冬薔薇の棘を身に纏え




時を喰え。
星を喰え。

汝が星宿は星も月も太陽も喰らうもの。
為すに凶兆。

不死者の星宿。

輪廻を外れた罪の子よ。
切なる願いが闇を呼び寄せ、その身を堕とす。
嘆くな幼子。

神をも縛るその力。
人の括りにいられるか。




一章  漆

東の空が薄藍に染まり始める。
もう人々は朝の支度をしている頃合だ。

太陽が山際から完全に姿を現すのは速い。
誰もがいつもと変わらぬ1日が始まると思っていた。


出仕のない晴明は、日の多くを部屋で調べものをして過ごす。
最近は昌浩とに式の作り方を教えたり、本を繰っていたりするが、邸にいることには変わりない。


ぞくり、と晴明の背筋が粟立った。


半蔀を跳ね上げて簀子に飛び出した晴明は険しい顔で東の彼方を眺めて瞠目した。

「太陽が……!」

晴明の眼前で、日が喰われていく。
雲が覆うでもなく、徐々に太陽が欠けていく。
暁のように緩慢に訪れる宵ではなく、まるで空に闇色の幕を張ったかのよう。

いくらもしないうちに、完全な闇が訪れた。

月もなく星もなく。
色も形も己の姿すら見ることが出来ない。
光があってこそ闇があると誰が言ったろう。

ただ、この世の果てのような闇だけがある。

「朱雀!」

強張った声で呼んだ晴明に応じて一つの神気が現れた。
表情を見ることは出来ないが、緊張した気配で察することができる。

闇など拘らぬ神将が部屋の燭台を灯してくれる。
ぼんやりとした灯りが室内を照らし、晴明は僅かに肩の力を抜いた。
経験したことのない真の闇に、流石の晴明も恐怖していたようだ。

「白虎、太裳。陰陽寮に赴き、事態を確認せよ。玄武、太陰、六合、都を見回って水鏡を通して報告を。天一と朱雀は邸内に灯りを灯しておくれ」

矢継ぎ早に繰り出される命令に多くの神気が風を伴って消えていく。
まったく色の薄まらぬ空を見上げて、晴明は臍を噛んだ。

自分の式占にも陰陽寮の暦にも、このような兆しは一切なかった。
人為的なものにしては規模が大きすぎる上に、このような術を晴明は知らない。

この国の始祖たる天つ神、天照大御神が司る太陽に、人間が干渉するなど。
神を縛る術など人の身では出来ぬこと。

これではまるで、かの大御神が弟御の素戔嗚尊から姿を隠すために、天の磐戸に篭もられたかのようではないか。



は母譲りの黒髪を櫛で丁寧に梳いていた。
平成に生きていた頃、異端児扱いされた一つの原因に、日本人ばなれした容姿があったのを思い出す。
栗色のふわふわした髪は、今では鴉のようなぬばたまの毛色。

そんなことを考えて思わず微笑みを浮かべたが、明るくなりかけている東の空を見て表情を消した。

肩を越す長さの髪をまっすぐに櫛けずるのは難しく、何度も引っかかってしまう。
早くも諦めたは適当に肩に流して、立ち上がった。

何を言うかは考えてある。

出来るだけ祖父に罪悪感を感じさせず、昌浩には真実を告げないように。

簀子の上を裸足で歩き、晴明の部屋まで進む。

昌浩はまだ眠っているのだろうか。
かの神将も昌浩の隣では和らいだ雰囲気を持って、眠っている。

自分のことは棚に上げて、やはり昌浩はすごいな、と考えた。

その、刹那。

背筋に雷が落ちたかのような衝撃がを貫いた。

「な……っ!」

その感触に覚えはあった。

封じられていた霊力を初めて使った時と同様。
常には感じぬ霊力の奔流が身体を駆け抜けていく。

それは、術の行使ではない。
神道の呪法にしても、陰陽術にしても、それに必要な霊力を真言を持って引き出す。

しかしは時に、その絶大な霊力故に言霊だけで事足りる。
そしてそれは、の深い心に強く根付いた願いを、叶える。

唐突に、力が抜き去られるような感覚が終わる。

「いったい、何が……!」

は立ち上がろうとして欄干に掴まり、顔を上げた。
その瞳が東の方を見て、凝った。

「太陽が…」

消える。
喰われる。

朝にならないで欲しいと願った。
多くの霊力を何かに使い切った。

でも、叶う筈がない。
神の領域を侵す力が自分にあろうはずがない。
絶対不可侵の領域をいとも容易く言霊ごときで覆せるはずがない。

本能が告げる。
でも、あれは。

自分の。

俺の、仕業?

狂った母の声音が速い鼓動を伴って思い出される。

もはやの目に映るのは、喰われる太陽ではなく、過去の傷跡。

血の気の失せた顔に落ち窪んだ瞳。
それは生気を喪わず、一層ぎらぎらと暗い炎を灯している。
視線一つでをその場に縫い止める。
血を吸った綿のように、ぐずぐずに崩れた赤い腕。
それが自分の頬を捉え、縦にひび割れた唇が喘声と共に一つの言葉を。
言霊を吐き出す。

『化け物』

の唇が呼吸を忘れたかのようにわなないた。

完全な闇と化した空間を、の引攣った悲鳴がつんざいた。