貴陽で夏を過ごして二ヶ月。 食欲の秋、読書の秋、芸術の秋になった。 今まで一所に留まったことのないは、ここが最も長く住んでいる場所となる。 恐らく、この先も。 邵可に言われた通り、今では異常な清浄さにも慣れ、平穏に暮らしている。 時折琵琶を弾こうとして支えきれず、指が届かず、爪が指の太さに合わず、といったことに挫折して落ち込むことがあるが。 今の生活に、は十分満足していた。 近頃、秀麗には友人が出来たらしい。 貴陽の商人、王一家の三男坊で、三太という少年。 三男坊だから、三太。 自分も幼名にしては本当に短すぎる期間だけ、『慧』という名で呼ばれていたが、三太のようにテキトー感バリバリの名前じゃなくてよかった、と胸の内でそっと思った。 秀麗と同い年で今年五歳になった彼は、の視点から言えば、マセガキである。 早熟と言われるのは女の子の方なのに、鈍い秀麗に対してこちらはすでに意識しまくり。 それもちょっかいをかけるタイプの好意を示す男なので、性質が悪い。 秀麗の体調がいい時、みんなで庭院で遊んでいたり街に出たりしていると、何処からともなく勝手にお邪魔しに来たり。 三太の意図にが気づくくらいだから、よりもっと秀麗のことをよく見ている静蘭も承知のことである。 呆れた様子で見守るに比べ、静蘭はさりげなく二人の間を裂くから、三太と静蘭はまるで恋敵のようだ。 残念ながら、一度許しを得て触らせてもらった顔の造形は、遥かに静蘭の方が整っていた。 が庭院の池の傍で考え事をしていると、門の方からごめんくださーい、という声がした。 その声は今さっき考えていた三太で、は仕方なく門に向った。 「姉様ならいないよ」 門を開けながら、開口一番言った言葉に、三太はえ、と声を漏らす。 「静蘭と一緒に市に行ったよ」 「くそ〜、いないのか」 「取り敢えず中で待つ?」 は別に三太の恋路を邪魔するつもりはない。 静蘭と秀麗はともかく、と秀麗は姉弟なのだから恋愛対象にはなりえない。 まあ、静蘭も恋愛対象と言うよりは自分の認めた男以外に大切なお嬢様はやりません、って感じの保護者的感情なのだが。 ふいっと背中を向けたのあとを、三太がついてくる。 「おまえ、なにしてたの?」 「考え事してた。三太の恋が実る確率について」 「う、うるせー!」 可愛くねえ奴、ってぼやく三太には小さく笑みを漏らす。 は秀麗のように年が近しい友人がいない。 秀麗より街中を出歩く頻度が多いなら、近所の子どもと会う機会もあるのだが、ここでもやはりは異質だった。 目が見えないからみんなと同じ遊びはできない。 大人びているからみんなと同じ話ができない。 二歳の子どもなんて、舌ったらずに支離滅裂な単語の並びを口に乗せるくらいしか出来ないはずなのに、は大人と同じように話してしまう。 でもこの国に関しての知識は子ども同然だから大人とも話せない。 「おい、、こんど秀麗がいるときに呼んでくれよ」 「別にいいけど、針のむしろに座りたい?」 間違いなく静蘭に叩き出されると思うよ? そう言って可愛らしく首を傾げたに、三太はおまえって可愛い顔して怖いこと言うよな、と呆れられる。 そう言われたのは今回が初めてではなく、静蘭にも何度か言われたことがあるのだが、今いちピンとこない。 「僕の顔って可愛いの?」 「そこが問題なのかよっ!?あ〜、まあ可愛い方じゃないか?」 は邵可さん似だよな、と言われても大人の骨格と自分の二歳の骨格は違いすぎるから、知りようがない。 静蘭に聞いたら、小さく糸目……と呟かれたので、表情が似ているのかもしれない。 まあ触ったところ変に顔が歪んでるわけでもなさそうだし、容姿なんて自分は気にしたことがないのだからいいのだが。 「戻りました」 が三太を家に上げるよりも先に、門から静蘭の声がする。 げっ、と顔を顰めた三太の横をすり抜けて、は静蘭と秀麗に駆け寄る。 「お帰りなさい」 こっそりと退却しようとしている三太に目敏く気付いた静蘭が、ににこやかな笑みを向ける。 しかし口から紡がれるのはあまりにも辛辣な言葉。 「駄目でしょう、若様。変な虫を邸に入れては。お嬢様の害になりますよ」 無論、虫とは三太のことである。 あんまりな言い種だが、これはもう日常茶飯事の事なので、は驚かない。 動きを止めてしまった虫に冥福を祈り、姉の手を引いて室内に入る。 「姉様、何を買いにいったの?」 「ひみつ。まだ教えない!」 