龍蓮が旅立って半年、は十歳になっていた。 背格好は十三歳の楸瑛に負けてない。 むしろ、身長はちょうどこの前抜いたばかりだ。 龍蓮がいない今、一番のチビになった楸瑛は色々とショックだったらしい。 「何故そんなタケノコみたいににょきにょき伸びてるんだ、君は!」 「知るかよ。ていうか“にょきにょき”は何かいっぱい生えて来そうだから“すくすく育つ”にしてくれ」 なんて口喧嘩を繰り広げた。 剣稽古には以前よりは真面目に励み、稽古試合をすれば、兄の親友司馬迅相手に十本中三本はとれるようになった。 楸瑛とは五分、もしくはの方が少し強い。 でもこれはあくまで木刀や刃のついていない剣で試合をした場合。 真剣での勝負は、楸瑛相手にも負けっぱなしだった。 それには真剣を持っていない。 楸瑛や迅が持っているのは正真正銘斬れる業物だが、の腰に仰々しく差さっといるのは、見せ掛けのナマクラ。 柄の意匠は豪華だが、いざ抜いてみると大根も斬れない。 刃を一切磨き上げていない、ただの鉄塊だ。 このいかにもの内心を表したかのような剣は、藍家御用達の刀工の作品で、貴陽へ向かう楸瑛が新しい剣を打ってもらうのと共にに与えられた。 三つ子の兄は特に何も言わず、この子にも剣を、と言っただけだったのに、その刀工は「お前に真剣はまだ早い」と言ってこれをくれた。 それを自身納得し、これを腰に差している。 真剣を使うのは、まだ決心がつかなかった。 ある初夏の日、宛てに文が届いた。 と言っても、直接の手元に来たわけではなく、久しぶりに賭場に行ったらお前宛てに届いている、と胴元から渡された。 随分遠くからの文だったのだろう、何度も早馬を乗り換えて届いたようだ。 その文の表書きには碧家の家紋。 差出人は碧創喜。 は何気なく開けようとしていた指を強ばらせ、文は手から滑り落ちた。 碧家楽器職人、碧創喜。 彼と会ったのは藍州下町の賭場。 そう、文が預けられていた場所。 成り行きで彼の借金を返してやったは、賭場での稼ぎ金で、彼に一つの頼みをした。 『あんたの作った楽器を受け取った奴の中に、琵琶に異常な執着を見せる奴がいたら教えてくれ』 気まぐれで口にした頼みだった。 言ってから自分で少し戸惑った。 自分と同じ時に現世を離れた弟が、もしこの彩雲国に生まれていたら、そして自分のように記憶を失っていなかったら。 間違いなく琵琶を求めるだろうと思った。 後から思えば琵琶なら職人から直接買わなくても手にはいるのに、弟のような弾き手は創喜の作品こそ相応しいと思ったのだ。 今の弟、龍蓮が彼の笛に引き付けられたように。 賭場で創喜の借金と渡した前金を除いての金二百五十両ほどの金は実はあのまま取ってある。 創喜が見つけると期待していたわけではない。 いるかどうかもわからない。 なのにいつか行くであろう旅の為にわざわざ賃仕事までして金を貯め、それには手をつけなかった。 あの金に手をつけるのは、弟の――――慧の存在を遠ざける行為に感じていた。 ぐっ、と唇を引き結んで、文を拾い上げる。 長椅子に腰掛けて、文の中身に目を通し始めた。 『先ずは直接知らせにいけない事を詫びる。こっちも色々あってな』 文はそんな言葉で始まっていた。 『頼まれた琵琶の弾き手は次の旅で会うことができた。と言っても本当にお前の探している人物かは保証できない。その旅で俺の持っていた琵琶に興味を示したのは一歳前後 の赤子だった』 そこまで読んで肩から力を抜く。 一緒に渡ってきたのに年が離れすぎている。 慧じゃない、かもしれない。 