序章







早いものです。
あれから月日の経つのがとみに早く感じられます。

ああ、失礼。
『あれから』などと曖昧な物言いでは皆さんにわかるはずもありませんね。

お話しましょう。
私の生きた16年の歳月を。

しかし、ただの語りというのも味気ない。
おや、良いところに琵琶が。
琵琶法師とは申しませんが、弾き語りとさせて頂きましょう。

実は私、琵琶には少々自信がありましてね。

えっ、その若さにしては珍しい?
年など関係ありませんよ。

まあ、そう焦らずに。
それについても語りますから。

それではどうぞお静かに。

そうそう…………。

では、ご静聴あれ…………。




私は特に豊かでもなく貧しくもない家庭の次男として生を受けました。
兄とは三つ離れており、喧嘩という喧嘩もせず、両親にはむしろ甘やかされていた部類に入るでしょう。
そんなごく普通の環境に生まれたこの私が唯一人と違っていたことは、全盲の障害を持って生まれたということです。

生まれながらにして視覚を持ち得なかった私が普通の生活をするのは非常に難しかったのです。
父母は高名な医師を訪ねまわり、果ては海外の病院に入院しましたが、手術の前段階、つまり原因となるものすら明らかには出来ず、皆が匙を投げるしかない結果となりました。

病院に通う資金も馬鹿になりません。
疲れ切っていた私は一生このままでいいと親に言い、二人は悲しそうな顔をして黙然と俯きました。


運良くも、その他の五感は人より優れておりましたので、それほど不都合はありません。
ああ、先ほど『普通の生活をするのは難しかった』と申しましたね。

それは私自身の問題ではなく、周りの問題なのですよ。

私は経験と天性のもので、反響音の高低、時間の間隔で対象の質感や距離、ものの有無を察知することができます。
空っぽの箱と中身のある箱では叩いた音が違うでしょう?
それと同じことですが、もっと精密に聞き分けるのです。

人の顔も反響音と許しを得て触らせていただければ輪郭をつかめますし、声や足音を間違えたことはありません。
音というのは空気の振動によるものなのですから、逆もまたしかりと言うのが私の持論なのですが、なかなか理解してはいただけないようです。
触覚も優れているようで、新聞など印字されたものなら多少時間はかかりますが、読み解くことは出来ます。
つるつるしたものは不可能ですが。

いけない、話が随分逸れましたね。

このように、人とコミュニケーションをとるのには全くと言っていいほど問題がないのです。

しかしそれを理解してくれない周囲の人々。
確かに板書も、教科書も読めません。
信号機の変化は走り出す車のエンジン音で察するので見ていて危なっかしいかも知れません。

しかしそこで僅かな理解を示し、援助してくだされば私は普通に生活が出来るのです。
なのに全盲を『何も出来ない障害者』として括る人もいるのです。
迷惑そうな言葉、親切丁寧な言葉の裏に隠された遮断の言葉。
それがどれだけ私たちを傷つけるのかわかっておられない。

私は目が見えません。
ですが耳は聞こえます。
言葉も話せます。
どうか私たちの声を無視しないで下さい。
耳を傾けて下さい。




さて話は変わりまして、兄のことです。
弟の私が手の放せない存在であっただけに、兄は幼少期不遇を強いられたことでしょう。
3歳というまだ幼い時期に私が生まれ、兄としての立場と忍耐を強要されたはずです。

しかし、兄は私に対し誰よりも親切に振る舞いました。
赤子の頃ですら、母よりも兄の方が傍にいたという記憶があるほどです。

特別支援学校に通いたくないと言った私に賛成し、学校では自分が面倒を見るからと両親を説得して普通の小学校の特別学級に入れてくれました。
心ない言葉を言う人には果敢に立ち向かい、私を守ってくれました。

私はそれに甘えてしまい、それを今では悔やんでいます。
何故自分で親を説得しなかったのか。
何故自分で言い返さなかったのか。

私は『何も出来ない障害者』と見ないで下さいといいながら、本当に『何もしなかった』のです。

しかし遅くはなかった筈でした。
兄が中学にあがった時に、私はそれに気づくことができ、兄離れを始めました。
私の為に時間を割く兄を見るたび、私は心が痛みました。

兄を私という足枷から解き放つ為には、あれほど嫌がった特別支援学校に行くことも辞さない考えでした。

兄の力添えなしに普通の学校に行けるわけもなく、一年立たずに私は特別支援学校に転校しました。

周りがハンデを持った人達ばかり、というのもあり、私は安堵で肩の荷がおり、思ったよりも早く馴染むことが出来ました。


その学校の紹介で視覚障害のある人達で形成された雅楽の交流会にも参加し、琵琶を習い始め、一年後には師の目に留まり格式ある流派に弟子入りして、中学に上がる頃には琵琶奏者としてコンクールやテレビに出るようになりました。
私は盲目の少年琵琶奏者として一躍有名になり、その熱気は覚めることなく続きました。
こう言うと嫌みに聞こえるかも知れませんが、私は真実それらに興味はなかったのです。
ただ琵琶だけが私の頭にありました。


