赤子である慧は有り余る時間に自分の生まれた意味を考える。 生まれ変わったものは仕方ないと割り切っているが、自分の存在はあまりにも不自然、異物だ。 母、薔君は子を授かる運命になかった。 父と母が自分を至宝としてあやしながら言う言葉でそれは気づいている。 それでも生まれた秀麗は故に今にも儚くなりそうなほど病弱だ。 だが、何故自分は平気なのだろう? うーん、と首を傾げて色々考えても結局答えは見つからない。 どうやら姿形はしっかり父母の遺伝子を受け継いでいるようなことを、ちょっと苦手な叔父が言っていたからきっとそうなのだろう。 ならば自分も欠陥をもって生れるべきだ。 生まれ変わったのに、相変わらず得られない『視力』。 どうやらそれほど文明も発達していない様子のこの世界では原因究明など不可能だろう。 もしかして慧がこの世に、無事に生を受けることができたのは『視覚』という代償を自分で払ったからかもしれない。 この疑念は慧の中で徐々に確信と変わっていくことになる。 時折、体の動きの鈍さに戸惑う以外は、慧は何の抵抗もなく自分が赤子であることを満喫していた。 ここ、紅州の紅家は随分と裕福なようで、生活には何の不自由もない。 温暖な気候と美しい琵琶の音色、李や蜜柑の香り。 どうやら異国のようだが、言葉も問題なく理解できる。 日本語ではなく、ここの言語として耳に入れてなお理解出来るのだ。 これがトリップご都合主義というものだろうか。 「けい!」 呼びかけられた方に寝返りを打つ慧。 幼い声の主は紅秀麗。 新たな姉だ。 どうやら自分はどこまで言っても弟らしい。 大体、幼名とは言え本当の名を呼ばれているとここが自分の知っている世界と勘違いしそうになるのだが。 さっさと名付けてくれないものか。 慧は母親があーでもないこーでもないと色々考えているのは知っている。 それもまあ、ありがたいと言えばありがたいのだが。 「けい」 手が伸ばされて危なっかしく抱き上げられる。 まだ数えで三歳の姉だ。 赤子とは意外に重いもので、支えきれるとは思わない。 案の定よろめいた秀麗を抱きとめたのは、父親の紅邵可だ。 力強く二人とも抱き上げられて、相変わらず優しそうな声で突然のことを言い出した。 「貴陽に移ることになったよ」 首を傾げる秀麗と慧の頭を撫でて、明日発つからね、と告げた。 準備と言ってもまだ立つことも出来ない慧がすることは何もなく、母に抱かれて馬車に乗せられるまでただ寝ていただけだった。 またしても突然茶州に寄ると言い出して、もちろん反論するものもおらず進路を逸れて茶州に向かった。 茶州の関塞の少し手前で宿をとった日のこと。 邵可がどこか出掛けている間に慧は自分の五感がどれだけ通用するのかを調べてみた。 視覚以外の五感が正常なのはもうわかっている。 しかし、以前のように優れているかは分からない。 馬車の中で旅するうちに立ち上がることも覚えた慧は、母が熱を出した秀麗についている間によちよちと歩き出した。 部屋を出て、足音の反響を注意深く捉えながら階段を降りていく。 どうやら聴覚も十分に優れているようだ。 が、立ち上がることを覚えたばかりの赤子に階段を降りるのはつらい。 感覚ではなく肉体がついていかなかった。 ずるっ、と足を滑らせて一瞬の浮遊感。 何かにぶつかる前に背中に大きな手のひらが当てられる。 「大丈夫か?坊主」 降り注いだ声はいまだかつて聞いたことのない声だった。 慧を間一髪のところですくい上げた青年は、名を碧創喜と名乗った。 赤子相手に真面目に名乗ることもあるまいし、お前は?と聞かれた時は正直困った。 「降りてきたってことは上に宿をとってるのか。部屋はどこだ?」 真面目に聞かれて慧も真面目に考える。 部屋の戸から階段まで三十三歩。 今の歩幅からして三メートル位だろう。 さて、それをどうやって伝えよう。 抱き上げられいると歩幅なんて分かるわけがない。 下ろせ、下ろせと全身で主張すると、背中をなだめるように叩かれて、大丈夫だ、ちゃんと親元に帰してやるよ、と言われた。 ちがーう!と言いたい慧を抱えてひとまず荷物を置かせてくれ、と創喜は自分のとった部屋に向かった。 大量の荷物を下ろした創喜は先ほど拾った赤子に向き直った。 赤子が荷物に興味を示してか、引き寄せられるようにふらふらと近寄ってくる。 