冬薔薇の棘を身に纏え




時々、俺の精神は脆くも壊れる。

一回砕け散ったそれを丁寧に集めて繋ぎ合せてくれたのは、彼。
何時も何度も、真綿で包むように優しく庇ってくれたのも、彼。

では、彼のいないこの世界で俺はどうやって自己を繋ぎとめればいいのだろうか。

神に縋るか。
仏に縋るか。

誰でもいいから、『橘』を。
誰か。




一章  捌

神将たちを見送った晴明は、手燭を携えて、露樹のもとへ向かった。
訳の分からぬ暗闇にさぞ取り乱しているだろうと思ったが、賢明にもみだりに動かずにいた。
流石は安倍家の嫁である。

「義父上?」

灯りに浮かんだ晴明の顔を見て、露樹は大きく息を吐き出した。
胸元で握り締めた手は、細かく震えている。

「いったい何が……?あの子たちは、あの子たちは無事なのですか?」

真っ先に我が子の安否を気にする母の強さよ。
それに晴明は笑んで答えた。

「わしの式神がついておる、」

心配はないと続けようとしたのを遮って、悲痛な叫びが闇を切り裂いた。

聞き覚えのある、子供の悲鳴。
薄暗いなかで二人の顔がさっと青褪めた。

「勾陣!」
「ああ!」

晴明の声に答えて、悲鳴の聞こえたほうに勾陣が駆け出した。
勾陣が気配を探ってみると、騰蛇の気配は昌浩とともに部屋の中にある。
そして部屋の外、僅かに離れた廊下に気配が一つ。

そばにおかしな気配はないが、今なお続く尋常でない悲鳴。
それを頼りに勾陣はうずくまる子供にたどり着いた。

「冬華!」

勾陣の声に細い肩がびくりと揺れて、悲鳴がやんだ。

そろそろとこちらを見上げる瞳には熱のような狂気を孕んでいる。
この闇では何も見えまいと、勾陣の神気が銀色の揺らめく光を生じさせる。
勾陣を見てか、それとも自分の心が生んだ幻を見てか、黒瞳が限界まで見開かれた。

の瞳に恐怖がにじみ出た。

「ちが…っ、おれの…せいじゃな…っ」

じり、と後退ったの目から涙が一筋頬に伝った。

「ばけ、ものじゃ…な…っ、」

細い指が爪を立てるように、頭を抱え込む。
尋常でない様子に勾陣はとりあえず落ち着かせようと、に手を伸ばした。
その白い腕を何と見紛えたか、は一層大きく悲鳴を上げると、欄干を越えて庭に飛び降りた。
当然、子供の身体で何も見えない中、無事に着地出来る訳がない。
もんどりうって地面に転がったを助けようと、勾陣が脚を踏み出す。

「…くっ、来るなーっ!!」

突如、勾陣の四肢が抗いようのない力で縛られる。
神気を爆発させて逃れようとしても、拘束はまったく揺らがない。

喉が嗄れる程に悲鳴を上げて、はまろぶように庭を駆け出した。

「冬華!待て!!」

勾陣は必死に自由になる唇で叫ぶが、子供の姿はすぐに闇の中に溶けていった。


は暗闇の中、何度も転びながら走り続ける。
堅い何かに躓いて、胸を強かに打ちつけた。
一瞬詰まった呼吸にパクパクと口を動かして酸素を求める。

地面に四肢を投げ出したまま、不自然に上がった呼吸をようやっと静める。
もうを呼ぶ声は聞こえなかった。

自分を取り囲む環境が橘とは違うことを理解していても、時代を越えてなおある記憶はどこまでもを苦しめた。

否、そんなことよりも。

『安倍冬華』という存在に恐怖した。

格段に上がった霊力。
それは安倍晴明の血を引くからか。

こんな存在はあってはならない。
親殺しよりも恐ろしい。
世界の滅びも、この掌の上。

自分のような存在がこのような力を持ってはいけない。

「言霊をとかなきゃ……」

は痛む手足を叱咤してよろよろと立ち上がった。

どうしたらいい。
解き方などわからない。
死ねば、効力は失われるのか。

先ほどとは打って変わって、は冷静に思考を始めた。

神に縋るしかないか。

京の四方の一つを司る霊峰、貴船。
十拳剣の柄に滴った血より生まれた祭神、闇於加美神。
高於加美神とも罔象女神とも呼ばれるかの神は、地祇、水神にして国内で五指にはいる高位の天津神。

かの神ならば必ずや。

貴船に、行かねば。

身動きの取れない闇を打開するために、有効な術を探す。
かつて、知識だけでもと頭に叩き込んだ様々な術の記憶は、必要に伴って脳内に浮かび上がった。

「輝き照らす光明の加護……っ、夜闇を切り裂き導と誘え……っ!」

陰陽術とはまた違った系統の術ではあるが、暗視の術には変わりない。
ぼんやりと見通せる道筋を見て、自分が暗闇の中、安倍邸を抜け出していたことに気付いた。

神将に後をつけられぬよう、術で気配を断って、都の北方、貴船山へと駆け出した。



貴船まで、大の大人ですら半日かかる。
船岡山を越えるか、迂回するか。
どちらにしろ、時間も苦労も同じほどだろう。
ましてや子供のにはたどり着けるかどうか分からない。

それでもはただひたすら走っていた。
擦れて痛む素足も、早鐘のように打つ鼓動も全てを無視して、人気のない暗い道をただ走った。
人々は屋敷にかなう限りの火を焚き、誰も出歩く気配はない。
おかげでは誰に見咎られることなく、都を抜けた。

時間にしてどれほど経ったかは分からない。
じりじりと焼け付くような焦燥に駆られながら、は冬の色濃い貴船に足を踏み入れた。
ここに来るまでに、の髪は乱れ、梅襲の五衣は裂けて泥にまみれていた。
純白雪の上に泥と血で汚れた足跡が続く。

雪に覆われた貴船の本宮は荘厳な気配を放っていた。
不可侵な神域というものを目にして、は無意識に膝をつく。

本宮の奥、船形岩を拝むようにして身を伏せた。

「恐れ多くも天津神の御神域を穢し、畏み、畏みて貴船に神代より坐す罔象の祭神、闇於加美神に謹んで勧請願い奉る」

風がの乱れた髪を攫った。

「人の子でその名を呼ぶ者がいるとは」

自然と身体が凍りつくような声が頭上から降り注ぐ。
船形岩に凄絶な神気を放つ神が、人身を取って降り立った。

「理に外れ、器を違えた罪の子がこの神に何の用だ」

上げた瞳が合った神の眼差しは、欠片ほどの優しさすら見られない。
ただ感情の読めない冷たい瞳が、を貫いて険を倹を滲ませた。