彩雲ノ章







「支度金だけ渡して龍蓮を旅に出したあ!?アホかっ!」

藍家本邸に朝っぱらから場違いな大声が響いた。
その声音を持つものは藍家直系男子に実は二人いるのだが、その口振りから姿を見ずとも邸内の家人は正体がわかっていた。



朝食の席に末の弟の姿がないことに気がついたが兄等に問い質すと予想もしない答えが返ってきた。

「楸の兄貴は!?知ってたのかよ?」

自分の前に座るすぐ上の兄に訊くと、驚いた様子ながらも慌てず騒がず遠い目をして答えが返ってくる。

「今更驚かないよ。いつか仙人になる術を求めて旅に出るとか言ってたし」
「だけど……………まだこの前四歳になったばかりじゃないか!」
「あれを普通の五歳と考えてはいけない」

楸瑛のごもっともな発言にぐっと詰まっただったが、今度は三つ子の兄達に訴える。

「楸の兄貴が貴陽まで無事に行けちゃったから龍蓮にもできるとか思っちゃってんのか知んないけどさ!あれは迅という優秀な護衛が付いていてだな!」
「あの、君ね」
「一応龍蓮はまだ四歳!チビだし、武術の心得もまだないし、何よりまともな人間関係も築けない歩く非常識がどうやって生きてくんだよ!?」
「勿論、護衛に影はつけたよ」

楸瑛を無視して語気荒く言うに、かちゃ、と茶器を置いた三つ子の内の一人−−−恐らく雪那だろう−−−が静かに告げる。

「この藍家では、龍蓮の世界は狭いままだ」

ぴく、との下瞼が震え、口を噤む。

「それは……………わかっていたけど」
「ここで当主にもならない『龍蓮』がいて何になる?」
「日がな一日笛を吹いて暮らすかい?」
「荒療治だが、本人もそれを望んでいた」

ぐっと唇を噛むと兄を見比べて楸瑛はわからない、といった様子だ。
その楸瑛の頭を兄達の一人がいずれわかるよ、と軽く撫でに向かって容赦ない言葉を続ける。

、君は『守る』ということが好きなようだね」
「でも、ずっと君に『守られ』ていることは幸せかな」
「龍蓮は君が言ったとおり少々人との付き合いに隔たりがあるが、君が『守る』必要があるような存在ではない」

心に覚えのある言葉にの額に冷や汗が浮かんだ。
それに気づいていながら三つ子たちは口をとめることはない。

「鳥がいい例だよ、。飛ぶ力がない内は親が餌を取って来てくれる。だが同時に巣から突き落として飛ぶ練習もさせるんだ。そうして雛は自分の翼で飛ぶことを覚える」
「そうしたらもう餌はあげない。自分で取って来させるんだ。そしていずれ巣立つ。親がいつまでも餌を用意して自分で取ることを知らないままだったら、きっとその鳥は親がいなければ死んでしまうね」
「龍蓮はもう『飛べる』んだ。巣の中に閉じ込めるのは却って酷だよ」

俯いたに、雪那はそっと言い添えた。

「それに……………守ってばかりは疲れるだろう?」
「そう、いうことかよ……………!」

わなわなと震えるは、椅子を蹴たてて立ち上がると駆け足で朝食の間を出て行った。

!」

おろおろと心配そうな楸瑛と半開きの戸を見て三つ子が揃って溜め息をつく。

「やれやれ、いじめ過ぎたかな」
「楸瑛、のところに行ってあげてくれる?」
「今は何も知らない楸瑛のほうがいい」
「はい!」
「「「あ、待って」」」

勢いこんで部屋を出掛けた楸瑛に後ろから揃って声がかけられ、振り返った楸瑛は飛来した白いものを見た。
ばらばらな方向からタイミングよく飛んできた白いものをぎりぎりで受け止め、まじまじと見つめる。
兄達の意に気づき、楸瑛はにっこりと笑うと、そのまま部屋を後にした。



