貴陽の城門を抜けて、一路、紅南区に設けられたという邸へ。 今思えばなかなか密度たっぷりな人生だ。 生まれて一年足らずに紅州の生家をでて、一歳半の秋まで茶州を家族みんなで放浪した。 そして秋口に静蘭という家族が増え、こうして間もなく春の今、当初の目的地である貴陽についた。 これほど幼少期を旅で過ごした子供は滅多にいないのではないだろうか。 でも琵琶をゲットできたのは全て差し引いてもおつりがくるくらい嬉しいからよしとする。 茶州での旅を終えて貴陽に入ってから、はどうもむずむずするような感覚に陥っていた。 「どうしたんだい、」 「なんか………澄みすぎてて変な感じがする」 貴陽がある特殊な条件下に置かれていることを、は見えず――――『視えず』とも悟っていた。 邵可は本当に嫌そうなを見て、珍しいものだ、と思いながらも「大丈夫、すぐ慣れるよ」と頭を撫でた。 紅家別邸に到着した一行は、この先自分たちが住まうことになる邸の前で馬車を降りた。 邸は本家から遣わされた使用人によって住居として完全に整えられ、今日からも日々の生活が出来る様子だ。 「姉様、どんなお邸?」 「だだっ広ーいわ」 何とも端的かつ的確な表現を返してきた秀麗に頷いて、邸の間取りを頭に入れなきゃ、と覚悟しただった。 「母様、僕のお部屋はどこ?」 「あっちじゃ、秀麗と一緒に行くがよい」 姉と手を繋いで邸の中にとことこ入って行ったを見て、使用人たちが畏怖の視線を向け、僅かなさざめきが走る。 馬車の傍で所在なさげに突っ立っている静蘭に、薔君はびしっと扇を向けた。 「妾と邵可は邸のことをせねばならぬ故、世話役を任せたぞ」 何とも勝手に言い切って、薔君は滑らかな髪を翻して廊下を去っていく。 仕方なく、静蘭は二人の幼子を追いかけた。 静蘭がはしゃいだ様子の幼子たちに追いつくのは簡単だった。 何がおもしろいのか、あちらこちらの扉を開けて中を覗き込む姉。 「ここはお料理をするところ!」 秀麗の言葉に、は厨房の位置を玄関からの記憶に照らし合わせる。 頭の中で立体的な空間を作り出し、そこに細かく部屋の位置を当てはめていった。 「、はやく」 ぱたぱたと駆けていく秀麗を追いかけたが段差を察知し損ねてずてーんと前にすっ転んだ。 顔面から容赦なくスライディングした子どもを、後からやってきた静蘭が無言で抱き起こす。 「ありがと。静蘭」 「………………」 「ごめんね、。ゆっくり行こう」 今度は秀麗に手をひかれてとことこと歩き出す。 が周りを察知できるようにゆっくりと。 静蘭が転びそうになるたびに抱きとめてくれて、微笑みを浮かべて礼を言っても返事こそないが気をつけてくれているのだろう。 「こっちがわたしのお部屋、はこっち!」 は自分の部屋に足を踏み入れて、手を鳴らしながら歩き回る。 ぱん、ぱんと手を打ち鳴らして、壁が近づけばぴたりととまり、壁に手を当てて窓や棚をぺたぺた触っていく。 出会った当初は何をしているのかわからなかった静蘭でも、今はこの意味が分かる。 この子どもは盲目だった。 しかし、それを補って余りあるほどの聴覚、触角。 部屋の中をうろついていたが足を止めて静蘭を振り返る。 「いい部屋だね」 隣の部屋から秀麗もひょっこりと顔を出し、静蘭を見つけるとその顔が綻んだ。 「いなくなっちゃだめ。静蘭はこっち」 ぐいぐいと引っ張って、秀麗がさらにもう一つ奥の部屋に進む。 秀麗たちの部屋とほぼ同じ間取りのそこは。 「静蘭のお部屋。だからね、いなくならないで。ケガ治ってもここにいて。静蘭がいなくなっちゃうの、いやだもん。