冬薔薇の棘を身に纏え




その身を削り合うのは二匹のケモノ。


我らの闘いに理屈は要らぬ。
生き残ったものが全て。
最後にその身がこの地に立っているもの。

人の誇りなどとうの昔に捨てている。

人にあらざる愚か者同士、互いの身を貪り合え。

何ともお似合いな敵ではないか。




二章  拾参

物理的な風が砂塵を吹き上げ、の視界を奪う。

結界ごと吹き飛ばした。
の力で作られた結界はが放つ力に関しては作用しないような組成になっており、饕餮は身動きもできないまま術を食らったはずだ。

だが。
消失しないその禍々しい妖気がまだ存在を告げている。
却って自分の視界すら妨げてる砂塵に目を眇めながら、せめて怪我くらいはしていてほしい、と思う。


砂塵の中、ぎらり、と紅い瞳がこちらを向く。
敵の位置を確認したのはお互い同時。
が瞬時に変えた長刀を突き出すのと、獲物にとびかかる猫のように饕餮が地面を蹴ったのも同時。

の長刀は饕餮の脇にある片方の目を潰し、饕餮の前脚がの胸を突き飛ばす。
どちらも前方への攻撃を選択し、回避という手段を選ばなかったため、その一撃は相討ちということになった。

ただ妖と人。
その絶対的な存在の違い。
霊力であればは饕餮と拮抗したが、腕力ではと違って到底及ばない。
前世よりも細身で小柄な体は容易く後ろに吹っ飛び、それでも前に進んできた饕餮によって踏みつけられる。

「っが………!」

人の指がある前足に、獅子よりも大きい体を乗せてくる。
路の真ん中に仰向けに倒れて髪を振り乱した人の上に、異形がのしかかる様は正にこれから喰らわんとするよう。

ミシミシと自分の肋骨が上げる悲鳴を聞きながら、は歯を食いしばった。
ばたばたとちょうど胸に前足を乗せている今では、見上げたすぐ目の前にある先ほど潰した眼窩から血が顔面に滴る。

頭から血を被ってその臭気に一瞬気が遠くなる。

虚ろな思考でつい先日も額を割って血を被ったばかりだというのに、とか、髪を洗わなければ、などと考えた。

覚えのあるこの臭い。
人も妖も血臭は同じというか。
それともかの人と自分とこの妖は同じような存在だというか。

「………くそ」

過去に引きずられる思考を振り切るように、は土を掻いて拳を握りしめた。

「………ッらァ!」

突き出した拳が目の前の傷口を抉り、広がった傷口にその手首までを沈めた。
ずぶり、という嫌な手応えを感じながら、抉れた眼窩をかき混ぜてやる。

そこまでやれば流石の妖もから体を離して苦鳴を上げる。
手首が持って行かれそうになりながら、上体を後ろにそらせた饕餮前足から逃れた。
饕餮の体の下から這いずって出ると、地面に転がった長刀を拾いあげ、それを杖に立ち上がる。

