彩雲ノ章


十一




何事もなく冬を迎え、まもなく新年という頃。

は邵可に頼まれて、出仕に同行していた。
何でも仕事場である府庫に、会わせたい人がいるらしい。

母と秀麗が三人前のお弁当を作ってくれて、父に手を引かれて登城した。

府庫の戸を開けると、古い紙の匂いと墨の匂い。
床を強く踏み鳴らして音を拾えば、奥に人が座り込んでいる。
その動きで、邵可はが府庫の中の様子を察知したことがわかったのだろう。
奥に一人足を進めると一人の幼子の手を引いてきた。

「だ、誰だ?」

びくびくと怯えを露わに尋ねた子供は、幼子といってもより頭二つは余裕で大きい。

「劉輝様、先日話していた息子のです。相手をしてやって下さいますか」

突然連れてこられて、まるでが相手をして『もらう』ような言い方に、逆なんじゃないの、という意を込めて邵可の袖を引いた。
それに対して宥めるように背中を叩かれ、何となく事情を悟ったは袖から指を放す。

きっとひとりぼっちで、その事がおかしいとも思えないような境遇の子なのだろう。

「キミ、名前は?」

トコトコと歩み寄って、その顔をのぞき込むように身を乗り出す。

「紫、劉輝……」
「ふーん、いいよ、なにして遊ぶ?」

と言っても、と劉輝で共通に遊べるものなど限られている。

「あ……、本を読もう」
「それって二人ですること?」

だいたい僕まだあんまり字知らないから読めないんだよね、何とか読めても時間かかるし、と言うと劉輝はあぅあぅと困ったように手足をばたばたさせる。
完全に二歳児に負けている。
そこで邵可は劉輝のために横から言葉を付け足してやった。

「劉輝様が本の読み聞かせをしてくれるそうだよ。良かったね、。この機会に字も教わるといい」

そう言われては仕方ない、と肩を竦めた。

隅の空いている卓に陣取ったは、邵可に持ってもらっていた荷物を受け取って腰を下ろす。
てっきり本を取りに行くもんだと思っていた劉輝は、手持ち無沙汰にの周りをうろうろする。
それには構わずに、机にもたれかかってこてん、と顎をつけたは立っている劉輝に顔を向ける。

「楽器の本とかがいいな」
「確か宮廷楽師の譜があると思うが、その、それは読み聞かせ出来ないだろう」

うん、と頷いたは、作曲以外は聴いて暗記で、譜面があっても意味がない。

「じゃあ………昔話みたいなの。あんまり難しいのはヤダよ」

劉輝はの言葉にぱっと表情を輝かせると、ぱたぱたと駆けていって一冊のそれほど厚くもない本を持ってきた。

「彩八仙は?音仙の話もあるぞ」

年の頃八つほどの劉輝には、小さい弟が出来たようで嬉しいのだろう。
実際は遥かの方が年上なのだが、誰もが世話を焼きたくなるようなオーラがにはある。

「音仙?彩八仙は知ってるけど…………音の仙人様?」

首を傾げるの様子に満足そうな表情を浮かべた劉輝は、椅子を引いての横に腰掛ける。

「彩八仙の国語りの前に世界を創った仙人のお話があるのだ」

得意気に教えるような口調で言った劉輝は本を開く。
子供向けに書かれたその本は八歳の劉輝でも読むことは容易い。

「昔々、この国が形をなす前は――――………」





昔々、この国が形をなす前は、世界そのものが混沌としておりました。
そこで天帝は、その世界に土の大地を創りました。
地に聳える木々を創りました。
天の飛ぶ生き物と、地を駆ける獣を創りました。
そして自らの形に似せて、『人間』を創りました。
その人間が天帝に訴えました。

我々は弱い生き物です。
この暗闇の中では生きていくことすら出来ません。

彼らの言葉に全ての生き物が同意しました。

何かいい術はないだろうか、と困り果てた天帝は、自らの弟に尋ねました。

この王弟は、輝く金と銀の瞳をしており、体には色とりどりの錦の布を纏い、その力を何かに使おうとすることはなく、ひっそりと天の端におりました。

天帝から相談を受けた弟は自らの金の目を取って、天の空に置きました。
こうして金の瞳は世界を照らす太陽となりました。

人は始めのうちは喜んでいましたが、しばらくして、ずっと照りつけられるのは嫌だと言い出しました。
そこで太陽は世界の周りを回るようにして半日だけ世界が明るいようにしました。

人は始めのうちは喜んでいましたが、しばらくして、完全な闇になってしまうのは嫌だと言い出しました。
そこで王弟は残りの銀の目をとり、天の空に置いて太陽の後を追うようにしました。


