俺が何をしたかったのか、今でもわからない。 火を付けたばかりの煙草を灰皿で押しつぶし、俺は席をたった。 「おい、一色」 「はい」 「この前頼んだプレゼンの資料は」 「ああ、俺の机の上です。紫のファイル」 慧が死んでから、俺は色々な資格を取った。 使えそうなものから全然必要なさそうなものまで。 履歴書の資格取得欄が足りなくなるくらい。 でもやはり、どれ一つとして熱中出来るものはなかった。 そうして初めて慧の言っていたことを理解した。 俺は慧を通して人を見ていた。 慧を気遣って集まる人の視線の先を自分に向けることで満足していた。 いい子。 偉い子。 流石はお兄ちゃん。 そんな言葉を言って貰いたくて、慧の周りにいつもいた。 自分の力でしっかり歩き始めていたのはあいつだ。 それを邪魔しようとしたのは俺。 本当に『何もしなかった』のも俺。 俺が一番あいつを特別扱いしていた。 慧のことは大切だった。 でも、全てを慧の為にして生きてはいけなかったんだ。 だから慧が一人でやるようになった時、琵琶に出会った時。 俺の方を見てくれる人はいなくなっちまったんだ。 それから慧が嫌いになった。 母さんも父さんも慧ばかり見て、慧も琵琶ばかりで、俺は家を出た。 慧を知らない奴らと連んで満足していたのに、慧はどんどん有名になっていった。 それをまたしても『盲目の一色慧の兄』として扱われ始めて、非常に不快だった。 それに、やっぱり慧が心配だった。 クラスの奴らが慧の話をする時、みんながみんな同情しているわけではなかった。 『ただの琵琶奏者ならこんなに有名にならない』 『琵琶普及のマスコットキャラ』 『審査員が甘い』 『ハンデがあるってズルい』 慧はこんな事を言われるのだろうか。 あの、俺の後ろで悪口に身を竦ませていた慧が。 そう考えていると俺はその後の休暇で慧と久しぶりに話をした。 俺はクラスの奴らが言っていたことをそのまま言ってしまった。 慧は琵琶だけを生き甲斐のように、俺に反抗した。 慧の方が俺のことをよく知っていた。 的確に痛いところをつかれた俺は思わず慧を殴った。 慧は俺の頬に爪を立てた。 帰宅した母がまた慧だけを心配したのを見て、俺もハンデがあるっていいよな、と思った。 結局、気まずさはまして、喧嘩の状況が長引いた。 母に送りを頼まれて、行けば良かったと何度思っただろう。 大丈夫と言いながら、絶対不安はあったろうに。 駅前のショップで買い物をして、後から来たクラスの奴らと合流して遊ぶはずだった。 そいつらに弟に会ったって言われて、慌てて探しにいった。 悪い奴らじゃないんだけど、どうも口が軽いところがあるから、気にすること言われたんじゃないかと思って。 慧はもう長い横断歩道の向こう側につきかけていて呼びかけに振り向いた。 『行きはよいよい』 『帰りは怖い』 赤信号なのに、止まることなく突っ切ってきたトラックがあった。 慧は逃げる方向を見失ったように立ち止まったまま。 『怖いながらも』 俺に手を伸ばした。 俺も手を伸ばした。 『とおりゃんせ』 その伸ばした手が互いに届くことはなく。 ぶつかった衝撃で横っ飛びにとんでった。 勿論体ごと。 俺は伸ばした腕を呆然と落とした。 『とおりゃんせ』 業務上過失致死。 まだ16の、慧の命を奪った奴はたったそれだけの罪だった。 壊れた琵琶と白い杖。 動かない、慧。 俺はその場で咆哮んだ。 そして15年が過ぎて、俺はもう34歳。 新人というわけでもなし、古株と言うわけでもなし。 今はあるキッチン用具の営業マンとして働いている。 基本的に手が早いほうなので、企画書とかはよくまかされる。 ちょっと無愛想だから営業成績はそれほどだが。 「高橋、これ終わったら飲みに行かないか」 「いいっすね、一色さんの奢りで」 「このやろ」 入社三年目の高橋は企画に穴が多いが、話術で営業成績はいい。 だから去年からほぼ同じ仕事を担当している。 まあ、自分で言うほど強くない高橋なら俺の財布も大丈夫だろう、と考えて馴染みの居酒屋に連れて行った。 「おい、そんなに呑んで平気か?」 「平気っすよ〜。