「えー」 そんなことを話ながら、家族が集まる居間ともいえる部屋に入ると、中に先客がいた。 すっと立ち上がった薔君は、秀麗を手招いて膝に乗せると、笑みを含んだ声で尋ねた。 「アレは届いたかえ?」 「うん、作ってもらったの!」 「アレって何〜?」 も薔君の膝に手をついて聞くが、薔君はの頭を撫でただけで答えない。 「今日はあやつも早く帰ってくるであろ。最近読書の秋だとぬかしてますます本の虫になりおって」 邵可は貴陽に来て、朝廷の文官となった。 といっても政治に参加することはなく、秘書省の、文書を保管する府庫を任された重要なのかどうかわからない役職である。 もとよりの読書好きに拍車がかかり、公休日には家に本を持ち帰ってくる。 中には、秀麗やに読み聞かせるための本もあって、何で朝廷の府庫にこんな子供向けの本があるんだろう、というのがの目下の疑問だ。 読み聞かせ役は薔君直々に命を下された静蘭で、彼は難しい漢字も詰まることなくすらすらと読める。 子供に読み聞かせるということに慣れている様子だった。 「戻りました、奥様」 少し時間が経って、静蘭が居間に現れる。 「………………三太は?」 「駆除なら完璧です。虫かごに戻してきました」 つまりは王旦那のもとに連れて行ったということだろう。 道すがら氷のような視線と口調で苛められたであろう三太には同情する。 「静蘭は何を買ったかおしえてくれるよね?」 疑問に確認を込めてにじり寄ったを、静蘭は軽々と抱き上げて、楽しそうな声で秘密です、と言った。 肩車をされて、癖のある髪の毛にしがみつく。 どうやら家族みんな、に秘密で事を進めているらしい。 むぅ、と膨れたは、静蘭の髪の毛をちょっと強めに引っ張った。 「おやおや、なんではふてくされてるのかな?」 帰宅した邵可を交えて食卓を囲んだ一家は、邵可の言葉に子供用の高い椅子で口数少なく食事をしているに視線をやる。 箸と小皿の両方を手に持てば、は目が見えないからといって零したりはしない。 秀麗との小皿に菜を取り分けるのは静蘭の役目で、その様子は親鳥が雛にせっせと餌をやるような微笑ましい光景だから、邵可たちも見ているだけで、手を出さない。 「父様も仲間?」 「父様、しーっだからね、しーっ!」 静蘭を挟んだ席にいる秀麗が、向かいに座る邵可に指を口に当てて強く言う。 その様子で何となくの原因を悟った邵可は、秀麗に頷いた。 「ははは、拗ねちゃったのか」 「拗ねてないもん」 ぷいっと顔を背ける様は完全に拗ねている。 の精神年齢はもう三十三、邵可よりも年上になるのだが、随分幼い。 精神は経験により発達していくもので、内十五年の対人関係ほぼゼロで過ごした期間に何か学ぶものがあるわけがない。 さらに、死亡した時点でも小学校低学年までまるで赤ちゃんのように兄に世話されていたため情緒の発達が大幅に遅れている。 兄と離別した後も母がマネージャーと称して私生活、音楽活動を世話したため、実は兄が思っているほど自立はしていない。 琵琶という自己表現の術を見つけ、社会向けの自分は作ったけれど。 根が甘えん坊の寂しがりやというのもあって、こうして子供として甘えられるなら、遠慮なく子供の特権を利用する。 それを恥とは思わないし、弟であることの慣れというか、おかしいとすら思わない。 現に口調も素のものを使うようになってからは、交差点で人々に語っていた大人っぽい落ち着きなど欠片もない。 見た目に比べればは随分情緒が発達しているが、実際のところは静蘭よりも子供っぽく、精々十二、三がいいとこ。 無邪気さから言えばもっと幼いだろう。 なまじ中途半端に成長しているため、よほどのことがなければこの性格が変わることはなさそうである。 「ほら、後でわかりますから機嫌直してください」 箸でつまんだエビをの鼻先に持ってきたので、遠慮なくパクついた。 それを羨ましそうな顔で見守る秀麗。 その視線を受けて、静蘭は秀麗の前にもエビを差し出した。 満足顔でパクついた。 二人の小皿は用を失い、静蘭はひっきりなしに二人の口に親鳥のごとくエサを放り込む。 「一番上が下二人の面倒を見る。麗しき兄妹愛じゃの」 「いや、一番上が出来る子だと親は楽だねぇ」 「子供じゃありません」 「おぬしは子供じゃ、妾と邵可がそう決めたのだから」 暢気な夫妻に静蘭がビシッと突っ込んでも、まったく話が通じない。 「イヤ?」 あーん、と口を開けて待っていたは小首を傾げて眉尻を下げ−−−目が開いていたら上目遣いに懇願するように−−−尋ねた。 