転生という非現実的な事に、現実の道理を当てはめて、は安堵か失望かの息をついた。 『お前は名も場所もいらないと言っていたが、俺はそうは思わない。お節介だと言うかも知れないが、お前は会いたがっているように見えたぞ。だからその赤子について余計 な事を別の料紙に書く。読むも読まないも好きにしてくれ。因みに金についてはもう一枚の方に記載する』 読めって言ってるようなもんじゃねぇか、と息をついて、仕方なく覚悟を決めて二枚目を広げた。 何を読むよりも先に目に入ってきた『慧』という文字。 は文を食い入るように見つめて、字面を追う。 『会ったのは茶州の関所を抜けたところにある宿屋。家族での旅の途中のようだった。名は『慧』と呼ばれていた。前述の通り、立つのがやっとな赤ん坊だ』 ありとあらゆる言い訳を無視して本能が慧の存在を肯定していた。 震える指では『慧』の字をなぞる。 『生憎絵心がないもので似顔絵はのせてやれない。それともう一つ、俺の思い違いでなければいいんだが』 『彼は目が見えないかもしれない』 ああ、とは天を仰いだ。 実際見えたのは天井だったけれども。 『慧』だ。 もう続きに何が書いてあってもこの確信は揺るがない。 ぱたっと雫が零れ、『慧』の字が滲んだ。 そしてそれは他の文字にも次々と落ちて滲ませていく。 嬉し涙も悲しみの涙にも当てはまらない。 その存在が共にこの世にあることに涙した。 謝罪も、感謝も、本音も。 言いたい事が、言いたくない事が。 あまりにもたくさんある。 「けい、………けい……………!」 手から文を落とすと腕で顔を包むように丸くなる。 涙はただただ流れて、袖のないこの服では隠しきれない。 ようやく泣き止んだ頃には日が暮れて、室内は薄暗くなっていた。 ぱたぱたと、軽い足音がして部屋の扉が開かれた。 「、何で稽古に…………………?」 長椅子の上でうずくまっている弟に楸瑛は驚いて駆け寄った。 「どこか具合でも悪いのか」 「来んな…………あっち、いけ…………!」 薄闇の中でも、の目が真っ赤でまるで泣きはらしたようなのはわかる。 楸瑛は足元に散らばっていた文を拾い上げ、その滲んだ文字に躊躇ったが、読まずに卓に置いた。 「ほら、顔をあげなさい」 そっと両頬に手を当てて顔を上げさせると、自分そっくりな顔が幼げな瞳をして途方に暮れたような表情をしていた。 「おいで」 楸瑛に手を引かれてはなすがままに立ち上がった。 連れて行かれたのは裏にある井戸。 楸瑛手ずから桶で水を汲んで、手巾を浸しての目に当てる。 「君は怒ったり笑ったりはするけれど、君を泣かせることが出来るのは兄上たちだけだと思っていた」 いきなり話し出した楸瑛に、は兎のように真っ赤な目で怪訝な視線を向けた。 「けれど兄上たちには違うと言われたよ。君を泣かせる事が出来るのは後にも先にも一人だけだと」 ついでに顔も拭いてやりながら、楸瑛は続ける。 「君はたった一人の為だけに泣いていると、そう言っていた」 夕闇の中、楸瑛がどんな表情を浮かべているのか、には分からなかった。 「でも、一人で泣くことはないだろう?濡らす袖が無いのなら、私の袖を貸してあげるよ」 いつも話せば口喧嘩になる相手とは思えないほど落ち着いた、『兄』の言葉だった。 は―――――いや、一色嵐は泣かない子どもだった。 三歳ですでに弟が泣くための場所として自分を用意していた。 慧はちょっとすっころんだだけでピーピー泣く。 苛められては、悪口を言われてはすぐに泣く。 しかし、琵琶に関しては何を言われようとも、唇を噛み締めて顔を俯けることなく毅然と前を向いていた。 