彩雲ノ章


十七




着々と薔君の葬儀の準備がされていく。
母の墓は龍山の見晴らしの良い丘に作るよう、が指示した。

しかし、葬儀の列には加わらない。
邵可も静蘭もの姿が見えなくなっても、いや、そもそもいたのかどうかということにさえ気付かない。

邸に戻ると、埋葬にいった使用人以外、留守を守るというかたちであるのに、やけに邸内は慌ただしかった。
は躊躇いなく、薔君の寝室へと向かう。

キッ、と軽い音を立てて開いた扉に、中にいる人物が息を飲む音が聞こえた。

薔君ではもちろん有り得ない。

「ねぇ。何してるの」

それは問い掛けの形式をとっていたが、答えを求めるような声音ではなかった。

固まった使用人であろう人物との要る部屋の前をばたばた走り去る足音がして、同時に叫んでいる声が聞こえる。

「金目のもんは積めるだけ馬に積め?強盗みたいだね」

足を踏み出したに対し、使用人は一歩下がる。
その手に持っている包みが床に落ちた。

木製のもの。
空洞のもの。
長い棒がついている、箱。

この部屋でそれに当てはまるのは一つしか思いつかない。

「落とさないでよ、母様の二胡」

ゆっくりゆっくりと歩み寄って、二胡を拾い上げる

「僕ねぇ。琵琶が好きだよ」

弦の様子を確かめながら、はぽつりと言った。

「僕が琵琶を好きなように、母様も二胡が好きだったと思うんだ。でもまあ、僕はちょっと音楽以外のことに関して冷めてるみたいだけど、使えもしない二胡を母様のためといってお墓にいれる必要もないと思う。死んだ人は使えないしね」

ぺらぺらと二歳児が語る。
その口調はあくまでも子供らしい口調でありながら、内容がそぐわず、昨日母親を亡くしたとは思えない。

「もちろん僕が死んだら僕の琵琶は好きにしてもらって良いし。遺された家族がお金に困っていたら売って構わない。でも、家族の中に使える人がいるならその人にもらって欲しいって思うかも。遺品とかじゃなくてさ、何か引き継ぐというか、そう、同じ道を行く証というような感じ?例えばモーツァルトのヴァイオリンとかそういうのが持つ意味、かな。金銭的価値や歴史的価値じゃなくて、ヴァイオリンを弾く人だけが受ける感銘………僕自身別に偉い音楽家じゃないから例えにらないけど、そうだな、むしろ死んだ後にも自分の音楽を知り、楽器を受け継ぐ人がいてほしい、そして受け継いだ人に何らかの思いを感じてほしい………そういう生前の願いが少なからずあるわけだよ。でもそれは音楽家じゃないあなたにわかるはずもないから、ここは敢えて正論で言ってあげる」

そこで少し区切った後、の顔に浮かんだのは笑顔だった。

「この二胡は母様の所有物なのだから、その相続権はまず父様にあることは無論お分かりでしょう?何を勝手に持ちだそうとしているのですか?あぁ、これが疑問の問い掛けではないってこともわかりますよね?でしたらその口閉じておいて下さい。言い訳なんて述べて、声から感情を読み取ることに長けた私の耳を誤魔化せると思いますか?」

口を開こうとした気配を察したのか、は素早く切り捨てる。

「ああ、でもやはり楽器を扱う者として、これだけは言わせて頂きましょう。金銭や母様の服などを持ち出してる人ではなくて、まっすぐここに来たのは、それが理由ですから」

軽く小首を傾げてから表情は一転。
変わらず閉じたままの瞳は、相手に威圧感を与えないはずなのに。


「母様の楽器を汚すな、このカス野郎」


その一言は先につらつらと語った内容よりも多くの楽器への愛を含んでおり、同時に相手に対するかつてないほどの憎悪がこもっていた。

その侮蔑の言葉は慧との人生で最も汚い言葉であり、偶然にもつい三月前、遠い黒州で兄も用いた言葉だった。
本来乱暴な口調をしないの豹変だからこそ、その心の内が凄まじい事がわかる。


それに気圧された使用人は、最もすべきでない選択をしてしまった。


盲目の幼児を突き飛ばすなど、大の大人にとっては容易いこと。
力強くその薄い肩を押せばの体は呆気なく後ろに倒れ、小さな手から二胡が離れる。
ゴトッと床にぶつかって音を立てた。

