相対するはかの有名な妖怪。 強欲な妖怪。 残忍な妖怪。 怠惰な妖怪。 かつての父と、かつての弟と、かつての自分のような。 笑えて来るほど滑稽で、笑えて来るほど醜悪なコレを倒さなければならない。 大丈夫、まだ命を賭ける時ではない。 そう安売りできるものではないのだ。 もう、自分一人のものではないのだから。 二章 拾弐 が指示するまでもなく、は闇を駆ける。 「大通りをこんなデカい犬が走ってたら、度肝抜くだろうな」 毎度思っていることをぽつりと呟いて、密やかに笑う。 しかしその笑いもすぐに消えた。 「止まれ」 命令通り地面に爪を立てて急停止したの背中から滑り下りると、は行く手に広がる漆のような闇を見据える。 「どうなさいました」 「妖気が二つ。一つは逃げ去る蛮蛮。もう一つは…………」 の言葉が終わる前に、じゃり、と砂を踏む音ともにその姿が少しずつ明らかになる。 その姿を何秒か見据えた後、は軽く首を鳴らしてに告げた。 「厄介な奴が出てきたな」 「は」 「神異経においての名は饕餮。山海経では抱…なんとかという名前だったが饕餮の方が有名だな、唐では四凶と称される最悪な妖怪のうちの一匹だ」 饕餮。 身は牛の如く、その面は人、目は脇の下にあり、これは人を食らう。 「ちなみに強きものに媚び諂い、弱きものを陵辱し、怠惰で強欲、残忍な妖怪としても有名だな。こいつは山海経を読まずとも知っていた」 「非常に良心的な説明、ありがとうございます」 妖怪を前にして、暢気に知識を披露するの前で、饕餮の体から凄まじい妖気が迸った。 物理的な圧力を伴ってを吹き飛ばすかに見えたが、の周囲だけ、まるで何か衝立でもあるかのように風すらもそよがない。 「ほう。威嚇にしてはなかなかのものだ。これで『主』でないならばお先真っ暗、末恐ろしいな」 あくまでも緊張した素振りはなく、は符も出さずにただ肩幅に足を開いた。 「舐めてもらっては困る」 辺りに満ちている饕餮の妖気を一掃するように、の霊力が爆発する。 その波動をもろに受けたが少しよろめきながら何とか態勢を立て直す。 饕餮は僅かに前足を引いただけで、動じた様子はなかった。 純粋な霊力と妖気の力比べならば拮抗している両者を見て、の背筋が粟立つ。 これで人というのだから我が主も相当のものだ、と口には出さないことを思ってみたりする。 『オマエ、ウマソウダナ』 人面の口が横に裂けて、虎の牙が剥き出しになる。 嫌な臭いのする唾液が地面へと滴った。 それには眉をしかめて、気を張りながら蛮蛮の気配を探る。 しかし目の前の妖気が巨大過ぎて、上手く掴むことは出来なかった。 ならばまた違うかもしれない、と思って見上げて見たら、横に首を振られた。 倒して先に進むか。 それともどちらか一人がこの場を離れるか。 雑鬼から情報を仕入れて移動しているであろう昌浩も気になる。 蛮蛮はまず間違いなく『主』のもとに逃げ延びるだろうし、そこに向かうであろう昌浩達は相手の戦力をほとんど把握出来ていないのだ。 今となって分散すべきではなかったか、と思う。 蛮蛮さえ仕留めれば騰蛇の気を追って合流するつもりであったのに。 どうやらそう簡単には事は運ばないらしい。 こんな邸の多いところでは、周囲を気にするたちの方が圧倒的に不利だ。 せめて七条以下には下りたい。 「、とりあえず」 逃げるぞ、と言いかけただったが、本能で何かを感じ取ったのか、弾かれるように後ろにさがった。 飛びかかった饕餮はを掠め、勢い余って後方の塀を突き破る。 これを連れてでは昌浩と合流は出来ない。 仕方なしにには饕餮と対峙する。 崩れた塀の木材を体から振り落としながら、饕餮は澱んだ眼でを捉えた。 