彩雲ノ章


十五




何で自分はこんなに成長が遅いのか、は本当にもどかしく思う。
彼が同年代の子供に比べ遥かに成長が遅れているのは間違いない。

ようやく起こして使えるようになった琵琶を、紅葉のような手でかき鳴らす。
そして必ずどこかでつっかえるのだ。
弦を押さえる指が届かずに音が飛んだり、かき鳴らす指が一弦一弦ぎこちなかったり。
思いに体がついていかないことに、は苛立っていた。

イメージトレーニングもエアギターならぬエア琵琶も、指先の繊細さを養うために、毎日毎日特訓した。

前世、琵琶を始めた頃、その上達は目覚ましく日々の成果がはっきりと表れていた。
しかし今では問題がそれじゃないだけに、進歩がない。

、妾にそなたの琵琶を聞かせてくれぬか」

母にそう言われ、嬉しいと感じたが、は首を横に振った。

「練習が漏れ聞こえるのはいいけど、演奏はダメ。まだ下手だもん」

昔に比べ未完成な音を他人に聞かせたくはない。
それは陶器師が出来の悪い器を砕くのと同じような、音楽家としての誇りだった。

そう答える度に、母は笑い含みにを小突いて、呆れた口調で言う。

「誰に似たのじゃ、この頑固者が。まあせいぜい、満足のいくまで練習するがよい」
「うん」

は琵琶をおいて部屋を出ると、お気に入りスポットへと向かう。
指の練習は骨がしっかりしていない幼児期にやりすぎると腱鞘炎になって、二度と納得のいく琵琶が弾けなくなる恐れがある。
指を休め、イメージで琵琶の音に浸ると言うのも、大事なことだと琵琶を教えてくれた人が言っていた。

邸の建物を繋ぐ階廊から池の近くの岩に足を伸ばして飛び移る。
滑りかけたのを慌てて体の横で手を振り回して踏みとどまる。
池の表面には氷が張っていて、夏のように足を浸すことは出来ない。

「うひゃっ」

岩に腰を下ろそうとして、湿った感触に思わず飛び上がる。
雪が降って、少しばかり積もっていたらしい。
そう言えば、足の裏には固い感触と共に何かに沈み込むような雪独特の感触がしていた。
目が見えれば一面の『銀』世界というものなのだろうか、と考えてみる。

体の周りの雪をかき集めて、手のひらで兎を形作る。

「兎。兎は『茶色』とか『白』とか『黒』とか」

雪は白いはずだから、おかしくない筈だ。

「若様、薄着で外に出てはいけません」

回廊を通った静蘭が、を自分の上着でくるむ。
静蘭が床に何かを置いた音で、は静蘭が何か用事があってここを通ったと分かる。
静蘭の行く先に何があるかを思い出すと、は鼻に皺を寄せた。

「姉様まだ熱下がらないの」

冬から春になろうというこの時期、三日前から体調を崩した秀麗は熱を出して寝込んでいる。
静蘭や邵可、薔君が付きっきりで看病しているのを、は知っていた。
そんな中、自分が寂しくないように時折部屋を覗いてくれたり、話しかけてくれたりする事も。
本当の三歳児なら寂しがるかも知れないが、は琵琶があればひとまず我慢出来た。

「お医者さんは?」
「今日の午後、葉医師が見えられますよ」
「ふーん」

今まで多くの医師が匙を投げてきたのを知っている。
かつて、自分の目が見えない理由を誰一人解明出来なかったように、ただ体が弱いと言って、風邪の薬しかくれない医者達。
薔君の薬湯のほうが、よっぽど効く。

「だったら早く姉様のところに行ってあげてよ」

姉様、また寝台から抜け出しても知らないよ?

そのの言葉に、静蘭が慌てて去って行った後、は手の上の雪兎をポイッと放り投げる。

「あれは溶けちゃうからダメ」

雪の中に落ちて分からなくなっただろうそれに、はもはや何の関心も抱かず
、何か別の事を考えている様子だ。

「ずっと残るもの。一緒に出来るもの。お家の中でも外でも見えるもの」

その場でクルクルと回りながら、足元の石を軽く飛び移っていく。

「姉様は何が好き?外で遊ぶのが好き。庭の池が花が好き」

何かを閃いたのだろう、ぴょんっと一つ飛び上がって、は街中へと飛び出して行った。



市や街をふらふらすることで有名なは道行く人に必ず声をかけられる。
目的の場所への道を聞いて何とか辿りついたは、そこの店主と二十分ほど話し込んだ後、浮かれた様子で出てきた。
意気揚々と自邸に戻り、門をくぐったところで中に元気よく呼びかける。

「たっだいまーっ!」

秀麗の部屋にいるである家族に聞こえるわけがなく、シン、と澄んだ静寂がを迎えたが、機嫌のいい今は気にしない。
先ほど座っていた池の周りの石に座って、鼻唄を歌いながら雪を手で弄ぶ。
近くにかき集められる息がなくなってしまって、は遠くの石に手を伸ばした。