傾ぎながら、は手を伸ばす。
使用人の袂を掴んで首を伸ばし、まるで首筋に口付けを施すかのように顔を近付けた。


例えようのない悲鳴があがり、それは直にむせび泣くような音を交える。

邸に残っている使用人が何事かと顔を出し、その光景に絶句した。


「だから言ったじゃん、母様の二胡、落とさないでって」


耳を押さえて呻く使用人と。
その指の間から流れ出る赤と。
幼児の口元の赤が何よりも物語る。


「まあ、逃げるなら今のうちじゃない?きっと父様が許しても紅家は赦さないと思うよ」


その言葉を聞いてか、あるいは目の前の幼児に恐怖してか。
使用人たちは慌てた様子で散り散りに逃げていく。

それでも纏めた荷を忘れないのは流石と言うべきか。

誰もいなくなった邸の中で、は二胡を拾い上げて棚に戻すと、手の甲で口元を拭った。

「……………まずっ」



埋葬を終えて帰ってきた邵可たちと共にいた使用人たちも、邸の様子を見るや表情を変え、翌朝には姿を消していた。
それこそ、大きな家具や金にならなそうなもの以外、や秀麗の服にまで手をだして。

本当に人気のなくなった邸の中に、小さな足音が響く。

「……

精気を失った邵可と、再び表情を失った静蘭と、自分の知らぬ間に母が亡くなっていた秀麗のうち、もっとも早く自分を取り戻したのは秀麗だった。

「何?姉様」
「お夕飯、作るから、手伝ってくれない?」

悲しみが滲んでいない声といったら、嘘になる。
しかしそれよりも必死で何かを噛み殺すような明るさが哀れだった。

「………もちろん」



竃くらいの背丈しかない子供二人が、そこらの物をかき集めて、何とか料理をしようとする。

「お米ってどうするの」
「お釜に入れて、水入れて、火にかける」
、そっち持って。水ってどれくらい?」
「…………わかんない」
「お魚は?」
「焼く」
「どうやって切るの」
「…………別に切んなくても良いんじゃない?姿焼きってあるし」
「包丁どこ」
「知らない……静蘭の小刀ならあるよ」
「汁物ってあの味何で出来てるの」
「味噌だと思うよ」

ちょこまかと動き回る二人によって出来たものは、お世辞にも美味しそうとは言えないものだった。
膳をそれぞれ一つずつ持って、邵可のいる薔君の部屋に向かう。

「………父様」

返事はなかった。

静蘭の居室に向かう。

「………静蘭」

返事はなかった。


「姉様、」
、食べよう」

厨房の床に座り込んで、二人で一匹の魚をつついた。

「美味しく、ないね」
「でも仕方ないよ」
「いつもみんなが作ってくれてたもんね」
「それが仕事だったからね」

外は黒こげ、内臓は半生で生臭さの残る魚の身を、秀麗がほぐしての皿に乗せてやる。
最後に苦じょっぱい汁物を飲み干して、二人は再び薔君の部屋に向かう。
膳に手がつけられた様子はなく、静蘭も同様だった。



膳に手がつけられていない日が続き、秀麗が今度は蒸籠を持ってのもとにやって来た。

「美味しくないから、上手くできないから父様達たべてくれないの。お饅頭ならうまくできるから、今日はお饅頭もつくるの」
「うん、姉様」

答えて立ち上がったは秀麗と共に厨房へと足を踏み入れる。
調理に使った器具に残った匂いや残飯の匂いを嗅ぎとって、ふと思いついたことを秀麗に向かって尋ねてみた。

「姉様、米櫃の中にお米ある?」
「少し」
「お魚はもうないよね」
「ないよ」
「味噌も野菜もないよね」
「うん」

買い出しに行かなければ、作りっぱなしではいつか材料は底を尽きる。
しかし子供二人で買い物に行けたとしても、荒らされた邸では、先立つものがなければ売れるものもない。

「姉様、一人でお饅頭作ってくれる?」
「待って!」

厨房の戸口に向けて踵を返したを慌てて呼び止める秀麗。

「どこいくの?」
「……………すぐ帰って来るよ」

長い沈黙の後、明言せずには厨房を抜けて部屋に戻った。
棚から琵琶をそっと下ろし、腕に抱える。
が邸に戻らねば、この琵琶も使用人達に持ち去られていたかも知れない。

そうなったらもう、容赦はしなかったけれど。


秀麗が倒れて薔君が亡くなって、と最近は出掛けることも少なくなったは完璧な記憶に従って市へと向かった。


市に出ると、何度か話したことのある人々が口々にお悔やみを言ってくれる。
馴染みの饅頭屋の店主は饅頭を一籠タダでくれたし、八百屋はワケアリ野菜を分けてくれた。
恐らくみな知っているんだろう。
奥方の訃報の後をおうように、使用人達が家財を持ち出して邸を出て行ったと言うことを。