ヤバいのは一色さんの財布〜」 ぎゃはぎゃは笑う高橋が何に笑ってるのかわからない。 「今日は呑まなきゃやってらんない日なんすよ」 「はぁ。どーせ彼女にフラレたかなんかだろ」 「違うっす。だいたい俺モテモテだから〜」 「はいはい」 酔っ払いに理屈は通じない。 「今日、昔大ファンだったヤツの命日なんすよ」 それを聞いて俺は思わず肩が震えた。 「へ、へぇ、アーティストか何かか」 「ん〜、おれがまだ小学生の頃ですけど、琵琶?そうそれをめっちゃ上手くひくやついたんですよ」 「…………名前は」 「あの頃は読めなかったんですけどね、『いっしき』、だそーですよ。昔は『いっしょく』って読んでました。一色さんの名前で読み方覚えました………ヒック」 半ば答えを予想していた俺は、特になんのリアクションもおこさず大生を一気に飲み干した。 「おお、良い飲みっぷり」 確かに飲まなきゃやってられない、と俺はホッケと大生を追加注文した。 酩酊状態とは言わないが、ずいぶんと飲み過ぎた。 終電ももうなくなってるだろう。 足元も覚束ない高橋をタクシーに押し込んで、俺は15年間、一度も訪れなかった場所を目指した。 『音がね、色を持ってるんすよ』 『見たことのない色の世界を見せてくれるような、そんな音なんです』 『それを聞いてると自分の世界が色もクソもない味気ないものになるんです』 『琵琶には興味なかったっすけど、あの音だけは好きだったなあ』 こんな時間だ。 花屋もあいてない。 横断歩道脇の電信柱の周りには、色とりどりの花が置かれているのを見て、なんか持って来れば良かった、と思った。 「……………慧」 あの時見た血だまりも何もない。 だが俺には慧がまだそこにいるように感じてならなかった。 「…………ごめんな。お前の話、もっとしっかり聞けばよかった。お前の琵琶も」 聴きたかった。 CDならいくらでもあるだろう。 だがお前が俺のために弾いてくれる演奏を聴きたかった。 黙祷ののち、俺は元来た道に向き直った。 車の通りはほとんど、ない。 『とおりゃんせ とおりゃんせ』 俺は歩き始めて思わず足を止めた。 信号の音楽は大抵メロディーだけだ。 無論、ここもそうだった。 有名な曲だから歌詞が頭に流れて、歌詞付きのような気がいつもしていたけれど。 『ここはどこの細道じゃ』 しかしこれは。 『亡霊どもの細道じゃ』 おかしな歌詞が付いている。 俺は怖くなって変わった信号を一息に渡って帰ってしまおうと思った。 『ちょっと帰して下しゃんせ』 べん、べん。 背筋に氷が滑り落ちたような気がした。 独特な弦の音。 『命のないもの帰しゃせぬ』 ゆっくりと振り返るとそこには。 変わらない慧が道路に座ったまま琵琶を手に微笑んでいた。 『この世の末期の遺音とて』 『一曲奏でてまいります』 慧の爪をつけた指が琵琶をかき鳴らす。 焦点の合わないさまよう眼差しが俺に向けられる。 『行きはよいよい 帰りはあらず』 『あらぬながらも』 『とおりゃんせ』 『とおりゃんせ』 慧の指が最後の弦を爪弾いた。 確かに、思わず息を忘れてしまいそうな。 自分の世界を粉々に砕かれて勝手に作り直されたかのような感覚に陥る。 時間も。 場所も。 景色も。 全て慧の音に変えられていく。 総毛立つような、音色だった。 音が流れている間続いていた硬直を振り解き、慧に駆け寄ろうとした。 たった、数歩の距離。 慧は、顔に驚愕の色を浮かべて、首を激しく横に振った。 突然聞こえたエンジン音。 慧の琵琶に取り込まれすぎて聞こえなかったのか、それとも他の『あるはずのない何か』なのか。 迫り来るものの正体を確認する必要はなかった。 今度こそ。 まったく逆の立場で、今度こそ俺は慧の腕を掴んだ。 その後は目を閉じて、慧を抱きすくめてその瞬間を待った。 待つと言っても僅か数瞬のことだったけれども。 おずおずと回されかけた細い腕がなんだかとても懐かしかった。 最期に、琵琶の弦が遺音を鳴らしたように……………思う。 |
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