戸惑ったのは兄のほうでした。


急速に一人立ちしていく私に、兄は不満すら抱いているようでした。

兄は何度頼んでも、私の演奏を聞きに来てはくれませんでした。

そして兄は全寮制の高校に行き、兄と顔をあわす機会はめっきり減りました。

私がもう中学三年生の時には、義務教育課程修了と同時に正式にプロの雅楽団に入ることが決定していました。

ある公演から帰宅した日のことです。
兄は長期休暇で家に帰ってきておりました。

兄の気配をソファに感じながら、リビングを抜けようとする私を兄が引き留めました。

私は唐琵琶の包みを横に立てかけ、兄が口を開くのを待ちました。

「琵琶やめろよ」
「………………何で。絶対ヤダ」
「じゃあコンクールとかそういうのやめろ」
「何で兄さんに命令されなきゃいけないの。誰が何と言っても絶対やめない」

私から琵琶を奪うというのは私の命を裂くに等しく、コンクールに出続けて名を知らせることだけが、琵琶を続けながら社会に適応していく唯一の道だったのです。

兄の言っていることは理不尽な私への嫌がらせのように聞こえました。

「…………お前さ、テレビや雑誌で褒めそやされていい気になってんじゃねーの。ただの琵琶奏者ならいくらでもいるだろ。何でお前が持て囃されると思う?」
「僕の琵琶が」
「知らねーよ、そんなの。だいたい現代人が琵琶の良し悪しなんて分かるかよ。お前がガキで目が見えねーから珍しがって取り上げてるだけだよ」
「興味ないよ、そんな思惑」

私はまるで兄が豹変したように感じていました。
私の記憶の中の兄はまだあの優しく甘い兄なのです。

「俺さ、お前がハンデを売り物にしてるようにしか思えねーよ。マスコミのいくつかも『ハンデに同情した審査員』って書いてたぜ?お前が一番嫌だった『特別』扱いされてるとよ。売れなくなったらお前も飽きるんだろ」

私は私の琵琶を否定されたように感じて激昂しました。
琵琶の包みを手にとると、兄のいる方向に向かって声の限りに怒鳴りました。

そんな酷評はコンクールに出場した人達が必ず言うもので、いつも聞き流していたのに兄にだけは言われたくなかったようなのです。
いつも一番に私を理解してくれた兄にだけは。

「何にも熱中したことがないくせに、人のことに口を出すな!」
「何だと、俺はお前の世話を」
「僕のせいにするな!高校いってからは何だって出来たろ!でも兄さんは何にもやってないじゃんか!成績も中の中!運動そこそこで勝手に満足して趣味も特技もないね!?そんな楽な自分を自分が選んだんだろ!!」

体がガクンと引きずられて、頬骨に衝撃が走ったのは今でも覚えています。

平手打ちなんて生易しいものではなく、拳の、口の中を切るくらいの一撃でした。

「何なんだよ!お前は!俺はお前のためにそうなったんだよ!!」
「頼んでもないよ!一々恩着せがましいな!」

兄がもう一度手を振り上げたので、私は琵琶を遠ざけながら、精一杯抵抗しました。
今思えばあれが初めての喧嘩でした。

「何やってるの!」

金切り声が聞こえて、母が帰ってきたことを知りました。
リビングの戸が開く音すら、興奮していた私たちには聞こえなかったようです。

母は一方的に兄を叱りつけます。
兄は一言も発せず、無言で出て行きました。

「大丈夫?手は怪我してない?琵琶は弾ける?」

私も無言で爪の中にこびりついた兄の頬肉の欠片を掻き出しました。


こうして兄が家にいる間、気まずい空気が流れていました。
兄は勿論私と口をききませんでしたし、私も少々立腹しておりましたから、仲直りなど出来ません。

そして兄は高校を卒業して大学に入り、私は公演活動に忙しくなりました。


ある日、母が転んで脚の骨を折りました。
翌日は私の福岡で開かれる公演の日だったので空港に行かなければなりません。

「ねえ、あんた免許とったんだから空港まで送ってあげてよ。空港にいけは楽団の人達もいるから」

マネージャーのように私のスケジュールや移動手段の確保をしていた母が兄に言います。
これは母の病室での会話です。

「はあ?何で俺が」
「いいよ、駅まで歩いて行ける。駅員さんは親切だからね」

大丈夫。

そう言う私に兄は舌打ちしました。



私は使い慣れた白い杖とトランクと琵琶をもって早めに家を出ました。
兄は私よりも早く家を出ていたので、どこか遊びにいったのでしょう。

家から一キロも離れていない駅ですし、母とともにいつも歩いていたから勝手知ったる道です。
更に『とおりゃんせ』が流れる信号なので何の心配もありません。


どうして私がこんな所で命を落とすと予測することが出来るでしょうか。