静蘭はもう家族だもん」 秀麗が静蘭の腕にギュッと強くしがみつく。 も真似てもう片方の腕にしがみついた。 両腕に子どもをひっつけた形になった静蘭は身じろぎもできず、表情には出さぬまま内心困った、と思った。 「大丈夫だよ、きっと母様が逃がさないよ。ね、母様」 扉の方に投げかけたの言葉に、薔君と邵可が姿を現す。 「当たり前じゃ。家出なんぞ百年早いわ。妾の子どもにそんなことはさせんぞ」 「みんな色々常識外れで迷惑をかけるかもしれないけれど、これからもよろしくね、静蘭」 「おぬしがそれを言うか、アホタレ!一番常識はずれなのは誰じゃ!」 「ひどいな、私は君だと思うけど」 「何じゃと!」 「姉様、僕と姉様は普通の常識人だよね?」 「じょうしきじん?」 静蘭にとってはどれも常識人ではない一家がする言い合いに、静蘭の顔が薄く綻んだ。 それはずっと注視していなければ気付かないほどのささやかなもの。 しかし、着実に氷は溶け始めていた。 日差しが強くなり始めた、初夏。 は琵琶を引っ張り出し、小さな手で寝台にねかせた琵琶を琴のように爪弾いていた。 曲にもならない音がぽろぽろと零れるだけでは満足していない様子で、はふてくされたようにコテン、と布団の上に寝転がる。 まだ、こんなにも小さい。 数えの上では三歳でも、満年齢では二歳に満たない。 創喜からもらった琵琶は子ども用ではなかったから、大きくて膝の上に置くことなんて出来ない。 爪弾く琵琶の正しい持ち方は、椅子に腰掛け足を組み、組んでできる低い窪みに琵琶を縦に置いて、下で掻き鳴らす右手と顎の辺りで弦を押さえる左手で音を奏でる。 膝に立てたら左手の高さが高すぎて大変だし、第一支えきれない。 前、静蘭に何か欲しい物はありますか?と聞かれて、思わず大きいカラダと答えてしまった。 食卓に広がったあの静寂は今でも忘れられない。 「若様、奥様がお饅頭を作ると――――若様?」 顔を出した静蘭は、出会った頃の人形っぷりが嘘のように表情を取り戻している。 一日一笑顔と決めた薔君の言葉がなくても、笑顔を浮かべられるようになったのだろう。 ちなみに一笑顔のたびには静蘭の顔に触れて、筋肉の動きから本当の笑顔かどうかを判断し、作り笑顔だと容赦なくダメ出しした。 そして今の静蘭は、邵可を旦那様、薔君を奥様、秀麗をお嬢様、を若様と呼び、家人としての位置におさまった。 といっても、他の家人とは違って雑用などをやるのではなく、専らの仕事は秀麗との世話、それと夫婦の晩酌の付き合いである。 静蘭は部屋に入ってくると、寝台で横になっているを抱き上げた。 小さな体は、いとも容易く持ち上げられる。 むう、と頬を膨らませたを床に下ろして、静蘭は琵琶を片付けた。 「若様は本当に琵琶がお好きですね。何なら子ども用に小さなものを買ったら如何です」 「……………ヤダ。これがいい」 一瞬琵琶が弾けるというのに心揺れたように見えたが、ふるふると首を振って静蘭の手にある包みを見る。 昔は弾ければ何でも良かったのに。 この琵琶を見てからはこれでなければ駄目だと思ってしまう。 棚に琵琶を戻して、静蘭はの手を引いて厨房に促した。 「、今日はみんなで饅頭をつくるのじゃ」 支度が整っている厨房に使用人の姿はなく、邵可と薔君、秀麗がいた。 「わらわは秀麗と作るから、は静蘭と作るがよい。おぬしは味見係じゃ、邵可」 薔君の言葉に秀麗はいそいそと饅頭作りを始める。 秀麗の容態がいい時、合間を縫って、時間を惜しむようにしてこうやって家族揃って色々な事をする。 