「坊、買い物か?」
「うーん、旅芸人の真似事!」

貰った荷物は今晩の食事にでもすればいい、と思いながら風呂敷にいれて背中に背負う。

「お金持ちが集まるような高い料理店しらない?」
「あ?あー、確か……」

店主は官吏がよく集まるという料理店までの道を、だいたいの距離まで教えてくれた。
店主に頼んで長い棒を貰うと、この世界に来てからはあまり使うことのなかった杖代わりにする。
カツカツカツと曲がる角や歩数を数えながら、なんとか指示通りに進むと、喧騒や声から、その料理店のあたりに来れたのだろうと知る。

ちょうど店の前にいい感じの巨石があったので、それに腰掛けて琵琶を膝に立てた。
周りの人々が何事かと足を止め、店から出て来た客たちが、中に戻って店員を呼びにいく。

追い払われるかもしれない。
だがには、曲を奏で始めてさえしまえば、誰も自分を妨げないと言う自信があった。





ありがとう、母様。

もう弾けるよ。

姉様が頑張ってるから。

いつまでも葬送曲ばっかり弾くわけにはいかないもんね。

父様や静蘭もどうにかしてみせるから。

僕らは大丈夫だって。

安心してください。




「奏でますのは未熟ながらも私めが創曲致しました、ある物語をもとにした曲」

「語りより入らせて頂きましょう。それでは皆様どうぞお静かに」


語り出すのは薔君が幾度か聞かせてくれた物語、『薔薇姫』。


本当はこれを聞かせたくて、琵琶が手に入り、薔君がせがむようになってから時間をかけて創曲していた。
素直すぎるの琵琶は、あの悲しみの中、それを弾かせてはくれなかったけれど。


静かに透る声で、は語る。

そしてそっと琵琶に指をかけた。
幼い指からは信じられないほど妙なる楽の音が流れ出す。

は語りを主とはしていなく、どちらかというと琵琶の超絶技巧を披露することのほうが多かったのだが、『素直』なの音はその声すらも情感溢れるものと感じさせる。


止めに来た店の人間も、行き来する客も皆息を止めたようにして聞いていた。

ぽろっとの頬を涙が伝った。
伏せた睫に払われるようにしてもう一筋、顎まで伝う。



伝えきれない想いも。
届かない誓いも。

全て、琵琶の音に乗せて。



幼い姿に釣り合わぬ腕、そして口調。

しかし奇異の目で見るものはいない。
あるのはただ、感嘆。


最後の弦を弾いた爪が琵琶から離れる。
わずか三歳にもならぬ、幼い体。
琵琶が大きく見えるほどの、不釣り合いな体で大人にも勝る音を奏でた。

歓声などは起きない。
誰一人として拍手も声も出せぬまま、立ち尽くしていた。


きっ、と顔を上げ閉じた目元を若干険しくしたは透る声を張り上げる。

「どうぞ皆様、私めの稚拙な演奏を更に聞きたいとおっしゃる方がおりますれば、この幼子に――――――」

恥とは思わない。
は邵可や静蘭が思っているよりずっとずっと誇り高い。
そしてその誇りは決して間違った誇りではない。

生きるために最大限すべてを利用することはにとっては何ら躊躇うことではない。

が言い切る前に、砂利を踏んでまっすぐ近づいてくる音があった。
その人物のために、人は道をあけて後ろに下がっていく。

「紅、乞食の真似事か」

の名を言い当てた声は、揶揄するように告げた。
その声は年老いていて、しかし張りがあるような活力を感じさせた。
このように感じるのは『三人目』。

「必要とあらば。私の家族が生き延びるのに必要とあらば、乞食も盗賊もやりましょう」

毅然として答えたに、含んだような笑い声を浴びせ、静かに行った。

「ついて来なさい」

自らが乗ってきた車に戻っていくその人物の背を、は小走りで追った。

人々のざわめきの中から、霄宰相、という声が聞こえて、この問題は解決したと確信した。