自分は逆だ、と。 滅多に泣かない。 でも泣くのを堪えて引いてはいけない一点を、自分は持っていない。 いや、『慧』という存在こそ、嵐に取って絶対に譲れないものだったのかもしれない。 また、ぼろっと大粒の涙が零れた。 驚いたように瞬く楸瑛が苦笑して、ぐいっとの頭を抱き寄せた。 自分の肩に顔を埋めさせて、赤子をあやすように背中を軽く節をつけて叩く。 「私の肩はいつでもあいている。……………好きなだけ泣きなさい」 「それは………ッ、女に言ってやれよ…………ッ!」 そう言い返した後は、楸瑛の衣にしがみついて声を殺して泣き始めた。 ここまでしても声を出さない弟に呆れながら、が落ち着くまでずっとそうしていた。 涙の理由は問わなかった。 翌日、は途中までしか読んでいない文を取り出した。 顔から火がでるほど恥ずかしいことに、昨日はあのまま楸瑛の腕の中で泣き疲れて眠ってしまい、負ぶわれて部屋に戻ったそうだ。 と言うのも目か覚めたら自室の寝台の上で、夜が明けていたのだから、が知る由もない。 続きに書かれていたのは、金に関してだった。 『簡潔に言えば、いらねぇ。探し回ったわけではなく、偶然会っただけだからな。あの金は元手からしてあんたのもんだ。その金で旅をして、今度はあんた自身が『琵琶の弾 き手』を探しにでろよ。そして、自分で確認してこい。男には引いちゃいけない時があるんだぜ』 はその文を丁寧に折り畳むと、引き出しに戻して立ち上がった。 代わりに取り出した、金貨の詰まった巾着を持って。 が訪れたのは龍眠山山腹にある、刀工の家。 「何のようだ、坊主」 白髪混じりの頭を向けることなく、戸口に突っ立っているにぶっきらぼうに声をかけた。 「藍としてではなく、ただの嵐として来た」 自身の幼名のみで名乗ったに刀工は初めて振り向いた。 「俺に使える剣を作ってほしい」 刀工の前に巾着を突き出して、これは藍家からの依頼じゃないから、と金貨をジャラジャラと鳴らす。 片手でそれを受け取った刀工は、そのうち精々五十両ほどを取り上げると、二ヶ月後に来な、とに巾着を投げ返してきた。 真実、の為だけの剣を誂えてくれるという了承の意だった。 は深く頭を下げてから、邸へと引き返す。 やらねばならぬことがある。 「迅」 楸瑛と司馬迅が稽古しているところに、がやってきた。 二人とも手を止めてそれを迎えるが、楸瑛はやはり少し心配そうだ。 「相手をしてほしい」 「いいぜ、木刀は…………と」 辺りを見回した迅の前に、一振りの剣が突き出される。 迅の目がすっと細まった。 「これは真剣だぞ」 「これでいい、でも本気でいく」 がはじめて言い出した真剣勝負を、迅は受けた。 「何故、迅なんだ。私でもいいじゃないか」 楸瑛の言葉に答えたのはではなく迅だった。 「駄目だ。こいつが真剣に慣れるまでは」 迅の言葉にも頷く。 は慣れない真剣で本気を出すと言った。 実力的にほぼ互角の者同士が真剣でやりあい、片方が真剣に不慣れで木刀での戦い方をしてしまったら双方に危険が及ぶ。 それを避けるためにも、自分より格上の技量を持つ者との試合の方がいい。 納得したのか、楸瑛は大人しく引きさがり、は腰だめに剣を構えた。 一年ほど剣道を習っていた『嵐』が得意とするのは、中でも珍しい脇がまえ。 公式の試合では使えないこれを主流としたのは、『嵐』自身の剣道を極める気がないという姿勢の表れ。 やる気のない剣道でも体には染みついていた。 遠い間合いで相手の出方を見るのに適した型。 楸瑛の声で双方が打ち込む。 