こうして太陽と月が出来たのです。

天帝は弟が両の目を失ってしまったことに悲しみました。

しかし王弟は言いました。

光や色を失っても、私にはまだ音が残されています。
私は人々の喜びの声を聞き、鳥の囀り、獣の遠吠え、樹木のざわめきを聞いて世界を見ましょう。
せっかく生み出した国を荒廃させるようなことはしないでください。
私の耳に人々の悲しみの声を聞かせないでください。




「なんか創世記みたいなお話だね」
「創世記?」

卓に肘をついていったに、劉輝の疑問を浮かべた顔が向けられる。

「うー……ん、神様が世界を創った時のお話」

クリスチャンでもなく、実際は話で聞いただけなので、も説明してくれと言われたら困る。
そこでは本の内容へ話の流れを向けた。

「なんだか僕はこの天帝の弟、好きになれないかも」
「そう、か?私はすごく優しくて好きなのだが………」
「甘やかしすぎだよ。確かにね、人間を作ったなら生きていく上で最低限の状況を揃えるのは必要だと思うよ?でも、植物などの面で太陽の分の目まではともかく、その後の日没とか月とかは人間の勝手じゃない?」

何故だかこの話に苛立ちを覚えて、いつになく不機嫌な口調で言ったに、劉輝はおずおずと反論する。
どうやらこの本は結構お気に入りらしい。

「私は、その、暗いところは怖い。全部真っ暗になるのは嫌だ。だから、この人間たちの気持ちがわかる」
「でもね、人間たちはどんどん欲張りになってるんだよ?真っ暗嫌だから太陽くれ、ずっと光があるのは嫌だから夜をくれ、夜が暗いから月をくれ。最初の何にも与えられてない真っ暗闇の時は、月のことなんて言い出さなかったはずだよ」

ぷんぷんと頬を膨らませて言うは劉輝に口を挟ませる暇なく、言葉を続ける。

「まあ、人間はないものねだりする生き物だけど」

諦めたようにそうつけ足して、は見えない目で二、三度瞬きをした。

「その………は見えないことが怖くはないのか?」

どっかで似たような質問されたなぁ、なんて思いながら、は劉輝の言葉にふるふると横に首を振る。

「怖いとは思うけど、多分君が考えてるのとは違う怖さだよ。――――君はなぜ暗闇が怖いの?」
「真っ暗で……何が潜んでるかわからなくて………一人ぼっちになってしまったみたいで……………」

闇にトラウマでもあるのか、体をすくませた劉輝。
はそれを感じ取って、僕慰めるのって苦手なんだよなぁ、兄さんの専門分野だよね、あれは。なんて考えながら、結局何かを動作で返してやることはできなかった。

「僕は闇が怖いと思うのは、別にそんな理由じゃない。僕は盲目だし、それは普通のことだから特別に怖くなることはないよ。ただ怖いのは初めての場所を一人で歩く時。この先に崖があるかもしれないなんて考えると足が竦むね」

でもまあ、その分聴覚が優れてるからちょうどいいんだけどね。

「普段見えてるからこそ、それがなくなった時が怖いんだろうね。そういう怖さは僕なら、耳が聞こえなくなったときに感じれるのかな?うわ、想像しただけでヤダ」

劉輝に続いてぶるっと身を震わせたに、劉輝が頭を撫でた。

「…………なに?」
でも怖い事があるのだな」
「当たり前だよ。僕だって怖い事の一つや二つや三つや四つや五つや六つくらいあるもん」
「…………多いな」
「うるさい」

がぷんっと頬を膨らませてそっぽを向くと、劉輝が声をあげて笑った。
はそっと手を伸ばしてその頬に触れる。

「……?」
「合格」

本当に心から笑っている笑顔。
の前では年下と言うこともあって結構表情は動いていたようだが、それにしてもこの年齢にしては表情の変化が乏しい。
邵可がに任せたのはこういう意味もあるのだろうと思った。

「あ、のびる」

何気なく掴んだ頬がむにむにと伸びる。

「すごい、子どもってこんなに伸びるんだ」

自分も子どもなのを棚に上げては劉輝の頬を伸ばし続ける。
仕返しとばかりに劉輝もの頬を掴んだ。

「ひゃにふるんだー」(何するんだー)
「ひょっちこしょー」(そっちこそー)