が饅頭作りに参加するのは初めてだった。 前回までは邵可とともに味見係だったのだ。 「生地は私が伸ばしますから、若様は餡を包んで下さい」 「うん」 というより、料理自体初めてだ。 用意されている餡を器用に包んで蒸籠に並べた。 竈においてある鍋に置き、二人は蒸しあがるのを待った。 「出来たぞ、二人も食べるのじゃ」 秀麗たちの蒸籠が火からあげられ、らの前に差し出される。 皿にのせられたほかほかの饅頭手を触れるとそれが丸い形をしていない事に?と首を傾げる。 巨大饅頭を切り分けたかのように感じるのだが。 熱い熱いと両手で持ち替えながらはむっとかぶりつく。 「おいしいよ」 「…………………」 横の静蘭も同様にかじって、何とも微妙な表情をした。 はむはむと平らげたに対し、静蘭は二口目にいこうかどうかを迷っているさまも伺える。 味見係に任命されていた邵可は妻の饅頭をつまんで、なるほど、と静蘭の表情のわけを悟った。 薬味の強い香りと肉汁が溢れて、漢方薬でも入っているのだろうか、苦味もある。 普通の肉まんを想像していれば衝撃を受けるかも知れない。 次に秀麗の拳大の饅頭を口に入れる。 こっちは『普通に』おいしい。 味覚は鋭敏ながら、味に頓着しない邵可だが、これを食べるであろう秀麗と静蘭を思って薔君に告げた。 「秀麗の方がおいしいじゃと?一緒に作ってそんなことがあるわけなかろう」 「あのね、何でもかんでも入れ過ぎなんだよ、君は」 「薬の味がします…………」 「おいしいのに」 早くも二かけ目に手を伸ばしているに、邵可と静蘭はえ、と固まった。 もしかして視覚だけじゃなく味覚も………?なんて思ったところ、は指を折って何かを言い並べ始めた。 「棗でしょ、山査子でしょ。山椒に生姜に……………すりおろし大蒜も入ってる?あとはお肉に細かく刻んだ筍。葛根湯に使う漢方も入ってる」 静蘭はさっと卓の上に視線を滑らした。 そこには確かにが挙げた食材が並んでいた。 何故生薬があるのかは激しく謎だが。 「すごい、よくわかりましたね」 「うん、視覚を除いた五感は鋭いと思う。……………あ、時間」 食べかけの巨大饅頭(の一部)を皿に戻して、はパタパタと自分の蒸籠に駆け寄る。 蓋を開けるとマトモな大きさの饅頭が蒸し上がっていた。 蒸籠の中から出したそれを皿に盛り付けて、静蘭は一つを手に取った。 秀麗同様にマトモな見た目。 しかしあれを美味しいと言う作の餡。 果たして味は、と口に運んだ。 かきん、と静蘭が動きを止めた。 まさか、と邵可が饅頭を口に入れた。 秀麗も食べようとして、邵可が制止した。 思考が停止している静蘭はともかく、味の許容範囲が広い邵可は冷静に味を分析した。 ゆっくりと咀嚼しながら、先ほどののように内容物を把握していく。 (なるほど、静蘭が固まるのも無理もない) の饅頭は生薬がこれでもかと詰まっていた。 奇跡的に食べ合わせ(?)の悪いものはなく、ばらばらに服用すればさぞ体に良いものばかり。 苦いんだか辛いんだか甘いんだか酸っぱいんだか、とにかく未知の味で、薔君の巨大饅頭など可愛いものだ。 は邵可の前で躊躇いもなく口に入れ、美味しい、と笑った。 これが演技なら我が息子ながら対したものだ、と邵可は思う。 の味覚は正常だが、その嗜好は分度器をぶっ壊して角度測定不可能、彼にしか理解できない位置にあるのだった。 因みに静蘭は片手に饅頭を持ったまま四半刻ほど硬直しており、動いたと同時に白目を剥いて気絶したのだった。 に何かを作らせると、見た目はマトモ、中身はトンデモが出来上がるため、厨房に近づけないようにするのが静蘭の今後の役目となった。 