『ウマソウダ、カミノナガイ、オンナ』 「「……………」」 何秒かの沈黙の後に、そう言えば、ととは顔を見合わせる。 黒髪の長い、若い女は獲物として好まれるという。 それに加えて霊力も高いのだから、『安倍冬華』は理想的な獲物だろう。 彰子と昌浩が狙われている理由は分かってはいたが、それが自分にも当てはまるということは失念していた。 「…………………食あたりを起こすぞ」 「自分で言ってどうするんです」 の突っ込みにはムスッとして首の飾りを長刀に変える。 「、変化」 小声で命じた意図を汲み取って、の姿が闇色の巨犬になる。 はそれを横目で確認すると、長刀をひゅん、ひゅん、と二三度振り回して、饕餮の鼻先へと向けた。 「来い」 その挑発に乗って饕餮があぎとを開いて飛びかかる。 そのあまりの速さに目を見張ったを傷つけたかに思えたその一瞬、が衣の襟をくわえて跳んで距離を取る。 「………母獅子と子獅子の図」 『馬鹿なこと言わないでください』 すぐに首を巡らして背中の上に放り投げられる。 『七条まで下ります』 軽やかに走り出したの背に、は慌ててしがみつく。 『ニガサヌ!』 後ろを見れば、饕餮が一直線に向かって来ている。 待ち伏せするとか、仲間を呼ぶとかそういうのには頭が回らないらしい。 饕餮の思考はを食らうということにのみ集中していた。 完全には振り切らない程度、目で見て追ってきてるのがわかる距離を保ってをかける。 「あるのは瞬発力だけか」 進行方向とは逆の方向を向いてしがみついているは、抜かりなく饕餮を観察・分析していた。 牛か山羊の体をしているが、その足には人と同じ爪がある。 人間に似た形状の指がついている足では、完全獣のには追いつけない様子。 「、少し飛ばせ」 指示通りにが饕餮を引き離す。 両者の距離が開いたところに、が複数のくないを投げ落としていく。 絶妙な具合で地面に刺さったそれは、後から来る饕餮の鼻先で結界を展開し、饕餮の体を絡めとった。 『ヌ!?』 その隙にを止めて滑り下りたは印を結んで真言を唱える。 「オン、アサンモウギネ、ウンハッタ」 空中に何事かを書き、それを印で斬る。 「オン、シャウキヤレイ、マカ、サンバエン、ハンダハンダソワカ」 突然、饕餮を絡めとっていた結界が発火した。 「智得猛利の火生。騰蛇には到底及ばないが」 「私、火性とは相性が悪いのですが」 「まあ、許せ」 騰蛇の火が通じない輩にこれほどの火で通じるわけがない。 実際、火だるまになりながらも苦鳴の一つもあげやしない。 これは牽制、いや実力の程を見るためのもの。 案の定、蛮蛮と同じく雄叫びと共に呆気なく結界は炎もろとも消し飛ばされる。 あくまでを食うことしか頭にないようで、には目もくれず一直線に向かってくる。 「オンハンドマダラ、アボキャジャヤニ、ソロソロソワカ!」 昌浩が蛮蛮を弾き飛ばしたようにはいかず、不可視の壁を隔てて力押しして来る。 そこら辺も蛮蛮との格の差を見せつけている。 汗を滲ませるの前で、饕餮の首が上に仰け反った。 不自然な位置についた目がの頭上にまで持ち上がる。 前足が地面から離れて宙を掻いて、そうしたら一気に通りの向こうにまでその体が空を飛んだ。 呆気にとられたの横にが涼しい顔をして並ぶ。 「……………もしかして首根っこ掴んでぶん投げたのか?素手で?」 「はい。こうみえても人間ではありませんから」 いや、わかってるけど。 騰蛇のように、如何にも人外で半裸でどことなく雄々しい感じがあるわけでもなく、人との相違と言えば高すぎる背と山梔子の実の色をした瞳くらいのでは違和感が有りすぎる。 