と、肩から静蘭が掛けてくれた上着が落ちる。
凍った水面に落ちたそれを取り上げようとして、は脚を滑らした。

「うわっ!」

氷に倒れ込んだ体は強かに打ちつけたものの、何とか上着を拾いあげることが出来た。
氷の上を恐る恐る移動しようとした時、ミシミシという音が体の下から聴こえる。

「え?」

氷が割れていく音だと気づいてあわてて近くの石に縋ろうとしたのがいけなかった。

の体重を支えきれず、砕けた氷はを真冬の凍りつく池の中に引きずり込んだ。
氷の縁に手をかけて這い上がろうにも手をかけたところから氷は割れていく。

冷たさで水を掻くこともできず、沈んでいく体の最後の力で、上着を氷の穴の外に押し出した。
パニックを起こさず、あくまで冷静な対処。
の体は全身が沈んでしまうが、静蘭や邵可ならば話は別。
ずぶ濡れの上着と池に空いた穴を見て、が沈んでいることに気付いてくれればいい。


肌を刺すような冷たさをついに感じなくなり、肺の中に残った最後の息を吐き出した時、は水に遮られて聞こえづらい声を聞いた。



!」

怖い声と共に頬を強く張られて、は体をブルッと震わせた。
咳き込んで水を吐き出すと、体を丸めてブルブルと小刻みに震える。

「良かった、意識は戻ったか………」

ほっと吐き出した息とともに聴こえた声は父、邵可のもので、いつもはのんびりとした父が最初の怖い声を出したのかと不思議に思った。

「さ、ぶい」
「今度からもう池に近づいてはいけないよ」
「ふ、ふぇ………」

ガタガタ震えるを抱いて、邵可は厨房にいく。
大きな盥に湯を張って、そこにを沈める。
ペタンと座り込んでしまえば、盥はが肩まで浸かるのに十分な深さがあった。

寒さでカチコチに固まったのがほぐれてくるとは頭まで湯の中に潜ってふいーと息をついた。

「どうして落っこちゃったんだい」
「………ちょっと嬉しいことがあって浮かれてマシタ」

怒っているような口振りではないが、何故だか怖い。
生憎保護者の立場になったことがないは、我が子が池に沈んでいると分かったときの邵可の心境を理解出来なかった。

「何があったのかな」
「…………姉様には内緒だよ?」

そう小首を傾げて前置きしたは、再び盥に深く沈んでから告げた。

「姉様が元気になった時の贈り物に、桜の苗木を貰う約束をしたの」

予想もしなかった答えに、邵可は少し驚いて、その後深く笑みを刻んだ。

「植木屋さんに行って、桜の苗木を売って下さいって言ったら、植える時期ももうすぐ終わるし、売れ残ったので良かったらくれるって」

まるでそのことについて怒られると思っているように、おずおずと告げたに湯をかけてやりながら笑い含みに尋ねる。

「それで嬉しくて池に飛び込んだわけじゃないだろう」
「………………阪神ファンじゃあるまいし」

の言葉の意味は分からなかったようだが、なんとなく言いたいことは分かったらしい。

「それで?なんで落ちたの」
「上着落ちて拾おうとしたら転んで、そしたら割れちゃったんです!」

追及する邵可に仕方なく、ちょっと頬を赤らめて照れ隠しに早口で言うに邵可はわかったわかった、と笑う。

「もうすぐ雪解けだから、割れやすくなってたんだね」
「行って帰って来たら結構時間経ってたし……っくしょんっ!」

言葉の最後に盛大なくしゃみをかましたは、イヤーな予感に顔をしかめた。



その予感は的中し、は秀麗の横に子ども用の寝台を並べて横になっていた。

「あづいー」
「だいじょうぶ?
「大丈夫じゃない。姉様は」
「慣れた」
「元気になってないんだから二人とも大人しく口噤んで寝ててください」

静蘭は自分の頭越しに会話する子どもたちを叱ると、頻繁に寝返りをうつためにずり落ちるの毛布をかけ直した。

「あついってば〜」
「駄目です。汗をかかなきゃ駄目なんです」

の訴えに聞く耳もたない静蘭はの毛布を整えて、二人の寝台の間に置いた椅子に腰掛けた。

「ねえ、父様と母様は?」
「厨房に薬湯を作りに行きましたよ」
「ふーん、厨房無事だといいね」

がサラッと言った言葉に顔色を変えた静蘭は慌てて飛び出していく。
それに一拍遅れてちゅどーん、と爆音が聞こえた。

「とおさま………かあさま……」

秀麗が弱々しい声で嘆くのを聞きながら、は毛布を蹴り落とす。

邵可たちと戻ってきた静蘭にもう一度毛布をかけられながら、すいのみを差し出される。

「何コレ」
「薬湯です」

すいのみに吸い付いたはちゃんと全部飲みほしてから静蘭に一言告げた。

「何だかキョーレツな生姜のにおいがするんだけど」

言われて静蘭がペロリと舐めるのに被って、邵可がのほほんと横から顔を出して言う。

