最期に聴いた最初で最後の慧の琵琶を俺は一生忘れないだろう。 といっても、一生なんてもう残されていないようだが。 しっかり慧の腕を掴んで離さないまま、俺は虹色の霞の中を流れていく。 慧は気持ちよさそうに表情を緩めながら、眠りについていた。 16の姿のままの慧と、三十路をとっくに越えた俺。 もともと慧は小柄だったけれども、あどけない寝顔が年よりも更に幼く見させる。 「……………15年、俺を待っていたのか…………?」 俺はあそこに事件後一度として行っていない。 初めて行ったその日に慧に会い、そのまま事故死。 俺が死んだのは慧のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。 慧が来るように俺を喚んだのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。 「一人で逝くのが怖かったのか」 たった一人で死に場所に縛られ、俺という道連れが出来るまでは、ずっと。 「もう、大丈夫だ。兄ちゃんと一緒に逝こうな?」 幼い頃、泣きじゃくる慧にしたように、俺はゆっくりとその髪を撫でつけた。 ふっと体がますます軽くなった。 流されるようにして、慧から引き離されてしまう。 慧はそのまま赤みの強い霞の中に姿を消していった。 「慧!」 俺の周りには蒼い霞が漂い、明確な色分けがされた線から遠ざかっていく。 その慧の消えた紅を瞳に焼き付けて、俺は蒼色に包まれた。 周りは一面の青。 その青の中を一際濃い何かが横切る。 蛇のような、しかし鬣をもつそれと目があって、金の瞳がすっと細められたかと思うと体がぐいっと引っ張られた。 「――――龍?」 鱗のある胴に乗せられて、俺が思わず呟いた言葉を残して俺の意識は薄れていった。 龍の背で再び意識を取り戻して、に乗せられた嵐はこのまま地獄行きか、なんて思っていたところいきなりポイッと空中に捨てられた。 先ほどのようにまた漂うのかと思いきや、予想に反して落ちる落ちる。 しかも段々息も苦しくなって首を絞められているようだ。 薄れゆく意識の中で嵐が思ったことは。 (一色嵐は二度死ぬ………?) 「これか」 「小さいな」 「猿みたいだ」 まったく同じの声が上から遠慮なく投げられる。 人に向かって猿だの何だの、と半ば怒りを滲ませながら嵐は目をあけた。 「「「あ、起きた」」」 視界に飛び込んできたのは、まったく同じ顔が三つ。 年の頃はせいぜい十かそこらが目星だろう。 今時のガキは、と年寄りくさいことを思いつつ、睨みつけた。 「うわ、このふてぶてしさ。間違い無く私達の弟だよ」 「楸瑛は可愛かったのに」 「つまらない」 うるせぇよ、と言おうとして漏れたのはあーともうーともつかない変な声。 自分の声にぎょっとして手を動かして慌てた。 「楸瑛より三つ下か」 「私達とは十一離れている」 「それで名前は?」 「何でも、胎の中で散々暴れまわったから嵐だそうだ」 「幼名だろう?」 「勿論」 「藍嵐か、パンダみたいな名前だな。」 「でも合わなくはない」 「確かに、しっくりくる」 (好き勝手言いやがってこの野郎!) 現状は把握できていないが、取りあえず言いたい放題言われているのは分かる。 「よし、楸瑛が首を長くして待っている」 「連れてくか」 「そうしよう」 思いの外丁寧に抱き上げられて………何? …………………………………………。 どうやら俺は生まれ変わりというのを実体験してしまったらしい。 慧もいるんだろうか。 いや、慧もここに生まれるとは限らない。 しかもどうやら色々と洋服もおかしい。 生まれる世界も間違えたようだ。 人間、吃驚が続くと意外と落ち着くもんだなあ、と一つため息をついて、とりあえず現状を把握しようと決めた嵐であった。 琵琶の音に誘われて、靄の中を漂った気がします。 僅かに肌に感じる湿った感触と吸い込んだ空気の匂いは確かにそれを告げていました。 しっかり私を掴んでいたはずの兄の手はいつだかその感触を感じなくなり、私はただ一人、そこにいました。 ただ時間が流れるのを待つのは慣れています。 しかし手元に琵琶がないだけで、とても不安な気持ちになりました。 耳に聞こえる琵琶は、私の音とは似ても似つかず、かなりの弾き手であるものの、冷たさと優しさを滲ませた音色はとても聞いていられません。 