その一つを無心に触りまくる赤子。 それは………………琵琶。 創喜は楽器を作り出す事を生業としている。 芸術一家の中でも群を抜いて楽器作りに秀でている創喜は、作ることだけに集中し、かなりの実力であるにも関わらず一切奏でようとはしなかった。 本人曰わく、俺の楽器は誰彼問わず奏でられるものじゃない、作者でさえ、だそうだ。 「お前は琵琶を選んだか………………」 琵琶を取り上げて弦を軽く爪弾くと赤子が明らかに身を震わせて喜んだ。 「この前も藍家のクソ生意気なガキに龍笛譲ったばっかだしよ………最近のガキはどうなってんだか。いいよ、持ってきな」 包みに戻した琵琶を慧の前に置いて、創喜は言葉を続ける。 「お前は俺の楽器を選んだ。お前が大きくなってちゃんと弦にも指が届くようになって弾けるようになったら、聞かせに来い。お前が俺の楽器に選ばれたかどうか、判断する。選ばれてなかったら、琵琶は没収だ」 そう言って琵琶と慧を抱えて部屋を出る。 二階の部屋を手当たり次第に当たってすいません、この子お宅の子ですか?って聞きまくる。 創喜があちこち行ったり来たりするものだから慧も自分の位置が掴めなくなってしまった。 「慧?」 天からの救いとばかりに邵可の声が聞こえた。 あー、だー、うー。 声と全身で反応を示す慧に創喜は邵可に慧を差し出した。 「碧創喜と申します。あなたの子ですか」 「はい。どうして部屋の外に」 「どうやら探検にでも出たようで。階段から落ちかけたところを間一髪」 「それはご迷惑をお掛けしました」 慧を受け取った邵可、慧の手が創喜の荷物をつかんで放さない。 「こら」 「いいんですよ。これは譲った物ですから」 琵琶の包みを慧ごと邵可に渡す。 「これは………………琵琶」 「ご子息はこれを選んだので譲ることにしました。碧家職人によくある酔狂です。受け取ってください」 しばしの沈黙の後、邵可は頷いて礼を言った。 「じゃあな、慧坊。約束守れよ」 ひらりと手を降って創喜は自分の部屋に戻っていく。 慧は邵可の逆の手に握られた琵琶に身を乗り出してしがみつき、自分のものと全身で主張する。 「琵琶……………やはり紅家か」 ぽつりと零した邵可の言葉に顔を上げた慧は満面の笑顔だった。 「慧、心配をかけさせおって。この悪戯坊主め」 母の腕に戻されて白いその指で頬を摘まれる。 慧がなおも放そうとしない包みを見て、母親、薔君は怪訝な顔をした。 「何じゃ、それは」 「琵琶だよ」 薔君の問いに邵可が包みを解いて答える。 「琵琶………………そうじゃ!」 「何だい」 「喜べ、背の君。この子の名前が決まったぞ。この子は欠けておったのじゃ。故に本質が見えなんだ。この子の名は。この子は琵琶であり、琵琶はこの子。琵琶無くしてこの子に名前がつけられようはずもない」 「何でそこまで分かるんだろうね、君は」 「良いか、今日からそなたは紅じゃ」 呆れた表情の邵可を置いて、慧、改めに言い聞かせる。 「かぁさま。けいがどうしたの」 薔君の薬湯のおかげだろう、熱も下がった様子の秀麗が起き出してきた。 「秀麗、おいで」 邵可に手招かれてその膝に上がった秀麗は三つ年下の弟の笑顔を見る。 「けい、いーことあったの」 「秀麗、慧は今日からになったんだ」 「ふぅん。えっと、、ね」 「偉い、よく言えたね」 新たな名。 新たな琵琶。 母が言ったのは紛れもない真実。 私は琵琶と共に死にました。 琵琶と共に生まれねば、おかしいでしょう? 新たな家庭も以前同様、幸せなものとなりそうだ。 そこにもう一人加わるのはもう間もなくの話。 茶州であちらこちらを旅して早くも半年が過ぎた。 茶州に入ったのは春だというのに、もうすぐ夏も終わりかけている。 夏生まれのは満年齢にしてすでに一歳を迎え、早くも言葉を操り始めた。 「かあさま。僕たちは貴陽に行くんじゃなかったの」 「そうじゃが、もうしばらく待っておくれ」 頭を撫でられて、幌の中をうろついていたは仕方なく再び荷台に座り込んだ。 大人に匹敵する言葉、頭の回転の速さは父母にはまったく驚くものではなかったようで、声帯が成長し言葉を発せられるようになってすぐ「すいません、私の琵琶がどこにしまってあるのかお尋ねしてもよろしいでしょうか?」と喋ったを前にしても「ほれ、妾の言った通りであろう?