大きく息をつくと、胸がずきり、と痛んだ。
肋骨の一本くらい折れたかもしれない。

乱れた髪を後ろに掻きあげると、血の粘りの感触が指の間に残った。
上体を伸ばして、苦悶する饕餮を睨みつける。
みしり、とまた胸が痛んだ。


―――――時間がない。


を先に行かせてどれほど時間が経っただろうか。
昌浩やの気配を探りながら相手できるほど、饕餮は格下の妖ではない。
把握できない現状が焦燥を生む。

は自分が臆病者だと知っている。
現状を把握していなければ視野が狭窄していき、時に事態を悪化させることを、過去の経験から学んでいる。

把握しきれず、手に負えなくなった事象のほとんどを、は諦めという逃避で放り投げてきた。

しかし今度ばかりはそうではない。
何より自分と昌浩、両者を生かすためにこの選択をしたのだから。

未練がましく昌浩達の気配を探ろうとする思考を振り払って、は目前の敵に集中する。


―――――、任せたぞ。


そっと心の中で忠実なる僕に呟いて、は息を吐いて印を結んだ。

「伏して願わくば、来たれ、闇を斬り裂く光の刃!周囲を白銀に染め上げる、雷の剣よ!」

の真言に導かれ、霊気が大気に集まり天空へと駆けのぼる。

「電灼光華、急々如律令!」

天から降り注ぐ、まるで天の裁きとも言わんばかりの雷。
雷神の召喚。

奇しくもまったく同時に、血を分けた兄妹によって同時に唱えられたその呪文。
本来のものよりも遥かに威力を増して、饕餮を貫く。

京の都から二本の光の柱が天から下され、その周囲は一瞬と言えども真昼の如き明るさとなった。

できるだけ人気のない、下方に移動したつもりだが、もしかしたら誰か気付くかもしれない。
しかし、それを気にしていては饕餮に対抗は出来なかった。

は今、例え周りに野次馬がいたとしても、饕餮もろとも巻き込むことを辞さない覚悟で闘っている。
昌浩や清明であるならば決してしない選択だ。

安倍家の人間なら誰しもがしない選択であろう。


強いからだ、とは敵を見据えながら小さく呟く。



自分の心は弱い。
どれだけ能力に磨きをかけても、強い配下を手に入れても。
相手がどんなに弱くても、九割九分九厘勝てる相手でも。

限りなく少ない最悪の結末に怯えてしまう。

失う怖さを知っている、とは言わない。
何かを失う前に自分から握り締めた手を開き、諦め続けてきた。

だからこそ、沢山持っている今は怖い。
まるで自分の手の上に高級な皿が積み重なっているかのよう。

なにもなかった頃ならば、躓いて傷つくのは自分のみ。

しかし今は。

――――――もう、何も持たず、ただ一人で立ち竦んでいるのは嫌なんだ。



辺り一帯の土が焦げ、黒く変色しているその上に、放電しているかのように光が走る饕餮がいた。
隻眼となった目からはおびただしい血が滴り、それでもまだ、口からは嫌らしく臭気のある涎を垂らしていた。

『ク……クワセロ……オ、オン、オンナアアアァァ!』

凄まじい咆哮と共に、妖気が周囲に満ちていた霊気もろとも体に走る光を吹き飛ばした。

饕餮。

にも説明したように中国の異形の中で最も凶悪と言われる四匹の妖の一つ。

饕餮は食を求めて飽くことがないという。

饕餮にとって、たとえ魔に属するものであろうと聖人であろうと、全てが貪りの対象である。
故に四凶であると同時に魔を食らう魔除けともされる。
そして窮奇のように相手の心を弄ぶようなこともなく、ただその腹を満たす欲求。

は口の端は僅かに吊りあげた。

その行動に理のない相手で良かった。
窮奇のように人の心を計る相手であったなら、その言葉に欺かれたかもしれない、弱い心を突かれたかもしれない。

支えにしていた長刀を軽く一振りして、は唇を釣り上げる。

「喰えるものなら喰ってみるがいい」

軋む胸をこらえて、ハッと嘲笑するように息を吐き、常日頃表情の薄い面を精一杯見下したように歪めて。

「理性のかけらもない、大喰らいの化け物が。愚か者同士、単純に強者が残ろうじゃないか」

その挑発の言葉を理解したのだろうか。

何度目になるかわからない饕餮の突進を長刀でいなし、は転がるようにして饕餮の背後をとる。
真言すら省略し、ただ身の内に眠る純粋な霊力を神より授かった霊器に宿し、饕餮に放つ。

先ほどの罠を張るような戦い方とは打って変って、力押しの闘い。
鬼気迫るような、とはこのことを言うのだろう。

絶え間なく妖気と霊気がぶつかり合い、砂塵が舞い上がり、付近の屋敷すら巻き込んで敵を薙ぎ倒す。

「縛縛縛!不動戒縛!神勅光臨!」

ほんの一瞬動きを遅らせる程度の効果しかない縛呪でも、はその隙を逃さない。
と共に日夜鍛えた体術とそれに合わせた棍術を応用しての長刀捌きは、獣のような俊敏さをもって饕餮の喉を抉る。
重い手ごたえを感じた長刀の先が力の向きに振り切られ、返す刀に脳天からまたそれを振り下ろす。

息も告げぬような闘いの中では、真言の詠唱など隙を作るだけ。
晴明には十二神将が、昌浩には騰蛇が、そして自分にはがいたからこそ、悠長に真言を唱えていられるのである。

「禁!」

饕餮が放った妖気の塊を簡単な結界呪で弾き返し、その河馬のように大きく開けている口の下顎を斬り落とすように長刀を滑らした。

「ッ!?」

押し切ることのできない抵抗を感じて、その口元に視線をやれば、やけに立派な歯並びで幅広の刃をしっかりと咥えている。
神から授かっただけあって、その刃が砕けることはないが、の腕力では押すことも引くこともできないのも事実。
饕餮の首を振った動きに合わせて、体が引きずられる。
の体がよろけたのと同時に、饕餮の口が開き、の正面からとびかかった。
何とか相手の口に長刀の柄を噛ませることで、相手の前進を留めるが、体躯からして分が悪い。