「ああ、それは私が作った生姜湯だよ。熱に効くって聞いたから」

声もなく悶絶している静蘭をよそに、家族から味覚オンチの称号を受けている二人は和やかに会話する。

「ちょっと生姜いれすぎじゃない?」
「えっ?そうかなあ」

決してオンチなわけでなく、片方は許容範囲が広く、片方は嗜好がおかしいだけだ。
が、正常かつ最も被害の多い静蘭は盛大に突っ込みたいところだった。


午後になって葉医師が秀麗の診察にやってきた。
葉医師はの横で秀麗を診た後、静蘭に子どもたちを任せて隣室に両親を連れ立って行ってしまった。
不安そうな秀麗を慰める静蘭も強張った表情を隠せない。
それをは落ち着いた眼差しで見ていた。

邵可特製生姜湯のおかげか、何故だか回復し始めたは、秀麗と静蘭の注意が逸れた隙に部屋を抜け出した。
邵可と薔君が部屋から出て来て、の目的はその後に続いた葉医師にあった。
一人戸口に向かう葉医師に追いつき、声をかけた。

「ねえ、母様と同じニオイがするよ」

の言葉にピタリと動きを止めた葉医師は、ゆっくりと振り返った。

「ほう。見えない分だけ感応力は良いようだな」

「年若くて老獪、有形にして無形、そんな感じ。同じ次元に存在しない人がそばにいるみたい」

自分の言葉で、何となく掴んだ感覚を告げたに葉医師は驚きを隠せない。
この幼児の出自を知っていても、その血がしっかりと受け継がれていることを感じた。

「お前も普通ではない、か」
「何をもって普通と言うんだろうね。あなたは普通じゃないし、目が見えない視覚を除く五感が異常に鋭いという点では僕は普通じゃないし」

難しいよ、と語った幼児の言葉に葉医師は道理だ、と返して、医師としての言葉を告げた。

「まだ休んでいるといい。熱が下がったとは言え、治ったわけじゃない」
「姉様は?」
「……………医師として無責任な言葉だと思うが、運を天に任せるしかないな。正当な代償だ」
「どういう意味」

の強く詰問するような声音に、葉医師は長く息を吐き出した後、ゆっくり諭すように言った。

「お前は何故目が見えないのか考えたことはないのか」

言われて思い当たる節のあるは思わず固まった。
その間に葉医師はに背を向けて門を出て行った。

「若様?何出歩いてるんですか?」

ゆっくりと声音だけは優しく声がかけられる。
ギギギと声の方に向き直ったは、五感以外の本能が告げているとおりに逃げを選択した。

が、それもあえなく失敗。

にこやか笑顔な静蘭に捕獲されると、俵担ぎをされて寝室に連行されるだった。

「みぎゃあああ…………!」



その後三日寝台にくくりつけられたが解放されたころには、秀麗も奇跡的な回復を見せていた。
しかし、時折見せる薔君の暗い表情に気付くものはいなかった。


秀麗の体調が良いある日。

門のところにでん、と置かれたそれに驚いた静蘭は邵可のもとへ慌てて駆け込んだ。

「だ、旦那様、門の所に樹が」
「あれ、もう来たのかい」
「旦那様の仕業ですか?」
「いや、だよ。じゃあ静蘭は秀麗を呼んできてくれるかい?」

何が何やら分からない静蘭はとりあえず頷くと秀麗の手を引いて戻ってきた。
薔君を伴って門の所に行くと、が棒を片手にうろちょろしていた。

「なぁに、この樹」
「桜の苗木だよ!」
「苗木というわりには大きすぎる気がしますが…………」
「タダなんだから文句言わない!植樹ギリギリの苗木だって」

確かに苗木というわりには立派すぎる幹に手を置いて、は秀麗に笑いかける。

「僕から姉様への回復祝い。みんなで植えようよ!」

誘われて庭に足を運ぶと、秀麗の部屋の窓から見える位置に正確な大きい円が描いてあり、複数の鍬が並んでいた。

「みんなで穴掘りしましょー!」

意気揚々とそう告げられて、一家は苦笑しながら鍬を手に持つ。
何時の間に用意したのやら、は手に二つの大きい匙のようなものを持っていた。

「若様、何ですかそれ」
「ミニチュアシャベルまたの名をスコップという」

静蘭にとってはちんぷんかんぷんな事を答え、はいざ、と手作りのの木製スコップを構えると、モグラのような速さで地面を掘っていった。


一家全員泥だらけになりながら何とか桜の苗木を穴に植え、土をもった時には随分な時間が経っていた。

「これは姉様の桜だよ。だから姉様はこの桜みたいに元気になんないといけないんだよ」

の言葉は願いに近く、軽い口調に隠された真摯な響きは、確実に一家の心に届いた。

「再来年にでもなったら、咲くだろう」

邵可の言葉に、秀麗は開花が待ちきれない様子だ。

「咲いたら『皆で』お花見しよう。僕だって見えなくても桜の散る様子なら感じ取れるんだからね」

こうして紅家の庭にの祈りの桜が根を張った。