拾壱 翌朝、内線電話で当主から呼び出しを受けた。 勿論当主自ら電話を賭けてきたわけではない。 母屋に来るようにと弟子の一人を通して告げられただけだ。 仮にも学生であるに対し、平日の本来登校すべき時間に呼び出すなど親としてどうかと思うが、実際この家に義務教育などあってなきが如しなため今更何も思わない。 学生服の上着を脱いだ服装で、サンダルをつっかけ、離れの戸口からほど近い、庭に面した縁側に上がる。 母屋に足を踏み入れたのはもう何年ぶりのことだろうか、と思いつつも当主の部屋まで迷うことなく辿りつけた。 障子の前に膝をついて、中に向かって声をかける。 「です」 「入れ」 短く平坦な返答が帰ってきたことに、何の感情も抱かず障子をあける。 濃紺の着物姿の男が座卓を前に腰をおろしていた。 怜悧なこの顔を正視するのは久方ぶりと言うわけでもないが、この部屋に入るのは母屋から離れへ移されて以来、初めてのことだった。 「何の用です」 当主の真向かいに正座したは、まっすぐにその顔を見据えた。 以前、認められたいと願っていたころは、この人の顔色ばかり見ていながら、この目を直視することは出来なかった。 しかしそんなむなしい願いはとうの昔に忘れ去っている。 「お前の学校にいた怨霊はが完全に滅したと告げておこう」 「知ってます」 口を開いた当主に向かって、は間髪いれずに答えた。 それに軽く眉を寄せたあと、瞑目して当主は言葉を続ける。 「何故報告をしなかった」 「怨霊がいる、狙われていると言ってこの家の術者が動きますか。俺のために?」 としてはつとめて私情を持ちこまず、客観的に当主と会話できるように努力している。 しかし言葉の端々に鋭い棘を含んでいることは自分でも分かっていて押さえきれなかった。 「お前のためではない。橘家の血をひくものが通っている学校においては霊に悩まされることがあってはならない。もちろんそこで一族のものが無様に死ぬこともあってはならない」 一般の中に橘の名の意味を知るものがどれほどいるかは知らないが、この街の公的機関は全て知っていると考えていいだろう。 それらに対して恥となるな、ということだ。 「死にたければ死ね。恥を晒さぬ死に方ならば私は一切関知しない」 「いいんですか」 唇が皮肉気に吊りあがったのが自分でもわかった。 母屋から離されているとはいえ、人の噂は聞こえてくる。 だからこそ昨日槙原の姉に告げることが出来たのだ。 「構わん。自ら死を選ぶほどの愚か者ならば種馬としてもいらぬ」 はその抑揚のない声を聞きながら、当主の変化に気がついていた。 もっと幼少のころ、が無能だとはっきり分かった頃。 当主の声には明らかな侮蔑、失望などが滲み、皮肉交じりに詰ることも少なくなかった。 その眼差しも同様にして冷淡で時には憎悪すら見えた。 しかしここ最近―――といっても会う頻度は極端に低いが―――少なくともが10歳を超え術者としての仕事をするようになってからは、そう言ったものが見られない。 視線にも口調にも感情は窺えなくなった。 はこれを存在の否定として受け止めている。 もはや自分と言う存在に感情を抱くことすら煩わしくなったのだと。 そしてをもはや一族のものとして扱っていない態度を頻繁にとるようになった。 『死にたければ死ね』 現状を考えればこの言葉は当主として発せられるべき言葉ではない。 しかし、まるでお前とこの家は無関係だとでも言うようにこういった言葉があっさりと投げられる。 このような言葉の所為で、当主はもはやに何の価値も見出していないと解釈した弟子たちによる嫌がらせが増えているのだが、諦めることに慣れきっているにとって、そういったものに何の感情も示さず受け入れるのは容易かった。 は死にたいわけではない。 ただいつ死んでも恐らく自分は未練を残さないだろうと確信している。 だが、昨日のように怨霊に殺されるのはごめんだし、漂白剤入りの食事を与えられるのもごめんだ。 だからこそ、はそれらすべてを自らの意思で回避している。 絶望をしたのが遠い昔だけに、今では自殺に踏み切るほどの動機も勢いもない。 もし自分が自殺するとしたら、縁側から放り出されたあの日か、狂人の母に見えたその日だったのだろう。 しかし、そのときはまだ幼すぎた。 「…………用件はそれだけではないでしょう」 話を切り替えたの前に、翡翠の数珠が置かれる。 一見ただの数珠であるが、霊力はないもののそういったものを感じ取れるはこれが呪物であると知る。 「………やめるように、言ってください」 「聞かぬ」 が身につけている護身用の呪物は全て、狂人である母親が作ったものだ。 という存在を認識できなくなり、紛い物の人形を抱いているくせに、昔からの習慣をやめることはしないらしい。 弟子たちの憂さ晴らしとして失せ物が多いのために母は失せ物を見つけ出す石をくれた。 邸の中の式に怯えるのために母は霊力を込めた精霊石をくれた。 が生まれるまで、たった3年間しか母の傍にはいられなかった。 しかし、母が精神を病むまでの更に2年間、母はのために呪具を作り続けたという。 そして精神を病んでまもなく9年、今離れにてほぼ幽閉されている状態でも、それを続けている。 溜まっていくそれは当主の手を介してに渡される。 のためのものは一つもなく、すべてに。 これらがなければ命を落としていたことも少なくはない。 だがこれを受け取るとどうしても辛いのだ。 何に対しての謝罪か、ごめんね、ごめんね、と繰り返し、呪具を作る姿。 それが今もあり、『』のために作られているというのに母の中にの縋る場所は何処にもない。 初めて受け取った時、はこの意図を理解できなかった。 受け取ったそれを呪殺のためのものかと思いもしたくらいだ。 殺したくないのであれば、当主自ら守護を与えればいいのであろうに、何故わざわざ母親が作ったものを渡してくるのか。 この当主の真意が一体と何処にあるのか。 感情もなく淡々と義務をこなしているような姿がなおも矛盾を生む。 当主はただ、この呪具はお前の手によってしか効力を発しない、と述べるのみ。 そして今では理解することを諦めてしまっている。 考えてもどうせ分からないうえに納得できない思考回路なのだと思う。 多くを語らない当主。 諦めが先に立つ自分。 遥か先になって思えば、自分にも咎があったと気付くことを、今のはまだ知らない。 |
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