無常の風は時を選ばず







5歳。

3歳までは、人の気を引くために、一生懸命努力したり、時にはドジ踏んでみたりした。
それに答えてくれる母もいた。
しかし何をやっても存在すら認知されないのはどれほどの苦しみだろう。

怒りは突き抜けて。
悲しみは深淵に沈んで。

虚無となったに一つの報がもたらされた。

曰わく、母が精神を病んだ、と。

その知らせを受けて、は一度だけ母のもとを訪れた。
それまでは2年近く、顔すら合わせていなかったのだ。
2年前よりやつれ果てた面差しの母は、今はが住む離れの対の建物に隔離されていた。

『お加減は如何ですか』

声をかけてみて、自分の声を久しぶりに聞いたような気がした。
2年、声を失ったように過ごしていたのだから、それも道理だ。

『まあ、ご丁寧に。当主のお弟子の方ですか?』

病み衰えたわりにしっかりとした声で答え、母はに頭を下げた。

ぐっ、と息がつまるのを感じ、それでも平静でいられたのは、母という存在にすでに思い入れをなくしていたからだろう。

『いえ、と申します。あなたの、息子です』

それでも真実を口に出したのは何故だろうか。
やはり諦めきれなかったのだ。
自分を見てくれる存在を。

ころころと、母が笑った。

『ご冗談を。あの子はあそこにいるではありませんか』

指し示した先を見て、は思わず口元を覆って吐き気をこらえた。

そこには出来損ないのヒトがいた。
作り物のヒトガタに低級の母恋しい念を持つ霊を封じたもの。
外見はに似ても似つかない。

『当主が連れてきて下さいましたのよ。寂しがっていると思ったものですから。可愛いでしょう、私のたった一人の息子です』

それを聞いて、堪えきれなくなった涙が、握り締めた拳に落ちた。

哀れな狂女になんて仕打ち。
父は子を求める母の手になんとおぞましい物を抱かせるのか。

一見、狂女には見えぬ。
だが、彼女の中で事実が歪められて認識されていることは間違いない。

パラノイア。

現代医学ではこのように呼称される。

何故母が。

滴り落ちる涙を拭う手はなく、疲れて眠る膝もない。

は母が『の役割を果たすモノ』を抱き寄せる姿を最後に、静かに襖を閉じた。

それを最後に、あの対の離れには行かなかった。

は狂った母に『』と認識されていなかった。
は狂った母に『存在』を認識されていなかった。

さて、どちらが不幸だろうか。




「………嫌な事思い出した」

ぱたりと額に手を当てて、水のようにとめどなく流れる記憶を遮断した。

この不思議な空間は、いつもは押し込めているような記憶まで呼び起こす。

今でこそ特別な感情もなく『嫌な事』で済ませられるが、やはりあまり思い出したい記憶ではない。

はあ、と大きく息を吐いて目を開いた。


…………………………。


青々とした葉と差し込む木漏れ日が目に入ると思いきや、自分の顔を覗き見てるのは一匹の栗鼠。

目が合っても、今度は逃げようとしないそれをそっと左手で包み、胸から引き剥がす。
が、するりと手から抜け出た栗鼠はシャツの袖口から中に入り込み、の腕にむずがゆさを残して襟から顔を出した。

「………お前」

我が物顔で頭によじ登った栗鼠は其処を定位置と決めたか、の茶髪に身を沈める。

「………何だよ」

栗鼠に言葉が通じないことなど分かっているが、思わず溜め息混じりに尋ねてしまった。
手を伸ばして頭から下ろそうとすると猛烈に暴れる。

の手を交わし、ごくたまに前足で叩き返し、が諦めるとそれはもう満足そうに一声鳴いた。
あまりのしつこさにもう呆れるばかりだ。

「『アイツ』みたいなヤツ………。さて、と」

前かがみになって立ち上がると、危うく落ちかけた栗鼠が五月蝿くきーきー鳴いた。
衣服についた苔を払って、は首を巡らせる。

「もう起きなきゃな………」

はここが夢を通しての異界であることに気づいていた。
目を醒ませば自ずとここから離れられる。

は、もう一度寝たら元に戻るかな、という安直な考えを実行し、寝心地の良さそうな別の岩に移って横になった。
栗鼠はの耳の横を通って、鎖骨の下あたりにに小さく丸まった。

柔らかい感触を地肌に感じながら、はゆっくりと瞼を落とした。