それからはふらふらと街に出歩くようになり、しょっちゅう静蘭に連れ戻されるようになった。 自分一人で帰り路は分かると何度主張しても、静蘭は納得しない。 秀麗が寝込んでいる時にそっちにつきっきりの隙を見て抜け出すようにしている。 そして彼に出会った。 夏の暑さの中、人の多い街中に行く気にはなれず、二歳という小さな体で龍山に来ていた。 木々が日差しを遮り、涼しい風が吹き抜ける。 澄んだ空気。 そしてそのおかげで響く音までが澄んでいる。 ここで琵琶が弾けたらどんなにいいだろう、とは強く思った。 琵琶が一番大好きなだけで、どんな音楽も大好きだ。 なんでもいいから聴きたいな、と思った時に、笛の音が聞こえた。 正しい音。 きちんと整列した音の羅列。 はっと顔をあげると、人の気配が少し離れてした。 かさ、と葉を踏む音が聞こえて、歩きながら誰かが笛を奏でているのだろう。 「――――少年」 笛の音が止むと同時に平坦な声で呼びかけられた。 その呼びかけた声は、まだ若い。 「どうぞ、続けて」 笛の主の言葉を無視して、は笛を奏でるよう促す。 今、何かをつかみかけた。 そうして続く、音。 丁寧で、完璧で、静かすぎる。 しばらくの演奏の後、息をついたは、きっぱりと笛の主に告げた。 「あなた、音楽に嘘をついていらっしゃいますね」 琵琶奏者として、人に語り聞かせたり、インタビューに答えたりするときのための口調。 一色慧の口調は本当は十六歳で死んだときのものだったけれども、琵琶を弾く時、大人の中でなめられないように、自然と身に付けた口調。 「あなたの音はそんなに完璧ではないでしょう。確かに整っている、手本通りの吹き方です。上手い人たちをたくさん聞いてきたから分かります。あなたの音はもっと不安定で掴みがたい、そんな音ではないはず」 「初対面の君になぜそのようなことがわかる」 「それが音だから。色とか表情では分かりませんが、真実の音は分かります。あなたの世界を創ればいい。あなたの音で、あなたの胸の内を表現すればいい。………………あなたの心はそんなに完璧なだけのものですか」 の言葉に笛の主は気分を害することはなかった。 再び笛の音が奏でられる。 ぷひょろりぴひゅるぴるー。 静かな、澄んだ空間にふさわしくない音。 滅茶苦茶な、奏法も音階もあったものじゃない。 子どもが適当に吹いたとしてもここまで変な吹き方はしないだろうというそれ。 耳の良いものにはさぞ苦痛であろうその笛に、はほほえみを浮かべた。 そう、この音は嘘をついていない。 何処が終わりかもわからない音に区切りをつけた笛の主は、どうやら本人でもそれを自覚したようだ。 「真の音を聴かせると誓った。あのままでは私は誓いを破るところだった。礼を言う。少年」 「楽器は思うままに吹いた時が一番の真実なんです。私の音が常に自分の世界を創り上げてしまうように、音は必ず個々それぞれの世界を創る。音くらいは、自由に奏でていいとは思いませんか?」 大人びた口調で語る二歳の子どもを、笛の主はどう見ただろう。 「君に『楽の友その一』という称号を与えよう。いずれ、君の音も聴かせてほしい」 何とも思っちゃいなかった。 笛の主の言葉に、は微笑みを浮かべて喜んで、と答えた。 くるり、と踵を返したがもう一度音を探ってみると、もう人の気配はしなかった。 が自分の音を奏でるまではもう少し、時間がかかる。 |
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