うっ、と詰まった静蘭。 無碍に否定するのが悪のように感じられ、なおかつ夫妻の手前ではそれもし辛い。 「イヤじゃないです…………」 望んだ答えを得たとばかりに頷いたは、餌を待つ雛のように口をパカッと開けた。 静蘭は黙ってその中にタケノコを放り込む他なかった。 静蘭ばかり忙しい夕食が終わって、みんなが食後のお茶を楽しんでいる時。 秀麗がこっそりと席を外した。 その音を聞き取らないわけがなく、首を傾げたに、一家は黙したまま視線を交わした。 「、右手を出して」 戻って来た秀麗がにそういうと、邵可も薔君も静蘭もの前に立つ。 訝しく思いながら右手を出すと指を開いて、と言われてパーにする。 小さなその手にそっと何かがはめられる。 親指は恐らく邵可。 人差し指は恐らく薔君。 中指は恐らく静蘭。 薬指は恐らく秀麗。 それぞれの指の先に何かが取り付けられて、左手に小さな物がのせられた。 それを左手の中で転がして、はっ、と顔を上げる。 琵琶の爪、だった。 「、たまに琵琶寝かせて弾いてるけど、爪がしょっちゅう外れて大変そうなんだもん」 「でも琵琶はあの琵琶がいいと仰いましたから、爪だけ特注品です」 「これで、琵琶はまだ持てずとも、寝かせてなら弾けるのう」 「本当は誕生日の前に職人に注文したんだけど、君の琵琶を見せたら、こんな名品に自分の爪で良いわけがない、って言い出して、碧家の職人に連絡をつけて作ってもらったらしいよ」 遅れちゃったね、もう秋だ。 そう言われて、呆けたさまのの表情が徐々に歪む。 くしゃっと目をキツく閉じてわぁわぁ泣き出した。 「、どうしたの、気に入らなかった?」 心配そうに尋ねた秀麗に、は凄い勢いで首を左右に振る。 「ちが……っ!嬉し……っくて」 左手にある本当に小さな爪を自分で右小指に着けて、指をバラバラに動かしてみる。 大人用の手甲と違ってずれる事はない。 は満面に笑みを湛えて、左手で右手を大切そうに包んで言った。 「あり、ありがとう」 体が大きくなって、琵琶が支えられるようになっても、爪はやはり大人用では大きすぎる。 問題の一つを解消して、琵琶にまた一歩近付いた。 「それにしても、一体どこで琵琶の弾き方を知ったんだい?」 ぎく。 今まで邵可たちの前で正式に弾いたことはないが、なんども挑戦アンド挫折を繰り返しているさまを見れば、が琵琶の知識に豊富であるということがわかる。 盲目のは見よう見まねとは言い難く、それに邵可が琵琶を弾いた姿は一度たりとも見たことがない。 さらに薔君が秀麗に教えているのは二胡だ。 「えっとね、そのね」 「うん」 「び、琵琶仙人……………」 物凄く苦しい言い訳だった。 案の定、静蘭と秀麗は首を傾げている。 しかし、邵可と薔君は少し違うようで、遠い目になって納得したように頷いた。 「なるほど、琵琶仙人ね…………」 「そういえば言っておったな…………」 は知らない。 まだ一家が紅州にいた頃。 変な抱き方、気持ち悪い接触をする紅黎深はに嫌われていた。 その嫌われ方は、黎深が部屋に入るとが嫌そうにむずがるくらい。 何度も精神的ダメージを食らった黎深は、弟の玖琅が秀麗とに琵琶を聴かせて喜ばれているのを見て、二番煎じながらそれを実行した。 琵琶を腕に抱えて弾きながら部屋に入れば、も嫌がらず近づきを許す。 むしろし嬉しそうに這い這いをしてくるので黎深は馬鹿の一つ覚えのように琵琶を弾いた。 呆れた邵可が普通にすればいいんだよ、と言ったら、黎深は自信満々にこうのたまった。 『いいんです、兄上。こうやって琵琶を聴かせて、ナゾの琵琶仙人とでも覚えられていれば。で、私の琵琶の音が頭を離れなくなった頃に、日々琵琶を聴かせてたのは琵琶仙人ではなくて、優しい優しい叔父様の私なんだよ、って自己紹介するんです。フフフ………』 悲しいかな、結局黎深が自己紹介する前に一家は紅州を出てしまい、その機会は訪れなかったのだが。 がそんな裏話を知るわけがなく、大人達の会話から琵琶の弾き手を叔父の紅黎深と理解している。 声音も記憶しているため、実を言うともう自己紹介の必要はないのだが、それこそ向こうは知る由がない。 向こうが自己紹介したいなら、琵琶仙人として覚えていてあげようと思っただった。 ともかくも、上手く話題が逸れてくれたようなので、よしとする。 |
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