「そーゆーことかよ…………」

縦長の飛び石が池の底に埋められ、まるで水面を歩くような高さで池の中心に沈められた大岩までの道になっている。
はその大岩の上に膝を立てて座り込んでいた。

。やっぱりここにいた」

さほど探すことなくを見つけた楸瑛は、背格好は自分と同じはずなのに、いつもより小さく見える弟に呼びかけた。

「俺は鬼畜な兄貴たちに苛められて絶賛傷心中なんだ。ほっといてくれ」
「絶賛傷心中って…………。はい、その鬼畜な兄達から差し入れ」

首だけ振り向いたの前に饅頭を三つ突き出すと自分も岩の上に腰を下ろす楸瑛。

「そんなに心配することもないと思うけど。ほら、もとが糸が切れた凧みたいな性格してるから。仕方のないことだと思うよ」
「今の話題はそれじゃねー……」
「え!?」

は池を眺めたまま呆れたように言って、差し入れの饅頭を口に運ぶ。
そういえばろくに手をつけないまま席を立ってしまったから空腹だ。
がぶっと一気にかぶりつくと中の餡が見える。

何故、小豆餡。
朝食のチョイスにあんまんかよ、しかも三つとも同じだし。
あいつら甘いの苦手だから押し付けやがったな。

もぐもぐと口を動かしながらそんなことを考える。

「ん」

さすがにあんまん三つは食えない、と楸瑛に一つ差し出す。
その意を汲み取って受け取った楸瑛は自分も口に運ぶ。

「で、どうしたんだい」
「うわ、直球。もう少し相手を慮んばかってソフトに訊けよ」
「そふと…………?」

外来語がわかるはずもない楸瑛が首を傾げるのを横目には遠くに視線を投げる。

「思いっきり図星突かれたから、何にも言えなくなって逃げ出しただけだよ」
「そうか」

それだけしか返さない兄を振り向いて、意外そうな声で言う。

「下手に賢しい奴より兄貴みたいな奴の方が話しやすいかも」
「…………私が賢くないって言いたいのか」
「少なくとも人生経験においてまだまだ未熟ではあるな」

可愛くない。
なんで私の弟はこんなに可愛くないのばっかりなんだ。

ムスッとした楸瑛に笑って、は語り出した。

「俺には弟がいたんだ」
「また前世の話?」

なかなか子供であることを受け入れられなかったは、口を開くたび+34歳を主張し、事あることに自称『前世の話』を語った。
勿論、主張した相手と言うのは専ら兄たちなので、楸瑛の何度も聞かされたという表情も道理だろう。

「いいから黙って聞けよ。傷心のサラリーマンに声掛けたんだ、飲み屋三軒はしご分くらい覚悟しやがれ」

わかるはずもないことで楸瑛の口を塞ぎ、再び口を開いた。

「なんていうか、めちゃくちゃかわいかった。お兄ちゃん、お兄ちゃんって俺の後ろに引っ付いて、守ってやらなきゃって思った」
「なんて羨ましい。それに引き替え君らは」
「やかましい!…………まあ、それも今の俺ぐらいの年までで、その後は兄貴たちの例を使えば『飛ぶ』練習をしていた」
「えーと、確か琵琶が好きな子だったよね」
「ああ。あいつは琵琶を得て『飛ぶ』力を手に入れた。で、『餌』も自分でとろうとして、自分の『巣』も作り始めた」
「立派じゃないか。どこが問題なんだい」
「いいから聞けって。俺は弟の『巣立ち』を前にして不満しか感じなかった。一生懸命育ててきた『雛』が俺の元から去ると、『餌やり』に人生かけてた俺は自分の広くなった『巣』にただいるだけになった。………………それで俺はどうしたと思う?」
「…………………相手の『巣』を訪ねる、とか?」

自信なさげに言った楸瑛の言葉には吹き出し、一通りげらげら笑うと自嘲の笑みに変えた。

「作り立ての『巣』をぶっ壊そうとしたんだよ」
「サイテー……」
「ああ、今自分で思っても最低だ。勿論、心配もあった。過保護だけど素直じゃなかった俺は言う言葉、間違えちまった。そして『雛』は俺を引っ掻いて、俺の『巣』にすら近寄らなくなったってわけだ」
「…………君が悪いね」
「んな事百も承知だよ。でもずーっとわかんなかったんだよな。何で突然『巣立ち』を始めたのか」
「大きくなったからじゃないか?」
「いや、『巣立ち』始めた時のあいつはまだ無理だった。なんか焦ってるように感じて仕方なかったんだ」

