉快そうに顔をゆがめて、静かに返した。

「私は貴方がた十二神将とは違い、制約が多い」

神の末席に連なり自ら陰陽師に降った神将と、樹精とはいえ陰陽師によって作りだされた形をもつでは制約が違う。
紙等でできた式とはちがい、固有の自我は存在するが、主の命に反するということはやはり本質的にできないものとして刻み込まれている。
樹精・の自我としてはいくらでも反することは出来るのだが、の意に反すれば、式として形成している術を打ちきられてしまう。

自分だって本来ならばこちらに来たくなどなかった。
貴方のように主の傍でその身を守る役に就きたかった。

無言の空白に含まれた意を感じ取り、騰蛇は軽く首肯するにとどめた。
が、昌浩はその言葉から、の言わんとするところを感じろれなかったらしい。

「冬華は!?冬華は大丈夫なのか?蛮蛮追っていったけど、蛮蛮は……」

蛮蛮は窮奇によって骸と化していた。
ならばそれを追っていった妹はどうなったのだろう。
現在の状況も忘れ、焦った様子の昌浩に対し、はつとめて感情を抑えて告げた。

「冬華様は蛮蛮を追う最中、別の異邦の妖に遭遇し、その脅威を確認したため、戦力が集中することを恐れ、足止めに残られました。冬華様とその妖は拮抗している様子で、昌浩殿の向かった先の勢力が予想以上であったため、私にこちらの援助をお命じになりました」
「そんな、冬華一人で!こっちは俺が何とかするから……!」
「貴方の意思は主命よりも軽い」

は昌浩に対して、主の兄といった程度の感情しか抱いていない。
最優先すべきは冬華であり、昌浩ではない。
その筋の通った忠誠心を昌浩も感じ取ったのだろう。

自分のためには不本意ながら主を危険に曝しているということ。
自分はふがいなくも紅蓮との二人に守られているということ。
そして今、この時も冬華は独りで命を賭けて戦っているということ。

思わず俯いて拳を握りしめた昌浩。
騰蛇はそんな昌浩の頭に自身の大きな手を乗せた。

冬華なら大丈夫だ、という口先だけの慰めも言えず、そしてその言葉は余計に差を感じさせてしまうような気がして、騰蛇は無言のまま昌浩の感情をなだめた。


「―――――冬華様?」

突然、ぽつりと呟いたの声に昌浩は俯いた顔を上げる。
騰蛇と同じくらいの背丈で自分から遠いその精悍な顔は、焦りや混乱が綯い交ぜになって蒼白していた。

「どうした」
「冬華様のもとに残してきた『根』が使われた」

短く尋ねた騰蛇の言葉に、は焦ったように返す。
短い言葉の中には詳しい説明がないが、長い年月を生き、知識も豊富な騰蛇はすぐにその意図を理解した。

冬華にとって僕であるの、その端末を使うことは容易い。
だが、その行為は本来の冬華の戦い方とは違う。
冬華は常に慎重に罠を張って、確実な優位に立ったうえで術を行使する。
その罠を大抵が引き受けたりしているのだが、がいなくとも冬華は常にありとあらゆる状況を予想して呪具を持参するため、罠を張るための準備はぬかりない。
しかし、今回独自の考えで残してきた根に気付き、それを制御するということは冬華自身にもう手が残されていないということ。


冬華と饕餮の力は拮抗していた。
力が拮抗しているということは、永遠に勝負がつかないというわけではない。

どちらが勝利するか見当がつかないということ。

いわば、五分の勝負。
僅かな油断、小さな失敗が勝敗を決する、緊迫した状態のこと。

今にでもこの場を放りだして、主が待つところまで遁甲して駆けつけたい。
そう逸る心が、昌浩を視界に入れて冷水をかけられたように静まる。
主の言霊ゆえに、まだこの現状ではこの場を離れることが出来ない。

は唇を噛み締めて、ただ主の無事を祈る。
どうか、主の選択の理由が、大切な兄を生かし自分は切り捨てるという、自己犠牲ではないように。
両者が生きることを望んでの選択でありますように。


あの方に背を向けた時、あの方の瞳はいつぞやのように静かな優しさを湛えた瞳ではなかっただろうか。


無事を祈りながら、冷静な部分はこのままでは埒が明かない、と現状を判断する。
さながら籠城の如く、攻撃の手が及んでいないのはよいが、傷を負った神将にとってはこちらも戦力を削っているに等しい。
騰蛇の炎壁が揺らいだのを見て、妖達が盛んに飛びかかり始めた。
迎え討たんと気を引き締めたと、辛い体を叱咤しながら立ち上がった騰蛇の腕を、引きとめるように昌浩が掴む。
長身の二人の間に立った昌浩の顔には、ですら目を見張る強い気が満ちていた。

