彩雲ノ章


十六




桜を植えたのが春の始め。
それから梅雨を経て初夏を迎えるまでに、秀麗は二度大きく体調を崩した。

そして二度目の波は回復の兆しを見せないまま、今もなお秀麗を苦しめている。

「姉様、もう夏になったんだよ。そのお布団暑くない?」
「平気。の手、冷たくて気持ちいい」

秀麗の額に置いたの手は、子供らしい体温を失ってかじかんでいる。

静蘭監督のもと、夫婦が厨房でそれぞれ薬湯やら何やらを作っている。
そのため、誰も盥の水を換えて額の布を冷やしてあげる事が出来ず、は困っていた。
布に氷を巻いたら水が滴るし、第一、絞る腕力はない。
そこで氷を握った手を秀麗の額に直接当てるということを閃いたのだ。


秀麗の体調は誰が見ても悪化していると答えるだろう。
薬湯も何ももはや気休めでしかない。

「姉様、おいしい料理知ってるんだけど今度一緒に作ろうよ」
「姉様、ほら、庭に咲いてた朝顔。うーん、匂いはあんまないね」
「姉様、二胡の楽譜を貰ったよ。今度聴かせて」

だからは必死になって予想しうる未来を否定する。
認めない。
絶対に認めない。



峠のない山を登っていくように、秀麗の病状は悪化していく。
熱で意識を失い、喘鳴混じりで喋ることもままならず、上体を起こすことすら出来ない。

家族に絶望の陰が使用人に諦念の陰が見え始めても、は否定する。


部屋で琵琶を抱きながら、は体を丸める。

初めてだった。
家族の中で熱を出すのは毎回自分。
毎年必ずインフルエンザはもらってきたし、季節の変わり目にも体調を崩した。
看病してくれてるのに、全く感染らない兄を不思議に思っていた。

初めてだった。
誰かに死の兆しが見えるのは。
両方の祖父母はどちらも元気で、病気一つしなかったし、自分より体力があった。
お墓にはきっと曾祖父と曾祖母の名の下に自分の名前が刻まれたことだろう。


いつも自分は悲しませる側で。
いつも自分は世話される側で。

その逆なんて、わからない。


午後になって屋根を打つ雨脚が、少しずつ強くなる。
すぐにバケツをひっくり返したような豪雨になって、雷が鳴ったらやだな、と思った矢先に轟音が響く。

雷光で覚悟することが出来ないから、は雷が苦手だ。
秀麗が不安に思っていないかと、はまた秀麗の部屋に向かう。
何故だか何時もより慌ただしい感じがして、通りがかった使用人を呼び止めた。

「ねえ、何があったの」
「お、奥様がお倒れになりました」
「―――――え?」

生まれて初めて、の世界が音を失った。


どこをどう走ったのか、途中で何回転んだのかなんて覚えてない。
気づいた時には薔君の部屋の扉に体当たりするように突っ込んでいた。
転がり込んだ部屋に、人の気配はない。

ならば秀麗の部屋に、と前のめりになりながら走り込んだ。
案の定、秀麗の部屋に続く部屋に寝台を運んでそこに薔君が寝かされていた。

「どうしたのじゃ、血相を変えて」

笑いを含んだその声を聞いてほっと息をつく。

「駄目だよ、母様。看病する人が倒れたら元も子もないんだよ」

トコトコと歩み寄って、掛け布団の上に出ている薔君の手を探り当てて握る。
そしてざっと血の気が下がる音がした。

何かを言おうと口をぱくぱくさせる息子を見て、薔君は悲しげに目尻を歪ませた。


わかってしまった。

だからこそ、わかってしまった。

握った母の手から感じる『何か』。
脈動でもなく、確かに母の体に強く脈打っていた『力』。
身体的な感覚ではなく、葉医師にも感じた、『何か』凄みのある『力』。


それが、今握ったこの手から、微塵も感じられないということに。


「う…うそだ」

今にも死にそうな秀麗には感じなかったのに、母に対して陰を感じてしまう。

「いやだ…」

置いていくのはいつも自分。
プラスにもマイナスにも自分はいつも周りを置いていった。

今度は、置いていかれる、番。

「なんで!」

子供のようにただ問いを投げるしかできない。
薔君はの脇に手を差し込むと寝台の上へと持ち上げた。

「よしよし、重くなったな」

自分の体でくるむように抱き上げた薔君はとても優しく、母の顔で笑った。
残念ながら、それをが見ることはかなわなかったけれども。

「そなた、妾を恨んだことはないか」
「ないよ」

突然の言葉に、は語尾に被るようにして答を返す。

「その見えぬ眼が妾のせいだと知ってもか」
「知ってたよ」

の言葉に、薔君は僅かに眼を見開く。

「知ってた。母様が本当は子どもなんて産めないの知ってたし、姉様の体を考えれば僕に異常がないのはおかしいでしょ。それに葉医師もそんなこと言ってた」
「あんの傍迷惑なお節介じじいめ」

