序章







私がトランクを引いて歩いていると、けたたましいとも言えるような声で話す集団が前から歩いて来ました。

道一杯に広がったその集団を抜けようとした時、運悪く、歩道に違法駐車している自転車にぶつかり、私は転びました。

「あ、大丈夫〜?」

音からすると6名、うち二人は男性のようです。
男性がトランクを拾い上げてくれたので、私は礼を言って受け取りました。

「あれ、君さ、もしかして一色慧?」
「…………?そうですけど………」
「マジで!?」

きゃーきゃーと黄色い声が上がって人が集まって来ます。

「え、じゃあ一色クンの弟?」
「やだ、似てなーい!」
「なに、狼系の弟は子羊系!?」
「ああ、こいつあれだろ、盲目の琵琶ニスト」
「何だよ、琵琶ニストって」
「ピアニストっぽく。なかったっけそんな映画」
「バカ、そりゃ戦場だよ」
「あ、写メとるから動かないでね」
「悲劇の天才奏者なんでしょ」
「生まれつきなら悲劇じゃなくね?」
「でもカワイソーじゃん」
「目見えなくて弾けるなんて凄いね」
「聞いたことあんのかよ」
「知んない。雑誌で見ただけだもん」
「琵琶っつったらあれだろ、耳なしほういち」
「目なしだろ。むしろ平家物語じゃね」
「馬鹿、一色が聞いたらキレっぞ」

私はこの人達が兄の友人であると知り、すぐさまこの場を離れたいと思いました。

悲劇。
カワイソー。
目なし。

兄は私がこのように表現されることに何を思っていたのでしょうか。

この人達は私の名を知っていますが、健常者に本当の理解を求めるのは難しいのでしょうか。

「ね、どこ行くの?付き添いの人は?」
「すいません、急ぐので」
「え、いいじゃん。もうすぐ君の兄貴も来るから送って貰えば?」
「いいです」

兄の友人に会ってしまい、私の心中はますます複雑でした。
トランクの礼を再度述べ、私は足早に立ち去りました。

今では兄の言った言葉が少しだけ分かりました。
兄は私を守っているつもりだったのでしょうか。

有名になればなるほど私の障害は広く知れ渡り、街で人と会うたびにコンクールで浴びるような視線に晒されると。
私が一番嫌いなハンデ故の『差別』、優遇でも冷遇でも『特例』を受けることになると。
自己満足の同情が私に向けられると。


エンジン音が増え、交差点にさしかかったことが分かった時に私はふと思いました。

帰ったら兄に謝ろうか。
もう随分前の喧嘩だけれど。

でもきっと、あのとき叫んだことは両方の本音だったのでしょう。

兄は私のために趣味を作らなかったと言い、 私はそんな兄に自業自得と言った。


『とおりゃんせ』が流れて、信号が青に変わったことがわかりました。
歌詞のないそのメロディーは自然と歌詞を思い出させるものです。
私は小さく口ずさみながら道を渡りました。




とおりゃんせ

とおりゃんせ

ここはどこの細道じゃ

天神様の細道じゃ

ちょっと通してくだしゃんせ

御用のないもの通しゃせぬ

この子の7つのお祝いに

お札を納めに参ります

行きはよいよい帰りは怖い

怖いながらも

とおりゃんせ

とおりゃんせ





「慧!」

兄の声が私の耳に届きました。
私は思わず足を止め、兄の声のした方に二歩ほど戻りかけました。


その時、ないと思っていた方向からエンジン音です。
『とおりゃんせ』はまだ終わっていません。
一瞬パニックに陥った私は、その場に立ちすくんだまま、琵琶を持たない方の手を兄に向かってのばしました。


転んだ時、立ち上がらせてくれた兄の腕を求めるように。


車はブレーキ音を響かせることなく、私の意識を断ち切りました。



そう、『これから』15年の月日が経っています。

どうやらこの事故は死者3人、重軽傷者8人を出す大惨事のようでした。

その死者のうち一人が。
私です。


私が今どこにいるかって?

強いて言えば世界の裏側でしょうか。
ブラジルじゃありませんよ?

一枚のフィルムで遮られた表と裏。
ここの存在に気がつく者はごく僅かです。


私は意識が戻った時、琵琶を抱えて座り込んでいました。
琵琶には一つの傷もなく、音も狂っていません。
不思議なこともあるものだと思い、取り敢えず私は駅に向かおうとしました。
時間の感覚が曖昧で、あれからどれほどの時間が経っているのか分からなかったのです。


しかし自分が今どちらに向いているのか分からなかったので、とにかく立ち上がって右に歩いてみました。



がつん。



何か障害物に酷くぶつかりました。
ぶつけた膝に痛みは感じません。
右手を障害物につけて、足を進めてみます。

真っ直ぐに短く。
直角に曲がって真っ直ぐに長く。
また直角に曲がって真っ直ぐに短く。
またまた直角に曲がって真っ直ぐに長く。

そしてまた真っ直ぐに短く。

どこが終わりだか分かりません。
しかし90°の角がつづくので長方形であることは間違いありません。
私は長方形の空間に閉じ込められてしまったようなのです。



車の音が聞こえました。
それはとても近くて慌てて逃げようとしましたが、間に合わず最大音になり、遠ざかっていきました。
明らかに耳のそばを通ったのに、私はまたしてもなんともありません。


そして耳に残るあの歌が聞こえたのです。
しかし歌詞はいくらか違うようでした。



とおりゃんせ

とおりゃんせ

ここはどこの細通じゃ

亡霊どもの細道じゃ

ちょっと帰して下しゃんせ

命のないもの帰しゃせぬ

この世の末期の遺音とて

一曲奏でてまいります

行きはよいよい帰りはあらず

あらぬながらも

とおりゃんせ

とおりゃんせ



背筋が震えました。
胸に琵琶をしっかりと抱き込みました。

私はすでに死に、この横断歩道に縛られているのだとわかりました。



それから、時が同じ速さで進むのならば、5471日目。
ちょうど15年です。

何もせずにただいるだけなのに、時間だけは速く流れていくようです。
無意識の内に体内で時間を計っていなければ分からなかったでしょう。


ただ私はここにいて、琵琶をかき鳴らしたりしています。
時よりあなたのように『視えるひと』に語り聞かせることはありますが。

ここから動けず、自身の心残りも分からぬまま、車の音と人の声、足音に耳を澄まし、『とおりゃんせ』を聞いています。

あれから『とおりゃんせ』はいつもおかしな唄が流れるのでした。




父や母はこの横断歩道に訪れ、泣き伏していましたが、兄の声は聞いていません。
それがとても悲しかったのでした。

だから私はここから離れられないのでしょうか。

最後に兄に、謝りたかったから?



私の話はここまで。
こんなところに座り込んでいる私を見て話しかけてくださってありがとうございました。

なかなか懐かしい心地に戻ることができましたよ。


ああ、信号が変わりましたね。

お気をつけて。
ここの信号は帰ろうとする人にいささか不親切なようです。

こちらの道に入りたくなければ一息に渡ってしまいなさい。

そうすれば無事、向こう側につきますよ。

では本当に………………………。


お気をつけて。