しかも狩衣に烏帽子姿では、どうにも人間らしさが拭えない。 「強ぇ………」 なんかに任せて全てが解決しそうな気がしてきた。 土煙の中、離れた所で再び立ち上がるもの。 心なしか、その姿は先ほどより大きく、禍々しく見える。 纏う妖気がそう錯覚させるのだ。 「キレたか」 ぽつりと呟いたのが聞こえたかのように、一気にこちらに向かって来た。 今回は距離があるのでは十分対応出来る。 「ナウマクサラバタタ、ギャテイビヤク、サラバボッケイビヤク、サラバタタラタ、センダマカロシャダ、ケン、ギャキギャキ、サラバビギナン、ウンタラタ、カンマン」 不動明王の火界呪。 流石の饕餮もその力に屈したように膝を折る。 「臨める兵、闘う者、皆陣列れて前に――――」 とどめ、と最後の印を結んだときに、思わず全身を竦ませるほどの妖気がを刺激した。 「な…………っ!?」 一つや二つではない。 この国に古くから住まう妖を遥かに凌ぐ妖が数十はいる。 目の前の饕餮の妖気を一瞬感じ取れなくなってしまうほどだった。 今までひた隠しにしていたそれが突如露わになったのは。 昌浩に塒を見つけられたから。 集中が切れ、途中だった術が霧散し、明王の火界呪すら破られてしまう。 「冬華様、前を!」 当然のように飛びかかってきた饕餮の、その前に立ち塞がったの体が一回高く跳ね上がって、地面に落ちる。 虎の牙がの片腕を肩から引き千切り、咀嚼している。 「!」 「ご心配なく。元は枝です」 すぐに立ち上がったの言葉通り、饕餮の牙に加えられた腕はただの木片となり、の腕は何事もなかったかのように衣服に包まれてそこにある。 ほっと息をついたは道理、と納得する。 このを形成するのに、二つの力を使っている。 まず一つ目は、樹に宿るべき樹精を引き離すために用意した器。 それを元の樹の枝を軸に紙などの式と同様、の霊力をもって変化させている。 二つ目は、その器を貴船山の本体とリンクさせること。 そうすることで、器でありながら、樹に宿っていると同じ霊力を用いることが出来るようになる。 これは本人の霊力と、の術によってなされている。 つまり、がそのリンクを切らない限り、器が傷ついても樹が傷ついていないのだからいくらでも修復可能というわけだ。 すなわち、器であるをいくら切り刻んでも殺すことはできない。 唯一を『殺す』ことが出来るとしたら、特殊な呪法で隠してある軸を、器から抜き出すことである。 そうすればリンクを受け入れるための器が消滅し、は式としての姿を保てなくなり貴船の樹へと還る。 万が一そうなっても、貴船に赴き、もう一度枝を手に入れたならば何度でもという存在は修復可能。 ここで動いているは、貴船の樹の端末に過ぎないのだ。 は唐橘の枝を吐き捨てた饕餮と、今もなお意識の一部を圧迫する強大な妖気の方角に視線をやり、一つ息をついた。 「」 「はい」 「先に行け」 「嫌です」 即答で返された応えに、は鼻の頭にしわを寄せる。 昌浩と騰蛇の力を信じないわけではない。 しかしあまりにも荷が勝ちすぎている。 予想通り、否定が返ってきたのに舌打ちして、身を起こした饕餮に背を向ける。 「何を………!?」 スッとを手で押しとどめて、自分よりはるか高い位置にある瞳を見据えた。 思わず、といった様子での体が震えた。 「論じる気はない。行け」 「しかし」 「俺の言葉が聞こえなかったか。俺は行けと、言った」 酸欠の鯉のように口を何度か閉じ開きしたは、ありありと不満を浮かべた表情のまま、獣に変化する。 遠ざかっていく姿に視線をやりながら、は不意に左足を軸に右足を振り上げる。 鋭い回し蹴りが饕餮の鼻頭を強かにうつ。 