聡い子じゃ」とか「うーん、弟に似たようなのがいるから特に驚かないねぇ」などと言われた日にはの方が驚いてしまった。 それどころか、まだ一歳になるかならないかの子供に向かって「余所余所しい口調で話すでない。妾とは母子なのじゃぞ」と頬を引っ張られて要求された。 可愛げのある口調で話せ、と言われたため、身内、身内と自分に暗示をかけながら人見知りをなくし、生前の兄や母に対する口調に戻すことまでした。 「かあさま!おとこの子がお舟にのってながれてきたの」 父と二人馬に水を飲ませに行っていた秀麗がぱたぱたと駆け戻ってきた。 すぐに馬を引いた邵可とその背に乗せられた件の少年も現れる。 「秀麗、を見ていてくりゃれ」 すくっと立ち上がった薔君は秀麗にの世話を任せると、馬車から降りていく。 邵可と薔君の手で馬車の中に運ばれてきた傷だらけの少年は、毛布を重ねた寝床に横たえられて、早速手当てを受ける。 「今夜は街の宿を取った方がいいだろう」 「かあさま、このお兄ちゃんげんきになる?」 「大丈夫じゃ。妾の手にかかればこれくらいどうってことはない」 皆が第三者に集まっているのを不思議に思ったは母の横を通って寝台に一番近い荷物に腰掛け、正体不明の少年ににじり寄った。 つんつん、ぺたぺた、すりすり。 少年のあちこちを撫で回したは次第にその形を頭に描いていく。 目鼻立ちは整っている。 顔の丸み、肩幅からして年は十二、三。 性別男性。 手のひらにマメあり。 髪は癖っ毛。 ある程度イメージ出来たは次に膨らみを感じる懐を探った。 コロリと転がり落ちたのはしゃくしゃくと小豆の音がするお手玉だ。 所々カサついた感触から何かがこびりついているのがわかる。 それをためつすがめついじっているとどこからか緩やかな琵琶の音が流れてきた。 楽琵琶の弦が震える音だけがの思考を支配して、優れているはずの聴覚がそれ以外の音を拾わなくなった。 琵琶の音色に混じって歌が、歌が聴こえる。 指一本動かせないまま、断ち切ることのできない音色に耳を傾けるしかない。 『贖いの手玉』 『父から子へ』 『受け渡さるるは父子の情』 『数多死を見て時を見て』 『今この今に繋ぐもの』 『奈落の外に繋ぐもの』 僅か数節の語りがの脳に焼き付けられる。 なに?と思う間もなく、琵琶の音色に取り込まれたまま意識が朦朧として、途絶えそうになった時。 「!」 邵可は少年の懐から何かを探り当てて動かなくなった息子の肩をつかんで揺さぶった。 いつも焦点のあわない瞳だが、今の虚ろな眼差しは異常だった。 はびくっ、と体を震わせて、数度瞬き、眠気を振り払うように緩慢に頭を横に振る。 震える指先から赤と黒の斑の手玉が零れ落ちて、邵可は思わず手を止めた。 これは、あの人の。 そっと拾い上げたそれを、邵可はに握らせる。 「この少年が起きるまで持っておいで」 ぐっと指先に力を入れたは今度は何も聴こえないことに安堵して、ほう、と溜め息をついた。 何だか背筋がぞわぞわして気持ち悪い。 それに、あの琵琶の音。 琵琶には自信があった。 よく自分の琵琶は他人の世界を壊す音と評される。 その自分が他人の琵琶の音に引きずられた。 思えば琵琶をもらってもまだ一度も奏でたことがない。 通年して一年以上琵琶を鳴らしていないのだ。 突然、しゅん、と元気をなくしたの様子を注意深く観察した邵可は特に何の問題もなさそうなことに安堵した。 拾った少年の素性を知っている邵可にはいろんな可能性が推定できる。 「何ともないかい」 「琵琶が弾きたい………」 口を開けば琵琶、琵琶というのが息子のいつも通りだ。 憑かれたように琵琶に異常な執着を見せるのはまだ紅州にいるころから変わらない。 自分とまた違った意味で最も紅家らしい子だと思う。 「むりよ。だってより琵琶のほうがおおきいのよ」 「でも弾きたい…………」 頼りない子供の手を見下ろして本当に悲しそうな息をついた。 「ほれ、はようせぬと日が暮れるぞえ。何をぐずぐずしておるのじゃ、今夜は街に入ると言ったのはおぬしであろう」 妻からの叱咤に邵可は馬車の御者席に戻って、手綱を取った。 運び込まれた少年が目を覚ますまでもう少し。 |
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