口汚く罵った薔君にはころころと笑って、ふっと真顔になる。

「目で、良かったよ」
「なんじゃと」
「知ってる?視覚は補えるんだよ。例えば耳が聞こえないからといって、視野が三百六十度になるわけないでしょ。味覚も嗅覚も触覚も、欠けてるからってその分他が優れることはない。でも目は違う。見えなければ見える人よりずっと耳が良くなるし、触覚も鋭敏になるし、ほか二つもそうだと思う。だから、僕は目で良かったよ」

幼い子どもが、これだけ悟るのにどれだけの苦しみがあっただろう、と薔君は思う。
手がかからなかった子。
秀麗の特殊な体のために、いつも少し遠巻きに家族の輪を見ていた子。
決して家族の輪に入っていないというわけではない。
皆が忙しくなると、いつの間にか離れてひとりで遊んでいた。
どちらも同じくらい大切なのに、無意識のうちに後回しにしてしまう。
こんな幼い子を一人で出歩かせるなどあってはならないのに、並外れた知能に甘えてしまっていた。
甘えたがりなのは見ればわかるのに、本当に忙しい時には甘えてこない子。
その退き際が異常に子どもらしくない。

「すまぬ。、すまぬ。妾たちはいつもそなたに甘えていた」
「それも知ってる。でも今度は逆の立場を味わってみようと思ったの」

兄さんの立場を。

声にならず呟かれたそれに薔君は気づかない。
額を薔君の肩にうずめて、は胸一杯に母の香りを吸い込む。
するすると前髪を梳かれて、はゆっくりと一語一語発音した。

「母様、僕の琵琶、聴いてくれる?」

それはまるで別れの言葉のように。



お互いに本心を語って、の心境は穏やかなものになっていた。

自分は一人でも大丈夫なのだけれど、逆に誰かを庇護するのは苦手。

「一人っ子みたい」

自分はいつも『弟』だったのに。


琵琶の準備をして、腕に抱えて母の部屋へと向かう。
まだ遠い位置から、父母の声を聞き取って、はその場に腰を下ろす。
意味もなく弦の具合を確かめたりしながら、雨のやまない空から響く雷鳴に耳を澄ました。
なんとなく、聞いてはならない気がしたから。