「別に俺は死ぬつもりはないからな、すぐに追うさ」 小さく口の中で呟いて、は神より下された長刀を、手の中で一度回して饕餮の横っ腹を薙ぎ払う。 飛び退った饕餮と同時にも三歩ほど後退し、間合いを取る。 饕餮の跳躍力は先ほど見たため、けっして飛びかかられはしない距離を。 計算して戦力を分散しただけだ。 昌浩と騰蛇で粘れる時間と、自分とで饕餮を倒して駆けつける時間。 それを計算したら、先にだけでも行かせた方が、勝機がある。 自分たちが饕餮を倒せても、その時に昌浩たちがやられていたのでは意味がない。 現状況において、もっとも両者が勝つ、或いは凌ぎきるのに確率の高い答えはが一人で饕餮を相手にすることだった。 はどう思ってるか知らないが、まだ自分を犠牲にして終りにするつもりはない。 「もっとも、そう簡単にはいかないか」 今までは圧倒的な霊力を持って相手を縛りつけ、抵抗もさせぬまま調伏するのが主だった。 獣の体躯の饕餮に、人間の体力では勝ちえぬだろうし、そう簡単に拘束させてももらえなさそうだ。 のように近距離戦は無謀。 「八剣や、波奈の刃のこの剣、向かう悪魔を薙ぎ祓うなり。天地玄妙行神変通力勝!」 かといって遠く離れては術を当てることが困難。 躱された術はその妖気の一部を霧散させただけで消失する。 霊力と妖気のぶつかり合いでの拮抗を見て、勝率は五分だとは思ったが、いざその手段となると難しい。 狩衣の懐に手を差し込んで、用意してきた呪符の量を確認する。 知性が低いというか、あるいは欲が先だって理性的ではないと言うべきか。 饕餮はそれほど狡猾な妖怪ではないようだ。 それならば。 さっと抜き出したのは三枚のヒトガタ。 もっとも簡単な式の呪法。 「オン!」 すでに記してある術が発動し、ヒトガタはその形を変える。 三人の、『安倍冬華』に。 四人になった敵にたじろぐこともなく、饕餮はいちばん近い一人に頭から被りつく。 ひらり、と地面に落ちたヒトガタを踏みにじり、次の式へ、次の式へと牙を向けていく。 自分の姿をした式達が喰い破られているのを見ながら、は立ち位置を変える。 ひらり、ひらりと地面に落ちた三枚のヒトガタの落ちている位置は予定通り。 最後の一人、と飛びかかってきた饕餮に、はかわす素振りすらない。 それどころか、スッと目を閉じて印を組んだ。 「匣!」 ばしん、と大きな音がして、の目の前で壁が饕餮を阻む。 はなから式の戦闘力など期待してはいない。 自分の式を放ったのはあくまで座標を形成するため。 が手をパンと叩けば、破れ、用をなさなくなったはずのヒトガタが再び冬華の姿へと変わる。 結界は四方を囲んで作るのが最も良い。 そしてその四方にそれぞれ霊媒とも言える何かを置くのが最適。 この京の都が池や山などに囲まれているのと同様、も饕餮を囲んだのだ。 複製の自分で。 いわば一点から向けられる霊力を四つに分散したことで、結界を非常に張りやすくなる。 そして霊力の総量は変わらない。 そしてもう一つ。 媒体を置いての結界ならば、術を重ねて使うために集中しても身の危険がない。 「オンアビラウンキャン、シャラクタン!」 抜き出した呪府は退魔調伏のためのもの。 迫りくる異邦の妖異に備え、精神を研ぎ澄まし、清められた空間と貴船の神域の中にある池の水で摺った墨を用い、伽羅を焚きしめた紙に書いたもの。 「ナウマクサンマンダバザラダン、センダマカロシャダソハタヤウン、タラタカン、マン!万魔、拱服――――――!」 織りなした結界ごと吹き飛ばす勢いで、の術が饕餮に命中した。 |
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