無常の風は時を選ばず








《ナレーターside》

畳独特の青い香りに、はふう、と安堵の息をついた。

裏口から最も近い離れが、の部屋となっている。
母屋の南にひっそりと建った小さな離れには、以外、誰も住んでいない。

部屋は八畳の居間一つ。
専ら食卓とも寝室ともなるそこには、座卓と箪笥、低い本棚しかない。
簡素な流しとトイレ共用のバスタブがあり、一つの家としての機能を果たしていた。
電話回線も、完全に母屋とは別である。

自分だけの小さな世界。
橘という名の檻にして、という名の楽園。

好き好んでそこを侵すものはいない。

胸に溜まったかに感じられた汚臭を精一杯吐き出し、は床に座り込んだ。

今なお指先が震える。
意志で止められないそれを、は忌々しげに見下ろした。

震える手でようよう着替えをすませ、楽な服へとなった頃には、体に残る悪寒もなくなっていた。

この家は、住んでいる者の心はともかく、清浄な気に満ちているのである。

ハンガーにかけた制服には僅かな伽羅が香っていて、その落ち着く香りに、次からは伽羅を焚きしめておこうか、と考えた。
隅に畳んである布団を広げ、真っ昼間にもかかわらず、はもう完全に眠る体勢に入っていた。

を目眩のような頭痛が襲う。
悪寒は拭われた今でも、疲弊した精神と肉体は確かに休息を求めていた。

瞼がゆっくりと落ちて、深い眠りに沈むまで、そう長くはかからなかった。



鼻孔をくすぐる新緑の香りがした。
ふっ、と目を開けると、そこには樹齢何百年にも及びそうな木々。

柔らかい苔の生えた岩に、は寝ていた。

「どこ……だ?」

それに答える声はなく、が身を起こすと、いつからいたのだろうか、栗鼠が慌てて逃げて行った。

鬱蒼としているわけでもなく、葉を通して差し込む木漏れ日が、暖かな雰囲気を作り出していた。

「すごい、霊気だ……」

その柔らかな空間とは反して、この森の気配は肌を刺すようなほど激しい霊気。
桁違いのそれは厳かに、冷厳なる覇気をもっての心臓を鷲掴みにした。

何神かの神域。
現世ではありえない。

まだ邪気に穢されている心が洗われるのを感じる。

はまたその場に横になって、静かに目を瞑る。
眠るわけでもなく、ただ目を閉じていると、とても懐かしい過去が思い出された。

まるで、走馬灯のように。

いかに記憶力のいいと言えど、生まれてすぐのことなど覚えていない。
ただ、物心ついた頃には、自分に向けられる視線が決して好意あるものではないことに気付いていた。

子供心にそれが悲しくて、唯一自分を見てくれる母に依存した。
体調を崩して伏せっていることが多い母に会えるのは、わずかな時間だけであったが、その時間はの支えとなっていた。

ある日、母の口から弟妹が生まれることを聞いた。
弱った母に対する心配よりも、ただ嬉しかったのだ。

そして、台風が本州を直撃していた9月の始め。

皆に望まれて、弟は生まれてきた。

自分と同じだと思ったのだ。
この冷たい家の中で手を取り合って、成長していくと。

は産褥の母のもとに駆けつけた。
そこにはここ数ヶ月顔を合わせていない父がいて、赤子はその腕にだかれていた。

母の顔色の悪さを心配するとともに、赤子を、弟を抱き上げてみたくて、父のそばに駆け寄った。

『お父さん、僕―――
『つまみ出せ、無能が感染る』

何が起きたか分からなかった。
陰でよく耳にする言葉、『無能』。
まだその意を理解してなかったため、突如部屋から放り出された時には、驚きが先に立った。

縁側に放り出されて、茫然と見上げた先には父の式神。
高位のそれはそばにいるだけで、威圧感を与えられる。
母の部屋の障子が目の前で閉められた時、自分の居場所がどこにもなくなったことを知った。

は哭いた。
獣のように叫び声をあげ、自分の部屋で泣き疲れて眠りにつくまで、ずっと叫び続けた。

どんなに騒いでも、誰もの部屋を訪れなかった。

そして翌日、父親がの部屋を訪れた。
破れた障子も倒れた棚も気に留めず、ただ一言。

『この部屋を出ていけ』

そうしては弟に母屋の部屋を明け渡し、誰も使っていない離れへと住み移った。

3歳にして、家族とは完全なる隔絶状態となった。

やり場のない怒りや憎しみが内臓を焦がすように燃え盛っていた。

母にも会えず、母屋に行くことも疎まれるようなは、いつの間にやら人と会わない生活が続いていた。

塀の外に出ることはなく、そのままは5歳、弟のは2歳を迎えた。