この聴いている者の胸を涙で塞ぐような弾き方は、さぞや冷酷で慈愛に満ちた人物が弾いているのでしょう。 力なく垂れた私の腕にするりと滑らかな何かが触れました。 羽毛のような肌触りのそれは、私を包むようにして僅かな風を起こします。 「………………鳥?」 私は琵琶の音色が聴こえる方へ、静かに雛のようにくるまれながら進んでいきました。 暖かい。 慧はその身を包むぬくもりに、意識を浮上させた。 何も見えない。 しかし聴こえる。 暖かい水を振動させて伝わる音に、慧は耳を澄ました。 緩やかな響音。 弦楽器? 二胡? 確かに二胡も良い音だけれど、やっぱり琵琶がいいな、と思いつつ慧は再び意識を途切れさせた。 次に意識が浮かび上がったのは苦痛からだった。 何枚もの布団でぐるぐる巻きに締め付けられているかのように、頭も、胸も全てが痛くて苦しかった。 暖かいぬくもりが急激に奪い去られて、慧はこのまま消えてしまうのかも、と遠くなる意識の隅で考えた。 まず最初に目覚めたのは聴覚。 近くに押し殺した呼吸音。 次に触覚が不快な接触を受けていることを感じ取った。 慧は何故だか重い腕を上げて、ぺいっ、とその接触を押し返した。 「あ、あ、義姉上!」 「そんな恐々と触っておったらこそばゆうてむずがって当然じゃ」 「ほら、抱えてごらん」 「兄上!」 嗅覚が上品な香の匂いを嗅ぎ取り、肌触りのいい布地に頬が沈む。 まだ確認してないのは、味覚と、視覚。 こうして再び意識を持って存在していることに、疑問は抱かなかった。 輪廻転生。 新たな生を受けたことはとても嬉しかった。 手を放して消えてしまった兄はとても心配だったけれども、兄もどこかで生まれ変わっているのかも、とポジティブな思考でこれからの生に期待を抱いていた。 首が据わるようになったらすぐに琵琶に触れよう。 目が見えるようになっているだろうか。 見えるようになっていたら今度はどんな曲を奏でられるだろう。 触覚ではまったく掴むことの出来ない色。 私の音色はどんな影響を受けるだろう。 まだ見ぬ世界に思いを馳せて、慧はゆっくりと瞼を押し上げた。 突然火が着いたように泣き始めた赤子に、紅黎深は飛び上がった。 パッチリと父親譲りの切れ長の瞳が見開かれて黎深の顔に向けられたかと思うとあちらこちらにさまよわせて、顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。 「義姉上えぇ」 「何じゃ、急に」 赤子をその母親の腕に押し付けて、黎深は真っ白になってキラワレタ、キラワレタと呟き続ける。 赤子は母の腕に抱かれても泣いたままで、視線だけがふらふら投げられている。 それを変に思った母親が、しばらくの思案ののち、愕然とした表情で扇を取り落とした。 「もしやそなた、目が見えておらなんだか」 それにいち早く反応したのは、父親、紅邵可。 赤子の眼前に突き出した指を鳴らしながら動かす。 赤子は首を動かしてその指を追った。 今度は鳴らさずに指を動かす。 赤子の視線は見当違いの方に動いた。 母親の表情に暗い影が落ちる。 「やはり二人目となれば、容易く生まれはせぬか…………!」 まだしゃくりあげている赤子の頬をそっと拭い、沈んだ声で呟いた。 ぱちり、と扇を鳴らす音が響いて、黎深は何事もないかのように言った。 「目が見えないから何です。兄上の子供に変わりはないではないですか。不自由なことなんて私が全部排除します」 どこまでも傲慢に言い放った黎深を赤子はひくっ、としゃくりあげて見つめた。 まっすぐな視線に黎深は扇で顔を隠してじりじり後退した。 「珍しく良い事を言うと思ったら何してるんだいキミは」 呆れたように言った邵可が自分の妻に向き直って静かに尋ねた。 「名前は?」 「難しいの、秀麗の時はすぐに浮かんだのじゃが」 考え込んでしまう母親。 「焦ることはない、時間はたっぷりある」 「そうじゃの。一先ず慧、と呼んでおくかの」 「慧、ですか?」 「ほれほれそのように聡そうな顔をしてると思わんか」 「………………わかりません」 「なんじゃ、鈍いのう」 「そんな事君にしかわからないと思うよ」 「名はこの子供の本質を表すものじゃ。秀麗がそうであったように。のう、我が背の君」 大人達の語らいを余所に、赤子、慧は琵琶のことばかり考えているのだった。 |
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