弐 新学期が始まって、一週間が過ぎた。 コンビニ弁当の箱を不燃ゴミの箱に突っ込み、次の授業の教科書だけを机の上にのせて席を立った。 それに慌てたように前のやつが弁当の中身を口に詰め込んだ。 「、待って!俺まだ食ってる」 諦めの良さが災いしたか、いつの間にやら金魚のフンのようについてきたあいつこと槙原晃樹は俺の前で飯を食うのが常になっていた。 席替えのクジをこっそり交換してまでひっついてくるのには辟易したが、今はもう勝手にさせている。 あいつ以外は俺を遠巻きにしていて、一部を除き俺の理想どおりだ。 なあ、なあ、なあ。 あのさ、あのさ。 どれだけ邪険にしても、槙原はめげることなくついてきた。 辛辣な言葉にもへらへら笑って柳のように受け流し、人の領域に土足で踏み込んでくる。 人につきまとわれるのには慣れている。 ご機嫌伺いの成金ども。 俺が“”でないとわかればすぐはなれていく。 勝手に荒らして、そしてどうせ―――。 オマエモ“タチバナ”ガイインダロ? 「いい加減しろ!」 考えているうちに自分で腹がたってきた俺は一言怒鳴りつけて教室を飛び出した。 立ち入り禁止のばずの屋上は、何故か鎖が切れていて人が出入りしたような跡があった。 重い扉を開け放ってフェンス際まで足を進める。 下には桜の木が並び、吹き散らされた花弁が敷物のように広がっていた。 もう桜の季節も終わる。 肺の空気を全て吐き出すような溜め息をついて、俺はフェンスに背を向けた。 扉に向けて歩き出した刹那、ねっとりと絡みつくような悪寒が背筋を這い上がり、脚が意志に反して動きを止めた。 わずかに自由になる顔を錆び付いた機械人形のように動かして、背後を見る。 どくんどくんと耳にうるさい鼓動だけが聞こえる中、見開いた瞳が黒い影を認めた。 それはあまりにも不自然な影。 ひし形が連なる緑のフェンス。 その向こうに立っている訳ではない。 そこは僅か10センチほどしか幅はない。 まるで下の階から壁を這い上って来たかのように、黒い手がフェンスの下のほうを掴み、黒い顔が口元までを覗かせていた。 俺は悲鳴を噛み締めて、脚を地面から引き離そうともがく。 にたぁ。 影は俺を見ると、黒い顔に対照的な白い歯を剥き出して笑う。 ずっ、ずっ、ずりっ。 不自然な動きでフェンスを越えてくる影。 影の全容が露わになると、それは完全なヒトの形をしており、露出した皮膚が墨のような黒に染まって腐臭を放っていることを除けば、女子学生の姿だった。 「怨霊………!」 現代。 かつてはびこっていただろう雑鬼や地霊は少ない。 それよりも、怨霊やら怨磋やら呪詛紛いの祟りやら果ては俄か降霊術など人の手によるものばかりだ。 まったく、タチが悪い。 鼻を突く悪臭に顔をしかめた俺は、速い鼓動と動かない体のわりに思考だけは冷静だった。 まったくもって自慢にならないが、こういった状況に陥ったことは幾度もある。 血筋ゆえに『狙われやすい』のだから、それなりの装備はいつも持っている。 少しずつ。 両脇に垂れた腕を胸元に持っていく。 視線は異形を縫い付けるように離さず。 ワイシャツの上で揺れるアクセサリーのような安っぽい数珠を掴んだ途端、俺に向かって押し寄せる妖気が膨れ上がった。 「うっ……ぐっ…!」 唐突にこみ上げる吐き気をこらえて俺は腕を振るった。 フェンスと俺の距離は僅か2メートルほど。 跳躍した異形が俺の喉に手を伸ばすのと、俺が数珠を引きちぎるのは同時だったか。 ばち、ばちっ。 コンクリートの地面に音をたてて散らばったそれが異形を囲んで結界を織りなした。 自分を囲うのでは意味がない。 待ってたって助けは来ないんだから。 だが俺にはあいつを祓う力がない。 例えいつ死んでもいいって思ってても、死に方くらい選ばせて欲しい。 異形に喰い殺されるのはごめんだ。 だっと駆け出して、俺は飛びつくように扉を開けた。 素早く中に滑り込んで、ノブに持っているもう一つの呪具を巻きつけた。 身を翻して三段飛ばしに階段を駆け下りる。 俺が今までこういった類のものと渡り合ってこれたのは、運動神経の良さによるものが多い。 最後の段を飛び下りてずるずると床に座り込んだ。 どうやら俺が思うより気にあてられていたようだった。 「くそ……っ」 「くーん、どっこですかー、返事しろー」 やけに気の抜けた声が廊下に響き渡った。 それ以外は静まりかえっていて、いつの間にか五限が始まったことがわかる。 「こら、周りは授業してるんだ。静かに探せ」 教師の言葉に声の主が素直に返事すると、扉が閉まる音がして、足音が俺が座り込んでいる階段に向かって来た。 |
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