真剣特有の金属音が響き、一合、五合、十合。 そう長く保たず剣を弾かれたのはやはりだった。 「………本当に本気だな」 の一撃一撃には今までのような躊躇いはなく、木刀の時のように相手をねじ伏せるのを狙っている。 真剣の重さに慣れないためか、一振り一振りに無駄が大きすぎるが、確かな覚悟を迅は感じ取った。 今までそれほど熱心ではなく、基礎だけを繰り返し学んでいたが本気を見せた。 はすぐに剣を拾って立ち上がる。 まだ続ける、と勁く語る瞳。 迅は無言で再び剣を構えた。 二ヶ月後。 刀工は一振りの刀をの前に置いた。 鞘からして立派な剣は、抜けば白銀の輝きをもって光を弾いた。 つっと指に滑らせると、大して力を入れず触れただけで朱の珠が浮かぶ。 「強くなったな、坊主」 刀工はこの二ヶ月で随分大人びた少年を目を細めて眩しいかのように見つめた。 子どもらしいとは思っていなかったが、精神的にここまで落ち着いた表情をするのは初めて見た。 「ありがとう」 「もう、抜けるな?」 以前斬れない剣を与えた時、この少年は自分でも「抜かない」と言って納得した。 「抜けない」ではなく、「抜かない」。 「抜けるか」という刀工の問いに返ってきたの答えは。 「ああ、抜く」 腰に刀を差して踵を返した少年の背は大して変わらずとも、二ヶ月前より遥かに大きく見えた。 後にこの刀工は弟子に語り継ぐ。 自分の人生最高の傑作は、剣を嫌った子どもの手にあると。 「龍蓮と違って随分準備万端だね」 剣を手に入れたは旅のための支度はすでに終えていた。 馬に旅用の荷物、その服装からすべてを新調し、その代金には創喜が放棄した金から出した。 勿論まだあまりあるそれは旅費ともなっている。 邸の門前にとめてあった馬の鬣を撫でていた楸瑛が帰宅したに気付いて声をかける。 それには不敵に唇を釣り上げて、笑った。 「龍蓮みたいに笛一つ持ってふらふら出ていく勇気はないからな」 見送りに来ていたのは楸瑛と迅だけだった。 「このままいくのか?」 「ああ、出来れば出発は延ばしたくない」 楸瑛の言葉にが頷いて返す。 「時々便りくらいよこすんだぞ」 「…………俺の記憶が確かなら去年出発した龍蓮からは一度も便りが来ていないと思うが」 「………………いや、一度だけ来た。風流を求めて仙境を探しているとかなんだとか」 「そういう怪奇文は送らないから安心しろ」 兄達は過保護ではないが直系が受けるべき正当な保護―――影が人知れずつくだろう。 が、この弟ならうっかり影を振り切って姿をくらましそうだ。 疑いの目を送る楸瑛に、は笑って邸を見上げる。 「そういえば結構長かったなぁ」 何が、という無粋なことは聞かなかった。 「ここに生まれて四歳で弟が生まれて、そいつが四歳になったと思ったらすぐ『龍蓮』襲名。俺もという名をもらって、兄貴たちが貴陽から帰ってきた。藍姓官吏を引き つれて。そしたら入れ違いみたいな感じで今度は龍蓮が旅に出た。そして今度は俺が旅に出るのか」 感慨深げに藍邸を見上げながら、十年と少しも住んでたんだからなぁ、と呟く。 「好きな時に帰ってくればいい。ここはお前の家だ」 「……………目的果たしたら帰ってくるよ。じゃあ兄貴、上の兄貴たちによろしく」 馬にひらりと飛び乗ると、は躊躇もなく門から駆け出して行った。 夏の九彩江に送り出されて、は生まれて初めて藍州の外へと足を向ける。 まだ見たことのないこの広い世界のどこかにいる、弟の姿を求めて。 |
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