体重をかけられてしまえば、先ほどのように再び上に乗られてしまうかもしれない。

山羊のように突き出たその口を押さえることに気がいって、饕餮の前足が獣のそれとは違うことを失念していた。
薙ぎ払うように振るわれたそれが、の脇腹を強かに打つ。

長刀からはもちろん、地面からすら脚を浮かして横っ跳びに吹っ飛んだは地面にたたきつけられる。
痛む肋骨を打ちつけることがないように、曲りなりでも受け身をとろうとと突き出した右腕が地面の上の何かに触れた。
指先に当たるモノに僅かに目を見開いて、手の内に握りこむ。

もう血か唾かわからないものを吐き出し、手から離れてしまった神器が高く放り投げられるのを見ながら、履き慣れない沓を脱ぎ捨てる。
素足になって砂利の痛みを感じながら、は身を低くして地面を蹴った。

当然のようにあぎとを開く饕餮をかいくぐり、先ほど抉った喉元に、拳を突き入れた。
目を抉った時のような感触が手を包み、は不快感に顔をゆがめる。
ぐっ、と更に奥に突き入れると同時に再び饕餮に突き飛ばされた。

今度は受け身をとる間もなく地面をニ回三回後転して、体のあちこちを磨って止まった。
目に突き入れた左手と、喉に突き入れた右手はどちらもどす黒い血でぬめり、砂がこびりついてザラザラとした感触を伝える。
のけぞって苦悶する様子をデジャブのように見ながら、は地面の上に両手をついた。

ぺたり、と地面に腰を下ろしたまま、両の手を地面の砂に滑らせて。


「この言の葉は真理を凌駕す…………我が息吹、春の息吹となりてその葉を揺らせ。芽吹きの時はもはや来たれり。土に打ち克ちてその身を顕せ、木の性もつ我が僕、名を、!」


地面の下を何か生き物が掘り進んでいるかのように波打っていく。
それはが座り込んでいる場所から、一斉にある一点経を目指して進んでいく。。

何かを察したかのように、高く飛びあがって地面から離れようとした饕餮。

その躯が屋根や塀といった地面から離れた場所に降り立つよりも先に、地面からまっすぐ突き出たものに貫かれていた。


それは、棘のついたの枝。


『オノレ……シキガミカ!』


四寸ほどの棘が並ぶ枝から、その肉を犠牲に離れた饕餮は、確実に突かれた急所を庇って、地面に伏せる。
滴るどころでは済まない血が地面に広がっていく。

「違うな。―――――――根ざせ、我が忠実なる僕」

山羊のような体躯の、前足を折った姿勢で腹ばいになっていた饕餮の体が大きく痙攣した。
その背筋が大きく波打ち、そこから立派というしかない大ぶりの枝が突き出してくる。
その勢いで自然と地面から離れた饕餮の姿を見て、やっとその身に何が起こったのかを知ることが出来る。
ただその場にはそれを受けたモノと、それを行った者しか存在しないが。

饕餮の腹からは地面に向かって根が。
逆に背中からは立派な枝ぶりの幹が。

気の弱い者なら卒倒するような光景と共に、辺りに絶叫が響き渡った。
目を抉られた時、雷に打たれた時、喉を抉られた時、そのどれよりもおぞましく苦しげな声だった。

ゆらり、と地面の砂を手で撫でるようにしながらが立ち上がる。
ぼろぼろになった狩衣から抜き出した符を指で挟み、天高く掲げた。
眼差しは無残にも貫かれ、身動きの取れない饕餮をしっかりと見据え、血が絡む喉も気にせず、声を張り上げた。


「この術は凶悪を断却し不詳を祓除す……急々如律令―――――!」


渾身の力で放たれた術が、饕餮の体を崩壊させていく。
辺り一帯に広がる霊気が、妖の血の穢れもろとも邪気を祓っていく。

轟々と唸る風が収まった頃には、その一帯はさながら聖域の如く澄んでいた。
天高く噴き上げられて跡形もなく邪気が霧散させられたのを見届けたは、そのまま仰向けにひっくりかえった。
街燈一つない真の夜空を見上げて、は深く息を吐き出した。

血の穢れはすでに祓われているものの、あちこち突かれたところの痛みは癒せないし、極限状態までの霊力を使用した体は思うように動かない。

「昌浩のもと………に……」

行かなければ。

という考えが頭を掠めると同時にその視界は暗転した。