饅頭を食べきったは二つ目に手を伸ばし、手で千切る。

「そーだよなぁ、素直なあいつも俺だけには素直じゃなかったんだなあ」

池の魚に饅頭の欠片をやりつつ、自分も口に運ぶ。

「ずーっと『餌やり』すんのは疲れるよなあ……………」

私事を削り、自分に献身的に仕える兄を、あいつはどんな目で見ていたのだろう。
あいつの前では、辛そうな顔も厭そうな顔も、しなかったのに。

何も見えないはずの目は、俺の自分ですら気付かなかった本心を見通していた。

饅頭の屑を池の中にほろって、仰向けになって空を見上げた

この空をあいつは見たことがない。

「なあ、兄貴、知ってるか?目を閉じても俺たちに本当の闇はなかなか訪れないんだぜ」

朝日が瞼を通して赤く見える。
光の残像が、瞼の血管の色が、の目には見える。
には知る術のない永遠の闇の中、弟は何を見ていたのだろう。

「でも、あいつは自分のことをやってなお、俺を気遣う余裕があったってわけかよ……………俺、かっこわりい」


問:何故あいつは俺の手を必要としなくなったのか。

答:俺のため。



『僕のせいにするな!高校いってからは何だって出来たろ!でも兄さんは何にもやってないじゃんか!成績も中の中!運動そこそこで勝手に満足して趣味も特技もないね!?そんな楽な自分を自分が選んだんだろ!!』


『僕の為に何かを犠牲にしないでよ。高校では兄さんの好きなことをして欲しかった。僕の為に諦めないでよ。成績も運動も、自分で好きに極めて欲しかった。僕じゃなくて趣味や特技に時間を割いて欲しかった。僕を理由にして、やりたいことから目を背けないで』



は俯いたまま、拳を固めた左手を額に押し付ける。

「はっきり言えよ…………畜生」

ぱたぱたと膝を濡らすものを乱暴に拭うと手布が差し出された。
素直に受け取って目を拭い、ずびびと鼻をかむ。

「うわ」

横で楸瑛が引きつった顔で声をあげたがそんなこと知ったことじゃない。

「兄貴、決めたぞ」
「何を?」
「もう少し強くなって自分探しの旅に出る」

突然言い出した弟に驚きながらも、きっと兄たちも、そして自分もとめないだろうと楸瑛は確信していた。

「くそー、兄貴達に気付かされてしかも楸の兄貴に人生相談しちまうなんて恥ずかしいじゃねぇか、コノヤロー」
「いいじゃないか、少しは兄を頼りなさい」
「けっ」

やさぐれた態度でそっぽを向くと、岩の上に立ち上がった。
とその時。

の足が楸瑛の服の裾を踏みつけ、体が傾ぐ。

「うわっ」

は岩に体を打ち付けまいと二、三歩よろめき、岩から落ちる直前に原因である楸瑛の衣を掴んだ。

「はっ?」

二人が滑って、池に大きな水しぶきがあがる。
ざぱっと水中から頭が二つ浮かび上がって、二人は水の中で喧嘩を始めた。

「なんで私を巻き込むんだ!」
「さっき頼りなさいって言ってただろ!」
「そういう意味じゃない!」
「大体弟一人分の体重くらい支えろよ」
「体格同じくせに何を言う!」
「そんなびろびろした服着てる兄貴も悪い!」
「何を?君みたいな服装がおかしいんだ!」
「そっちこそなんだ!これはれっきとしたTシャツと短パンだぞ!夏の小学生のスタンダードな服装だ!俺の苦労の結晶だ!」
「言ってる意味が分からない!言っておくが今は冬だ」
「心頭滅却すれば火もまた涼し、冬もまた温しだ!」
「後半作るな!」

冬の、凍るように冷たい池の中でぎゃーぎゃー言い合っていた二人は、お互いにふんっ、と顔を背けあって我先にと岸にあがる。
さっさと上がったは苦労している楸瑛を見て、呆れた顔をする。

「そんなに布面積が大きい服じゃ泳ぎづらいに決まってんじゃん」

言ったは楸瑛の腕を掴んで引き上げる。

「誰のせいだ」
「楸瑛の服」

二人とも体に水草や藻を引っ付けた塗れネズミな姿で、ガタガタ震えながら池を後にした。


その姿のまま兄達の前に戻った二人は、三つ子全員に笑顔で湯殿行きを宣告された。