憎しみでも、悲しみでも、情の深さゆえでもない。 下された罰が我が魂を変えたのか。 それともこれが俺の本性だったのだろうか。 母を殺して、生き延びた俺の。 のうのうと、まだ生きている俺の。 ならば俺の、『橘』の末路はいったいどこにあるのだろう。 冥府の門のその奥か。 もしくは、遥か千の年月の先、あの時、あの場所だったのか。 一章 玖 はかねてより古神道の家系とはいえ、神の御尊顔を目にしたことなどない。 現代の人々は神に対する信仰も薄れており、神がその神通力をもって何かするなど誰も思わない。 だがこの時代は神々が霊地に住まい、その加護も霊験もあらたかである。 顔を上げたは初めて目にする天津神の桁違いの霊力に心の臓を握られているかのように感じた。 何を言おうにも言葉が出てこない。 「人の子よ。器を違えた罪深き子ども。我が名は高於加美神とした。……して何用か」 降り注ぐ神の言葉が見せるのは荒魂。 身を刺すような神気よりも、二度言われた言葉がは気になった。 「器を違えた……?」 訝しげに呟いたに寒気のするような笑みを口の端に浮かべ、高於加美神は首肯した。 「その身体が発するは女のもつ陰の気。しかし魂の色は男の陽の気を発している。まるで男の魂が生まれくる女の身体を奪ったかのようにな」 高於加美神は、その言葉にの顔が色を失ったのを見逃さなかった。 つい、と高於加美神が細い腕を掲げる。 それを目で追ったは強い衝撃を受けて仰け反った。 がくん、と支えを失った頭が白い雪の上に埋まる。 雪に手をついて上体を起こしたは唐突な神に文句を言うわけにもいかず、怪訝な視線を向けるに留めた。 「名は」 短く強い言葉で詰問され、は二度の瞬きの後に口を開いた。 「安倍−」「私はその姿の名を聞いている」 高於加美神に言われて、ようやく自分の姿を自覚した。 幼子の頼りない手足ではなく、しっかり筋肉のついたもの。 視界に入る前髪は柔らかな栗色。 身に纏う衣は五衣でも洋服でもなく、異国風の、ちょっと着る者のセンスを疑うようなもの。 肩が剥き出しの羽織りのような物を腰帯で巻き、下半身はチャイナ服のようにスリットの入った長い布で覆っただけ。 首には白色の鎖が幾重にも巻きつき、手足には有刺鉄線を思わせる黒環がはまっていた。 「その姿、もはや人ではないな」 神の言葉に驚いて顔を上げる。 開いた手のひらの爪は墨を塗ったような黒。 安倍家で見る神将のような人外の姿。 はよろよろと立ち上がって、呆然と自らを見下ろす。 再び顔を上げた時にはその目には抑えきれない激昂の色があった。 「何をした!?」 相手が神だということも忘れては食ってかかる。 「何もしていないさ、それはお前の魂の姿。お前の身体は」 ここにある、と神はが先ほどまで跪いていた場所に横たわる身体を指差す。 白い雪に少し沈んでいる幼い身体。 「お前は理を犯した。人の身で天の定めた摂理に逆らった。それ故にお前の魂は鬼に堕ちた。…………もとより魂は穢れていたようだがな」 その言葉に強く拳を握ったは、明けることのない闇を見つめる。 そして当初の目的を口にした。 「…………神よ、この闇は晴れぬのでしょうか」 に向けた神は、口元を歪めて笑った。 「人の身で神を完全に封じることなど出来ぬ。遠からず闇は去る」 ほっと肩で息をついたは自分の身体を抱き寄せた。 強く抱くと棘を備えた黒環が肌を傷つけてしまう。 「……橘、親を殺した私の名です。……神よ、あなたは私に裁きを下されますか?」 の言葉に高於加美神は静かな声で返した。 「そうしようと思っていたが……鬼に堕ちてなお生きさせる方が罰に値するようだな」 神が軽く手を振ると神聖な風が巻き起こり、は『冬華』の肉体に戻っていた。 もう慣れきっている幼い身体にどことなく安心し、胸を撫で下ろした。 先ほどまでの姿は確かに橘の面影を残していた。 が、視界に入る人外の証がないだけでこちらの姿の方がずっといい。 特に自分たちの姿が気に入っていたわけでもない。 「高於加美神、お願いがございます」 凪いだ瞳では臆することなく神を見つめた。 静かな声はその分、胸の内に渦巻く激情を抑えるようで。 「再び、私の所為で再び天の理が犯される様なことがあれば」 声は闇に響いて溶けていく。 淡々と語られる言葉に高於加美神は眉をひそめた。 「その雷をもって、我が身を打ち滅ぼしてください」 高於加美神は内心、面白いものを見つけた、と思った。 冷静さと激情を幾重にも重ね合わせたように不安定な子供。 自らを肯定する芯を持たず、ただの分不相応な力を持つただの人間。 神である自分にすら気づかせず、天を封じた。 それに僅か驚きを抱きながらも、決してこの者に興味を抱いたわけではない。 鬼に堕ちたことも関心の外。 ただ、この神の気まぐれを掻き立てたのは。 いっそ静かすぎる瞳。 祖父によく似た面差しの時も、人外の姿になった時も。 これだけは変わっていなかった。 全てに絶望して濁っているわけでもなく、純粋な色だけでもない。 底知れない瞳。 こんな目をするものは見たことがなかった。 死なせるのはつまらない、と高於加美神は思いついたことを口に上らせた。 「お前、私に仕えるつもりはないか」 唐突な言葉に静かな瞳に驚きが混ざったのを見て、高於加美神は人の悪い笑みを浮かべた。 「この貴船には宮司どもはいても守護妖はおらぬ。もとより必要ないとして創らなかったが、一匹くらいいてもいいと考えた」 「………妖ではありませんが」 憮然としたの言葉を黙殺し、高於加美神はなお続けた。 「再びがあろう時はこの神が止めてやろう」 言われた言葉には動きを止めた。 「我の招請には必ず答えて参ぜよ。別に我が側に侍れとは言っていない。家を出るもよし、出ないのもよし。ただ私が呼んだ時に来ればよい。如何する、」 神に名を呼ばれたことにまず驚き、はしばしの逡巡の後に是、と答えた。 予想通りの答えに女神は艶やかな笑みを浮かべた。 |
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