「紅蓮!俺は大陰陽師になるんだから、お前はそれを見届けろ!こんなところで死んだら絶対許さない!も!こんな奴らとっとと倒して冬華のとこに行かせてあげるから!」

その叫びを聞き、自分の隣で騰蛇も目を丸くしているのを感じる。
昌浩はそんな二人を押しのけて前に出ると、懐から符をとりだす。

「大体冬華は冬華でいつも無茶ばかりして、周りで心配する人の気にもなれってんだ!そりゃ冬華は俺より強いし頭いいし運動神経いいし大人っぽいし何気にかっこいい、けど!」

ぎらんっ、と昌浩の目が積年の恨みを晴らすかのように輝いた。


「兄の面目保たせろばかー!」


思わずひっくり返らなかった自分を褒めてほしい、とは切実に思った。
隣の神将はまるで微笑ましい物を見るかのように和んだ顔をしている。
十二神将きっての凶将にこんな顔をさせるなど、やはり主の兄も大物かもしれない。

他者に興味のないは知る由がないが、騰蛇は昌浩が冬華に説明した通りの人間であることを再確認し、微笑む。
やはり昌浩は妹が自分より優れているからと言って嫉妬や焦りを感じるような、器の小さい人間ではない。
今も昔も、この幼子がこだわり続けてきたのは、『兄の面目』ただそれだけだった。

「冗談じゃないぞ、異邦の化け物どもめ、俺は本気で怒ったっ!」

冬華への感情の爆発が、そのまま異邦の妖への怒りにすり替わり、昌浩は覇気のある目で敵を見据えた。

「オンバザラギニ…!」


瞬間。
天から飛来した無数の光が、炎壁の外に群れ重なる化け物たちを一閃のもとに薙ぎ払った。

窮奇ですら予想しなかった襲撃に、威嚇の唸りを上げて牙を剥く。
人とは異なるものが化け物を打ち払っていく中に、一人の青年の姿を見つける。

「……誰だ?」

年の頃二十歳くらいの青年は、狩衣をまとい、烏帽子は被らず、長い髪を首の後ろで括っている。

「……冬華?」

そう、その面差しは自分の双子の妹に瓜二つであった。
男女の違いこそあるものの、明らかに血縁を疑わざるを得ない容姿。

人とは異なる者たちを従え、昌浩の前で昌浩が最強と認めている晴明よりもすさまじい術を行使する。

「あれ誰だろう…」

昌浩の呟きに応えはなく、晴明以上の霊力をもって次から次へと異邦の化け物どもを退治していく。
戦局は優勢であるものの、圧倒的数に囲まれてしまった青年の危機を見て、昌浩も前に出て術を行使する。
昌浩の術に守られる形となった青年術者とその式であろう者たちは、意外そうな一瞥を向けてきた。

「昌浩!」

力尽きたように座り込んだ昌浩に引き攣った声を上げてすぐさま駆け寄った騰蛇に、昌浩は大丈夫、と短く返す。
陰陽術は気力と体力を消費する。
自分の体力が限界に来ていることは自覚していた。

昌浩の術の加護を受けて、真言の詠唱を終えた青年は、張りのある凛とした声で高々と叫んだ。

「――――万魔拱服!」

天を衝くほどの雷撃を受けて、周囲の化け物は瞬く間に黒焦げの亡骸と化した。
それから逃れたものはほうほうの体でこの場を逃げ出していく。

親玉とも言える窮奇は、と視線を巡らせば、あの雷撃は受けていないものの、形成が不利になったことは悟ったのだろう。
口惜しそうな唸りを上げて、闇に溶け消えようとする。

呪いの言霊を吐き捨てようとしたか、昌浩と青年術者に向けて口を開いた時、闇を斬り裂いて光が襲来した。

「!」

光は窮奇の額、右前足、目の下の頬を深く傷つける。
抉られて血を噴き出した窮気が、新たに登場した襲撃者の正体を見ようと首を巡らせた先には。


「冬華!」

昌浩の声が一瞬の静寂を裂いて上がる。
冴え冴えとした表情で窮奇を睨めつける、が愛してやまない主が立っていた。