年が大して変わらない兄弟のようにお互いが心の底からじゃれ合っている。

二人が同時に手を離し、はひりひりする頬を押さえて涙目になった。

「僕こんなに強くやってない…………」
「え!す、すまぬ。痛いか、な、なくな」

ただの頬の方が伸び率が少なかっただけではあるのだが、劉輝は途端に心配げな顔になっての頬を摩る。

「ん。だいじょぶ」

顔を上げたの閉じられた瞳を見て、劉輝が決心したように声を絞り出した。

、私がお前の常日頃の“目”となる。だから………暗闇では私の“目”になってはくれないだろうか」

がいれば、暗闇でも平気な気がする、と劉輝は弱弱しく微笑んだ。

「…………ヤダ」

一瞬ショックを受けた顔をした劉輝は慌てて寂しげな笑みを浮かべて、何でもないように言葉を返した。

「そ、そうだな、私なんか」

言いかけた劉輝の額に、は思いっきり容赦なくデコピンをかました。

「???」

涙目になりながら混乱する劉輝。
それに対しては淡々とした口調で、言葉を投げる。

「君、お―じサマなのに僕の常日頃に関われるわけないでしょ。だいたい怖かったのは昔の話で、今なら慣れてるから音で周り察知するのなんて朝飯前だから。別に君に目になってもらわなくて平気だし」
「そ、そうだな………………」
「なに勘違いしてるの?僕が君の“目”になることは否定してないよ」
「え?」

本当に予想外、と言った感じで劉輝は瞠った目をに向ける。
それには苦笑を浮かべて、今度は満面の笑みで手を上げて劉輝に向き直る。

「宣誓!僕、紅は、一緒にいる限り、紫劉輝の暗闇における目となることを誓います!」
………………」
「でも、多分いつか暗闇は怖くなくなると思うよ」

は初めて大人びた表情を浮かべて劉輝を見た。

「何物にも代えがたい、大切な人が出来たら。自分を本気で大切にしてくれる人が出来たら」

暗闇は一人を思わせるから、怖い。
ならいつだって一人ではなくなればいい。
心にいつも誰かがいればいい。
その人を思えば暗闇すらも怖くはなくなるはず。

「なんてったって実体験済みだからね!僕もはじめのうちはそりゃあ怖くて自分一人で動きたくなくて、誰かに手をつないでもらったり抱っこしてもらったりおんぶしてもらったり、一人で寝るのも怖くてその人のベッドに忍び込んだりしたけど、その人のおかげで一人じゃないって実感できたらから、見えなくても怖くないよ」
はその人のことが本当に好きなのだな」
「うん。だからね、一人が怖くなくなる秘訣は、一生涯の大切な人を見つけることだよ。それまでは僕が代わりをしてあげるからさ」
「…………ありがとう。うっ」
「あ、泣いた」

突然肩を震わせて泣きだしてしまった劉輝に困った顔をしては周りを探る。
父親の気配を掴もうとして、は珍しく困惑した。
この府庫に自分たち以外にもいそうなのに、確信をもってそれを掴むことが出来ない。
父親の気配なのかどうかそれが何処にいるのかすら分からない。

「とーさまー!劉輝が泣いたー!!」

仕方ないから声を上げて呼ぶしかない。

「な、泣いてない!」
「え、うそ。泣いてたよ」
「泣いてないったら!」
「いいじゃん、泣けば」
「泣かない!」

二歳児の前で泣くのがそんなにも恥ずかしいらしい。
むきになって言葉を返す時点で、の天然台風に振り回されているのだが、本人はそれに気づくよしもない。

「おやおや、が泣かせたのかな?」

突然声がしてがはっと意識を向けるとそれは父親の声。
内心首を傾げながら、はふるふると首を横に振った。

「ううん、勝手に泣いた」
「だから泣いてない!」
「うそ〜。慰めるのは僕の専門外だから早く泣きやんでね」

随分勝手な発言をしながら、は邵可の方に顔を向ける。
話しかける時に、見えないのに顔を向けるのは、あの人に仕込まれたこと。
だから大切な人、話すに値する人には顔を向けるようにしている。

「とりあえずは『相手してもらえて』よかったよ。父様」
「そうかい。…………じゃあ、妻と娘が作ってくれた饅頭がありますから、お昼にしましょうか」

その言葉に劉輝の顔がぱっと輝く。

「私が蒸す!」

声から劉輝が泣きやんだことを察知したは、流石、と父親を見上げる。
何処となく不思議なところが多いが、やはり二児+拾い子一人の父親だ。
子どもの扱いは心得ている。


「ん?」
「ありがとう」
「ん〜、じゃあ、どういたしまして」

くすぐったそうに笑って、は劉輝の後を追いかけた。