思ったより話は長く、もう夜に入ったと思う。
話、というよりも最後の時間を可能な限り共有しているのだろう。
途中静蘭も呼ばれ、部屋に入った様子。

そろそろいいか、とは腰を上げる。
流石にこの状況では使用人も仕事が手につかないようで、あちこちで声を潜めて話している。

薔君のいる部屋の前で、もう一度琵琶を抱えなおし、声をかけた。

「母様、父様、静蘭、入っていい?」
「おお、待っておったぞ」

ほか二人からは返答のないまま、は扉を押し開く。
薔君から少し離れたところに椅子を引きずって腰掛け、琵琶を抱えて弾く姿勢に入る。
曲名は言わない。


注目されているのを感じながら、は最初の弦に爪をかけた。

たゆたうように流れ始める琵琶の音色。
音の羅列が一つの世界を生み出し、他の世界を排除し始める。

静かな、哀切に満ちたその歌は葬送曲。

不謹慎な、と演奏をやめさせることは出来る。
邵可も始めそれが葬送曲だとわかった時、目元を険しくした。
しかし、止めることは出来なかった。

弾いている本人が一番傷ついていたから。
弾いている本人が一番泣きそうな顔をしていたから。
そして何よりも、薔君が優しく微笑んでいたから。


の音楽はけっして嘘をつかない。

つけない。

だからそれだけ人の心を打つ。



最後の弦が遺音を響かせた琵琶を、はゆっくりと体から離す。

「ごめん、ね。今はこれしか」
「なんじゃ、しっかり弾けるではないか、出し惜しみしておったな。このこの」

が何かを言い切る前に、薔君はその頬をぐにぐにとつねる。

「ち、違うよ!だって昨日まで通して成功したことないんだよ?」
「ふむ、本番に強いというのも一つの才能か」

琵琶を腕に抱えたまま、はすっと立ち上がる。

「じゃあ、僕、部屋に戻るね」

鼻声になりながらギリギリ踏みとどまって泣かないでいるは、足早に部屋を後にしようとする。

「―――――
「なに?」
「良いものを聴かせてもろうたぞ。の琵琶は世界一じゃ、妾が保証する」

最後まで弱った面を見せず、不敵な笑顔で笑う薔君に、は自分を抑えられなかった。
琵琶を抱えたまま、薔君の体に飛びつく。

「少ししたら、もっと前向きな曲弾けるようになってるからね!」
「よしよし」
「そしたら、弾きにいくからね!」

ずずず、と鼻をすすりながら、は顔をあげる。

「母様、僕は大丈夫だから、心配しないでね。その心配は父様たちにかけてあげてね」

ボソボソと呟く声は雷鳴にかき消されて他の二人には聞こえなかったに違いない。
薔君の表情にいきなり不機嫌なものが浮かんだのを見て、邵可や静蘭は首を傾げる。
しかし戸惑いはすぐに消えて呆気にとられることになった。

「何を言うとるんじゃ、このトンマ!おぬしかて妾の子だと言うのがわからんのか!なんじゃ、おぬしだけ余所様の子とでも言うつもりかっ!だいたい妾の愛情は一人二人にやっただけで底尽きるようなみみっちいものではないわ!」

細い指で襟を掴まれ、ガクガク揺さぶられたせいで白目を剥いているなどお構い無しに、薔君は言葉を続ける。

「大切なものが一つあれば他はいらないなど、無欲なところがほんに邵可に似ておるわ!とかいいつつも強情なところも似おってからに!心配するのは妾の勝手じゃ、妾はのことも心配じゃ!おお、大いに心配じゃ、一番心配じゃ!」
「わ、わかったから……!ごめん、ごめんってば」

シェイクされまくった頭を軽く振って、は体を離す。
これ以上されたら吐いてしまいそうだ。

、相手から心配する権利すら取り上げるのではないぞ。心配は愛じゃ。けっして憐れみでも同情でもない。それをするなということは、見守るな、自分に構うなと突き放してるのと同じこと。何でも一人で出来ると、背伸びする必要はない。心配されることが嫌ならば、手を借りることも一つの道」

今まで薔君の言葉から色々なことを学んできた。
でも、今回のが一番、効いた。
しゅん、とうなだれたの頭には、心配かけてばっかりだった兄が浮かんでくる。

何でもかんでも心配するから、気兼ねして、心苦しくて、ますます負担をかけたくなくて。
一人でやろうとすると、飛んできて、心配して。
心配して欲しくないから、頑張ると、心配して。

「よいか、。心配するななどと言うてくれるな」
「うん」

額に薔君の口付けが落とされて、はくすぐったそうに首を竦める。
も体を伸ばして薔君の頬に口付けを返す。

ゆっくりと顔を離すと、はにっこりと顔一杯の笑顔を浮かべた。

きっとみんなは泣くか呆けるかだろうから。
自分だけは薔君の好きな笑顔を浮かべてあげる。

「部屋に戻るね、母様。………おやすみなさい」



琵琶を抱えて、秀麗の部屋に入る。
息の荒い秀麗の額を近くの布で拭いてあげて、起こさないようにそっと声をかけた。

「もう少しの辛抱だからね、姉様」



翌朝。

寝台の上で琵琶を抱えたまま夜を明かしたは、明け方からばたばたと慌ただしい人の気配を感じていた。

躊躇いがちに戸が叩かれて、声をかけられる。
起こしに来たり、片づけに来たり、一番この部屋に来ることが多いのは静蘭だが、今日はあまり親しくない家人だった。

「どうぞ」

そう言葉を返してから数拍経って扉が開かれる。
入ってからも数秒黙り込んで、ようやく口を開いた。

「若様、奥様が」
「知ってるよ。もう逝っちゃったんでしょ」

戸惑いながらそう告げる家人が静蘭だったら、はまた別の言い方をしただろう。
しかしは自分と関係のない人間にはとことん無関心だった。

「一人にしてくれる?」

無言で部屋を後にした家人など気にとめず、窓へと足を進める。
丸い形で外側に開く窓を背伸びして全開にすると、雨上がり直後の冷気と湿気を含んだ爽やかな風を全身で受け止める。

「さて」

母様は逝ってしまった。
秀麗は元気になっただろう。
父様と静蘭は使いものにならないだろう。
家人たちも動き出すだろう。

「気付かないと思ったら大間違いだよ」

たとえ厨房の隅で話していても。
たとえ声を潜めていても。

誰が何を言っていたか。

目が見えなくても、全部把握してるんだから。

「琵琶も弾けるようになったみたいだし」

僕も動き始めようかな。